4.怪物たちの狩り場
山の中腹にそり立つ赤い岩の崖の下に、その隧道は大きく口を開けていた。
馬車が並んで通れるほどに幅の広いトンネルは、実は古代の遺跡であった。その証拠に壁は磨いたように滑らかで、計ったようにきれいな円や直線を描いている。この精密な造りは全大陸の遺跡に共通するもので、今では考えられないほど高度な技術がはるか昔にあったということを、数千年の時を越えて人々に伝えていた。
しかしこのトンネルに関してだけなら、いくら造りが細かくともそれは道に過ぎない。何が出土するでもなく、とりわけて形が美しいわけでもない。場所が場所だけに峠越えの旅人が来るばかりで、通行止めになった今ではそれすらいなかった。
***
ヴェクたちはトンネルに到着するや、その手前の浅いくぼ地に馬を止める。円形に吹きだまったピンクの砂地には、腐った臭いと茶色と白の何かが広く散らばっていた。
地面に降りたヴェクは、周囲に散らばる白い骨や干からびた毛皮へと目を投げ、さらに茶色のものを指ですくい取って確かめた。なにせ顔をしかめたくなるほど強烈な鉄と内臓の臭いだ。その正体など知れている。彼は馬に乗ったままの少女たちへと声を張り上げた。
「こいつは怪物の血だな。まわりの食い残しもけっこう時間が経ってるぞ。二人がこっちに来たってんならまだ無事か――」
「うぇぇっ…………ちょっとごめん」
それを聞き終わらないうちにラファムが馬から飛び降り、口を押さえて一目散にくぼ地の縁の向こうに走っていってしまった。ソシアも気分が優れないのかハンカチを手放せない様子だ。
ヴェクは平然としていられるが、それは単に辺境育ちで血の海に慣れているだけの話だ。いくら王立大でも実習に死体の山を用意しなかったし、彼女たちを責めるわけにもいくまい。
そんな事を考えていた彼は、足で残骸を転がしていてふと妙なことに気付く。
「ほとんどボイックの死体なのに、ちょいちょい喰う側のが混じってるな。まぁ共食いもする連中だからな、別の群れが鉢合わせしたか……そっちはどうだソシアさんよ」
「足跡は消えていますが蹄の跡はトンネルへ向かっていますね。それと地面にいくつか引きずった跡がある――ここが化け物の狩り場なのは間違いないようです」
――マズいな。道が使われなくなったんで山の下から出張って来やがったか。
ヴェクは一気に高まるいやな予感に、そっとホルスターに手を伸ばして言う。
「とにかく離れようぜ。留まるのは危険――」
だが突然に鳴ったガァンという銃声に、彼は声も半ばで二丁魔銃を抜き放った。警戒するのが遅すぎたのだ。狩り場の主人が戻ってきたのは明白だった。
「俺のメルを頼む! トンネルに行け!」
叫ぶヴェクから手綱を預かったソシアが、馬たちと共にトンネルへ向かう。ヴェクは血だまりの中心へ走ると、銃を手に一足飛びに戻ってきたラファムと背中合わせになって彼女に問う。
「数と種類は?」
「正面に五、裏取りが三、オオカミモドキだよ!」
「ヒツムかよくっそ面倒だな、奴らは連係で詰めてくるぞ。突出した奴に気ぃ取られんなよ」
「そっちこそ、でっかい口にビビらないでよね」
ほどなく、でっかい口とラファムが評した獣がくぼ地を囲む岩のかげからそろりと、そしてゾロリと鋭い歯を並べて何頭も姿を現した。全身の筋肉が馬鈴薯のようにゴツゴツと盛り上がった、大きさが馬ほどもある灰色の狼。人里に現れる普通の獣とは明らかに様子が違う。
これが〈砂漠の怪物〉と呼ばれる荒野に適応した獣の姿だった。フレアヒェルの荒野に住む動物たちはあきれるほど巨大に成長し、その気性は一部をのぞいて非常に荒々しくなる。人が数千年の歴史を重ねながら荒野を征服できないのも、だいたいは彼らのせいなのだ。
巨大な狼が正面に五頭。ヴェクは油断なく照門越しの視線をめぐらせる。
あの巨体が相手では、模造銃なら傷つけるのがやっとで、魔銃でも急所を狙う必要がある。さらに群で行動する習性があり、人間ほどではないが知恵も回るから厄介だ。
