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1冊目のアルバムを閉じて横に置いた。これの他に大学ノートに新聞の記事を、スクラップしたものがあったはずだ。それと一緒にしておこうと私は思った。
2冊目は夫が開いたアルバムだった。それは昭和30年代の写真が収められたものだった。カメラを手に入れたのか一枚目の写真は、我が家の前で家族が一緒に写っているものだった。昭和30年5月5日。写真の下に走り書きがしてあった。
「このアルバムは30年代なんだな。これってひい爺さんとひい婆さんと、爺さんの兄弟たちであっているのか」
息子がそう訊いてきた。
「ええ。この人が青葉町に嫁いだ父の上の姉で赤ちゃんを抱いているから、多分初孫を見せに来たのでしょうね」
私がそう言ったら、孫と嫁も興味深げに身を乗り出してきた。
「青葉町って、結花ちゃんのうちでしょ、おばあちゃん」
「そうよ~。そういえば陽菜は結花ちゃんと仲が良かったわよね」
「うん。だって同い年だし、結花ちゃんはかわいいから」
ニコニコ笑って言う陽菜に私もにこりと笑った。
「ねえ、おばあちゃん。えーと、この・・・ひい・・・おじいちゃん? のきょうだいってなんにんいたの」
裕翔が写真を指差しながら訊いてきたので、私も写真の人物を指さしながら言った。
「この二人が裕翔のひいおじいちゃんのお姉さん、この人がひいおじいちゃん、この三人が妹、この男の子が弟で7人兄弟だったそうよ」
「女の人が多かったんだね。だからおばあちゃんも三人姉妹だったの」
「・・・ええ、そうかもしれないわね」
陽菜の無邪気な言葉に少し言い淀んでしまった。でも、そのことに気がつかなかった陽菜はアルバムのページを指さしてきいてきた。
「じゃあ、この男の人二人は?」
「それはね、お姉さんたちの旦那さんよ」
「旦那さん? えーと、おばあちゃんのおじいちゃんと、同じこと」
「ええ、そうよ」
写真の人物が誰か判ったからか、裕翔が手をのばしてページをめくった。次のページは、多分小学校の写真だろう。木造平屋で長い建物。他にも小学生の子供たちが教室で机に教科書とノートを広げて黒板の方を見ていた。いいえ、多分カメラを意識したのだろう、こちらを横目で見ている子が何人かいた。
ああ、そうだ。父の一番下の弟は昭和19年生まれだったから、この時は小学生だ。では取材半分、家族の姿を収めたい気持ち半分で、祖父は写真を撮ったのだろうか。
次のページはまた駅の写真。これは集団就職の写真だろうか。中卒か高卒らしい若者が何人も駅のホームにいた。その下の列車を取った写真も若者が何人も座席に座っていた。私は、これも時代だなと思った。
ページをめくると三種の神器が写っていた。
「まあ~」
「え~、なにこれ~、おばあちゃ~ん」
陽菜が写真に写っているものに不満そうな声をあげた。
「陽菜、これはな、この当時の三種の神器と呼ばれた家電たちだよ」
夫が穏やかに陽菜に教えた。
「ねえ、これはなに」
「この箱に入っているのがテレビで、これが洗濯機、こっちは冷蔵庫だよ」
「え~。なんで箱に入っているの~。これじゃすぐにテレビが見られないよ~」
陽菜の驚きに息子達も同意して頷いている。
「それだけね、貴重で高価な物だったのよ。この頃はテレビを持っている家は少なかったから、テレビがあるうちに集まってみんなで番組を見たそうよ」
「うっそ~。それじゃあ、見たい番組が見られないじゃない」
「陽菜、その頃はテレビのチャンネルも今みたいに多くなかったし、ほとんどが生放送だったんだよ」
「えー」
「そうだよな~、一朝一夕に進歩しないよな」
息子が分かったような口を利いていた。
「あとね陽菜、この頃のテレビって白黒だったのよ」
「白黒? 何が?」
「画面にね、色がなかったのよ」
「えー」
驚きすぎたのか、目と口がまん丸に開いている。それに私は微笑みかけるとページをめくった。
その次の写真はどこかの工事現場の写真だった。鉄骨が組まれていく写真もあった。ページをめくると、鉄骨はかなりな高さに組み立てられていた。その次の写真は少し離れたところから撮られたもの。
「これってもしかしなくても、東京タワーの建設の写真じゃないのか」
息子が驚いたように声を出した。私は立ち上がると「ちょっと待っていて」といって、父の部屋に行った。そして仕分けていた中から大学ノートを取り出した。パラパラと見て、それを持って居間に戻った。大学ノートを広げて目的のページを見せた。
「ここにね、お爺さんは出向という形で東京の新聞社に出向いたとあったのよ」
大学ノートには新聞の切り抜きと簡単な走り書きのような文。でもそれは、祖父にとって日記のつもりだったらしい。祖父が亡くなった後、祖母を手伝って遺品を整理した時に、私はこのノートを見ていたから。ところどころに愚痴というか、祖父の心情が書かれていたのだ。
子供に会いたい。ビルが建つのを見るのは面白いが、毎日じゃつまらない。東京の力は凄いが、やっぱり田舎暮らしが性に合っている。まき(祖母の名)が作った芋の煮っ転がしが食べたい。鰹が食いたい。・・・等々。
クスリとしつつも、昔も単身赴任があったんだと思った。出稼ぎとは違うけど、祖父はそんな気分だったのだろうか。
祖父が東京に行ったのは、地方記者をしていた祖父がスクープをものにしたことが大きかったそうだ。祖父はその記事について家では話したがらなかったそうで、家の中ではいつの間にか禁句になってしまったと、祖母が話していたっけ。
「おばあちゃん、すごいね~。だんだん高くなっていくね~」
「そうね。ほとんどを人力で作り上げたというからすごいわよね」
ページをめくると出来上がった東京タワーと完工式の様子。それから日付が1958年(昭和33年)12月23日と『やっと家に戻れる』という言葉が、書かれていたのだった。
そして次のページにはまた建設現場の写真。その下には国立競技場完成予定の文字が書かれていた。
祖父は昭和30年代はこちらにいるのが半分、東京にいるのが半分という生活をしていたそうだ。それもこれもオリンピックのせいだったとか。
東京は1940年(昭和15年)のオリンピックの夏季大会の開催地に決まっていたのに、開催権を返上した。日本だけでなく世界情勢も戦争にむけて動きだしていたころだ。資源の少ない日本は戦争以外に資材を使うことを禁止し、そのため開催権を返上することになったと、祖父はその時のことをノートに書き記していた。
東京は1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)の夏季大会開催地に立候補したが、ローマに敗れたそうだ。次の1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、見事過半数を超える得票数で選ばれたということが、震える字でノートに残されていたのだった。