3.足跡の混乱
日がほんの少しだけ真上から外れたころ。乗り手も馬もまっ黒な騎馬が、けわしい山道を下って二叉に分かれた小さな谷に入ってゆく。
ヴェクはメルの手綱を鳴らして、バラ色と白が入り交じる崖のすき間を風のように抜けると、小さな案内板につながれた二頭の馬の横でその脚を止めさせた。鞍から飛び降りるなり、そこで待っていた少女たちに首を横に振る。
「峠のかなり先まで行ってみたがダメだ。いくらラバがしゃかりき走ったって、この距離で追いつけねえってのはねえぞ」
それだけ言うと彼は少女たちを置いてメルへと戻って、その口を水筒の水で湿らせてやる。それでも前足でドスドス砂を叩くのを止めないのだから、もう走ってあげない、という拗ねた声がいまにも聞こえてきそうだった。
なんとか愛馬をなだめようとするヴェクに、崖が投げかける影から立ち上がったソシアが残念そうに後ろから告げる。
「この付近を探ってみましたが、誰かが戻ってくる様子はありません」
その横ではラファムが自分の馬――〈矢車菊〉という名の若い牡馬の首をなでに出てくると、イライラと砂を蹴りながら言う。
「やっぱり村からこっちにはいないっぽい。もうオッツィもヘトヘトだし、どうしようか」
彼女に愛称で呼ばれた栗毛の馬も落ちつかなげに砂を掻く。
雲ひとつない大陸晴れの下で長い時間を走ったのだから、どの馬も疲れて当然か。ヴェクはメルを労って道ばたの草へと引っ張りながら、二人の言葉に改めて首をひねった。
「これだけ探して見つからないとかアリなのか? 相手の足はラバだぞ?」
「とにかく状況を確認しましょう。二人ともこちらへ」
そう言ってソシアが峠の地図を地面に広げると二人を呼ぶ。
大判の地図は老銃士からの借り物で、さすがのソシアも書き込みはせずに口頭で確認しては、彼とラファムが調べた範囲を指で示していった。それはかなりの広さにわたり、ラバが入り込めそうにない場所も多い。
「となると、やはりこっちから考えるしかなさそうですね」
ソシアが地図を離れて腰のポーチから折りたたみ式の拡大鏡を取り出すと、案内板の近くへかがみ込む。そこに点々と散らばった小さな足跡、その正体をヴェクは彼女に確認する。
「それ、本当にラバのなのか?」
「蹄が小さく歩幅がロバより大きい……それに曲がり方も馬とは違いますから」
ドレスが砂で汚れるのも気にせず地面スレスレまで顔を寄せて調べ回るソシア。その様子をヴェクが眺めていると、ふいにラファムが彼の胸板をトンと叩いて口を尖らせた。
「ソシィの鑑定術を舐めないでよね。同級でいちばんの腕なんだから」
彼も今のソシアを見れば納得する。彼女の腕前は確かなものだ。
鑑定術は痕跡や遺留品からさまざまな情報を得る技術で、王立大で教えられている事のひとつだ。一応はヴェクも修めたのだが、どうにも細かい作業に集中力が続かず、成績は辛うじて及第点といったところだった。その点、ソシアの集中力は驚異的で、さらに生まれつき良い目を持っているとのこと。走る馬の上からあの足跡を見つけたのも彼女だった。
その発見がが昼前の事で、これをきっかけに三人は大いに悩む羽目になった。なぜなら足跡は古い峠道ではなく、山崩れで使えないはずの隧道へと伸びていたのだから。しばらく話し合った結果、三人はそれぞれ分かれてリーアムを探す事に決めた。ヴェクは古い道を進み、ラファムがわかれ道までを再び確かめる。そしてソシアはここで待ち、もしリーアムがトンネルから戻ってきたなら保護するという手はずだ。その結果は三人とも完全な空振りであったが。
やがてソシアが顔を上げ、確かめるようにつぶやきだした。
「案内板の手前に散った足跡は迷った痕跡。リーアちゃんは文字が不得意だそうですから、通行止めの文字がわからず、おそらく前に通った道を思い出して進んでいった感じでしょうか……あら、これは……?」
ふいに彼女が動きを止め、かと思うとポーチから小ぶりのブラシを何本か取って地面を細かくなではじめた。ヴェクは陽射しをさえぎらないように後ろに回って、その手元をのぞき込む。どうやらラバらしき蹄の跡を丹念にかき取って、下から別の跡を描き出しているらしい。
「ソシィ、なにか見つけたの?」
寄ってきたラファムの声に、ソシアがブラシの柄で地面を計って答えた。
「ええ、これは……人のものですね」
「そいつはリーアちゃんがラバを引いた跡じゃないのか?」
「これをよく見てくださいまし。子供にしては大きすぎますし、サンダルではなく丈夫な革靴のものです。砂の散り具合を考えると昨晩から今朝の早くに付いたものですが……」
ヴェクの指摘に、ソシアが立ち上がって新たな足跡を示してくれる。それはおどろいた事に、そしてまたしてもトンネル方面へと伸びていた。
「道に迷った奴がこれで二人か――」
だが再びしゃがみ込んだソシアが、キッパリとヴェクの言葉を否定した。
「いえ、この足跡には迷った様子がありません。案内板の文字が読めたにせよ、あるいは読めなかったにせよ、この人物は明確な意図を持ってトンネル方面に向かったはずです。そして帰りの足跡らしきものもない」
「でも通行止めなんだよね。おかしいじゃない」
地図を二人の前まで持ってきたラファムが、指でトンネルまでを二人に計ってみせる。
「ここからトンネルの入り口まで二道里と半分(約4キロメートル)でしょ? 子供だってすぐに帰ってこれる距離だし、もし手前に用事があっても、リーアちゃんもその人も戻って来てないとおかしいよ」
「となると最悪、二人とも〈砂漠の怪物〉に出くわしたのかもしれんな」
ヴェクの予想に、ソシアが眉を下げてうなずく。
「それはありえますね。放浪するオオクマネズミでも空腹なら人を襲いますから。使われなくなった道に戻ってきていても不思議は――」
「ちょ、っと二人ともそれって万が一でしょ、とにかく確認へ向かおう! ね?」
ソシアとヴェクによって組み立てられた血なまぐさい予想を、ラファムが青い顔でさえぎった。それが事実ならリーアと誰かはすでに命を落としているかも知れず、ヴェクも彼女に同意して手早くメルの手綱を再びとる。
「そうだな、道が一本だけなら行った方が早い。今度は誰が残る?」
「三人で行きましょう。もし怪物を相手にするなら人数が必要です」
ソシアが日かげから自分の馬を引きながら言い切る。だがオッツィとは兄弟だというその馬――〈白百合〉は急ぐ主人をよそに、おっとりと他の馬たちに絡もうとして彼女を困らせる。
「ネネアったら暢気なんですから! こっちに向いてくださいまし」
どうにかこうにかその背にまたがるソシアに、ヴェクは心の中で、もしかしてどの馬も主人に似てるんじゃねえか? とつぶやくと、メルの首を撫でて機嫌を取りつつ鞍にまたがった。案外このメルも仕方がないご主人ね、と思っているかも知れないが。
そのとき山頂から吹き下ろしてきた風に、ヴェクは背筋に引っかかるような妙な雰囲気を感じて顔をしかめた。だがその正体は、まだはっきりとはしなかった。