そう考えたそばから一頭がこれ見よがしに動き、それとは別に一頭が左から突進してくる。片方はフェイントだ。
「そっちかよ!」
あっという間に迫りくる獣に、彼はあわてて左銃を向けた。戦いの口火を切る三連射。狙いはブレたが、一発が相手の上あごを貫通して脳と血をまき散らす。
「こ、いつは……キョーレツだな畜生」
だが攻撃の成功とは裏腹に、ヴェクは左手の馬に踏まれたような鈍く強い痛みに、歯を食いしばって耐えていた。強い弾薬を使う魔銃の反動は模造銃の比ではない。とっさに撃ったはいいものの、姿勢を崩しての射撃では思うように衝撃を殺しきれなかったのだ。
「なにバカやってんの!」
図らずも自爆してしまったヴェクに文句を飛ばしてくるラファム。彼女の射撃は独特だが見事だ。剣術の突きの姿勢で踏んばり、魔銃が強壮弾を吐くたびに反動を手首から肩へ、そして背筋を伝わせ足へと逃がしてステップを刻む。その足音だけで彼女がクセのある銃を使いこなしているのが伝わってきて、ヴェクはツバを吐くと気合いを入れなおした。
「いってくれらぁ、ペッ……おらっしゃぁぁぁっ!」
下がろうとした囮役に右銃で数発を浴びせてノドを撃ち抜く。二丁銃術でもメインの攻撃は利き手が基本。先ほどのように取り乱さなければ、彼とてラファムと変わらぬほどの使い手。二度と無様をさらす気はない。
仲間の半減に警戒してか、獣たちは次々に岩の陰に飛び込んで身を隠していく。相手がひるんだ隙をつき、二人は再装填のために連係の姿勢を取る。
「残弾、こっちは二」
「左に五、右に四だ。まだいけるぜ」
「なら先にこっちが込めるね」
ラファムがしゃがみ、ヴェクは全方向を警戒する。初めての相手にも互いに息をピッタリと合わせられるのは、互いに王立大での訓練があるからこそ。カバー役としてヴェクは一段と鋭く神経を張りつめさせる。
その途端に、彼はそよぎはじめた風に、妙に甘ったるい、それでいていがらっぽく鼻にからんでくる不快な香りを嗅ぎ分け、思わずとまどった。
――なんだこいつは……いや、これはどこかで……。
髪の毛が予感にざわりと逆立ちはじめる、彼は反射的にラファムに叫んでいた。
「やばいぞ息止めろ!」
「は? 何言って――」
後ろからの文句は、直後に聞こえたゴウッという先触れにかき消された。間を置かずに山の頂から、砂嵐にも似た突風が|くぼ地めがけて落ちてくる。
ヴェクは一気に濃さを増した香りの正体を、唇にピリピリとした刺激を受けて思い出す。
少年の頃に出入りしていた娼館。
媚薬を作っていた老婆。
ドロドロに汚れた鍋と、汚らしい茶色の中身。
触っただけで老婆に頬を叩かれ……。
――悪魔の麗花……そう、あの女性は、なにもかもたれ流して…………死んだ。
魂を裂かれそうな悲しい記憶の痛みをこらえて、彼は辛うじて現実へと踏みとどまる。
なぜにこの香りが、この忌々しい香りが風に乗って来るというのか。いや、それは後でいい。それよりも唇を刺すほど濃い香りとなれば、長く吸えば正気を保てなくなるか深い眠りに落ちるかだ。振り返ればラファムは口を覆っており、それは一安心だが……。
まわりでは獣たちが熱っぽい唸りを上げ、ついには正面の二頭が仲間同士で取っ組み合いをはじめる。ヴェクはこの奇妙なありさまの理由を悟るが、それすらどうでもいい。
残った二頭が前後から喰らいかかってくるという、この危機にまず対処しなければ。息を止めながらでは、別の方向に向けた二丁それぞれを命中させるのは難しい。だが両手で一頭を狙えば、もう一頭が彼らをかみ砕いてしまうだろう。
迷う時間はない。ヴェクは瞬時に体勢を固めて、一か八かの両手射撃に挑んだ。
先んじて快調に吠えた右銃。弾丸が獣の胸を裂いて心臓を打ち壊す。だが左銃は三発をてんでの方向に散らしたあと、ガギュッと異音を立てて止まってしまった。不安定な射撃、いわゆるガク引きで空薬莢が詰まったのか。
万事休す、思わず腕で顔をかばった瞬間。
トンネルからキュッと空気を裂いて飛来した弾丸が、彼の目の前で獣の頭をごっそり削り飛ばした。ドンという重い銃声は後から届き、さらに続く射撃が残った獣たちをたちまちハチの巣にしていく。
そして獣たちが全て息絶えた後。ようやく風が収まった。
「――っ、ふぃいぃ…………っ。死ぬかと思ったぜ」
唇を舐めて空気が澄んだことを確かめ、ヴェクは辛抱していた息を言葉と一緒に吐き出した。足下では、腰を抜かして尻餅をついたラファムが小さく同意を返してくる。
「ほんとに。姉……ソシィが助けてくれてよかった……」
長魔銃を担いだソシアがトンネルから駆け寄ってくる。彼女は二人の元まで来ると、口にくわえていたライム色の水晶を手に取って笑いかけた。
「ふはりほほふぇ……怪我はありませんか?」
だがヴェクが答えようとすると、風がまたそよぎはじめる。ソシアが二人から風上へと向きなおり、手にしていた魔法の水晶――織魔水晶をかかげて強く声を上げた。
「織魔執行!」
途端にヴェクたちのまわりで空気が渦を巻きはじめ、数秒で小さな竜巻が彼らを中心として伸び上がった。
「こりゃいったい、魔法か?」
ヴェクの声に少女たちの答えはない。ただラファムが苦い顔で彼を見て、そこにソシアのシュッと小さな息が重なり……急に竜巻がカマ首をもたげたかと思うと、降りてくる風に正面からぶつかって、トンネルまでのびる澄んだ空気の道へと変化する。おどろき立ちすくむヴェクを、渦へと走り出した少女たちが強く呼んだ。
「あまり長くは続きませんよ!」
「ソシィが息切れする前に早く、急いで!」
その間にも渦が勢いを失っていくのが見え、ヴェクは考えるのを後回しに、少女たちに続いて必死に渦の中を走り抜ける。彼がトンネルへと逃げこむや、魔法の竜巻はフッと消え去り、外の危険な風も落ちついていく。
彼を置いてツカツカと進もうとする少女たちの背中に、ヴェクは声を投げずにいられない。
「今のが魔法なら、あんた、ソシアさんよ。すっげぇ魔力持ちだな。もしかして……とんでもないレベルの魔術師なのか?」
その言葉に少女たちが足を止め、ぎこちなくこちらを振り返る。ラファムが信じられないものを見るように目をパチパチとさせる横で、ソシアがつっかえた調子で彼にたずねた。
「えっと、その……わ、私の髪の色で、お気づきになりませんか?」
彼女はおびえたように唇をキュッと結んでしまうが、ヴェクは何を言いたいのかわからずに首をひねるばかりだ。少女たちはさらに困惑した様子で視線を交わし、やがてうなずき合う。
「あの……これでは?」
ソシアが小さくつぶやいて後ろを向き、髪をかき上げてうなじを彼にさらした。その抜けるような白い首筋に、手の平大のまるで蝶のような奇妙なアザが四つの渦を描いて羽を広げていた。隣ではラファムが真剣な様子で彼に何かを訴えかける。
だがアザだろうが髪の色だろうが、まったく意味が分からないのでは、彼にできたのはせいぜい間抜けな顔で二人にたずねるぐらいだった。
「……で、それが何なんだ? 首にアザがあると魔力が上がるとか、そういう事か?」
しん、と静けさが三人の間に落ち……。
少女たちが突然、お腹を抱えて笑いだす。それは彼をバカにするというよりは安心したというか、ホッとした気配を含む明るい笑いだった。終いにはラファムが彼の胸板をポスポス叩いてくるほどだ。
しかし笑われたヴェクとしては、困るやらムッとするやら、とにかく納得がいかずにぼやいてみせる。
「おいおい二人ともなんだい、いったい。俺が物知らずなのは知ってるだろうがよ。ああもう笑うなって」
それでも笑い続ける二人に、彼は付き合いきれないと肩をすくめてトンネルの奥へと歩きだした。そうして直角の曲がり角を曲がったところで、彼は思いもかけぬモノとばったり面を付き合わせ、しばしあっけにとられてアゴを外す。
暗がりのなかで立派なラバが一頭。「何か?」とでも言いたげな目で彼を見つめていた。