6章 『S事件』審議開始―――六百六十年・九月(三)
「では被告人。まずは氏名と年齢、職業をお願いします」
裁判長の最初の質問に、赤衣をはためかせた『Dr』は不敵に嗤う。
「そんなのは散々新聞に書かれているだろう。爺さん、読まなかったのかい?」
「勿論毎朝隅々まで目を通していますが、質問にはきちんと答えて下さい」
カンッ!注意とばかりにハンマーを叩く。
「―――『Dr.スカーレット』だ。年は言いたくないね、狂人でも一応女なもんで。職業は……周りの皆々様の方が、よく御存知なんじゃありませんかねえ?」
優雅に一回転し、自分を見下ろす人々を睥睨。その後、正面に向き直って頷く。
「そうだね。じゃあ少年紳士君、最初の任務だ。私の仕事について、このご老体の裁判長に説明してやっておくれ」
「俺!?」
いきなりの御指名とは、これは責任重大だぞ。っても、さっき教えられた以上は本気で知らないんだが……。
「え、えっと……自分で開発した怪しげな細菌で、大量殺人をやらかした稀代のマッドサイエンティスト、らしいです」裁判長を見、「生憎まだロクに字の読めない餓鬼なんで、完全にエルからの受け売りだけど。因みに一番好きなのは、最後から二ページ目の四コマ漫画です」
「よく出来たね、偉い偉い」
殺人鬼に褒められても……。
「おい、ジョウン。余りの恥ずかしさに、向こうでお父上が突っ伏しているぞ」
あ、本当だ。しかしれっきとした事実だもんな。下手に毎日しっかり読んでますと嘘吐くよりはいいと思うが。そう反論すると、盛大に深い溜息を吐かれた。
「子供の紹介とは前代未聞ですが、時間も押しているのでまあいいでしょう。冒頭陳述に移ります」
裁判長が手に持った書類を朗読し始める。
「今年三月七日。“紫の星”にあるダン・ルマンディ氏所有の研究所から、彼と娘のリリー・ルマンディ嬢が脱出しました。二人は近隣の警察署で保護され、即日病院へ搬送。更に翌日派遣された聖族政府の職員達により、あなたは研究所の敷地内で拘束された。間違いありませんね?」
説明を聞き終えた『Dr』は、形の整った眉を片方上げる。
「?どうかしましたか被告?異議でも」
「……成程。そう言う事に『した』のか、エルシェンカ様」
女は身を震わせ、ゆっくりと大声を上げ始めた。
哄笑。人々の魂を凍り付かせる旋律に、しかし彼女の天敵は惑わされなかった。
「止めろ。裁判長、法廷侮辱罪でペナルティを」
「あぁ、それは勘弁して欲しいね。まだ証人も来ていないってのに」
笑いを止めて咳払い。
「それかダンに『証言』させてもいいね。あんた達が葬ろうとしている真実を」
「悪い取引じゃないだろう?いいか」
エルは身を乗り出し、人差し指を被告人へ突き出す。
「君さえ責を負えば全て赦す、そう僕等は言っているんだ」
「フン。ダンはそれで納得したのか?」
「ああ。それが証言台に立たせるためにこちらが出した条件だ」
「け、検察側!一体何の話をしているのですか!?」
俺の疑問を裁判長が代弁するも、なに、審議には関係無い話ですよ、あっさりかわされた。
「なら、とっととあいつをそこに立たせな」法廷中央の証言台を顎で示す。「娘を失った哀れな父親を、ね」
「分かった。―――ルマンディ氏、証言を頼む」
次の瞬間、背後の検察控え室から靴音がした。
現れたダン・ルマンディは、年齢四十代前後。一応黒のスーツを着、髭も剃ってはいるが、明らかに憔悴し切っていた。具体的には目の下の特濃墨汁みたいなクマ、年齢不相応に多い白髪の数、足元だって覚束無い。しかも―――彼の左手首から先は、無かった。
「入院先から直接駆け付けてくれて感謝するよ。今日の気分はどうだい?戦えそうか?」
「当たり前だ。仮令這いつくばってでも、この女だけは―――!」
目の前で激昂されたと言うのに、元妻は眉一つ動かさない。
「裁判長。証拠として被害者、リリー・ルマンディの遺体の写真を提出する許可を」
「どうぞ」
一分後。裁判席の反対側に設置されたスクリーンの電源が入り、何か白い物が映し出された。あれは……少女の面影をした、狼?
「皆さん、紹介します。私の最愛の一人娘……リリーです」
証言台に立ち、父親は朗々と述べ始めた。
「彼女は亡くなった前妻の子で、被告人とは完全に赤の他人です。妻に似た顔立ちをした、元気で明るい子でした。そんな彼女をモルモットとして、この女は自らの培養した得体の知れぬ細菌を感染させたのです!」
悪夢の蘇った頭を振り、彼は悲痛に叫ぶ。
「私がリリーを見つけた時、娘は既にウイルスに冒されたショックで息絶える寸前でした!しかし真に恐ろしく、そして悲惨なのはそこからだった!!」
スクリーンを見た傍聴席全体が動揺し、何人かが耳と目を塞ぐ。
「慌てて小さな身体を抱え上げた次の瞬間。私の左手の甲に、娘の吐いた血が掛かったのです。一瞬後、まるで火箸を押し当てられたような激痛が走り……この写真と同じ、人間には異常過ぎる体毛が生え始めたんです。それを見たリリーは、小さな身体に残された最後の力を振り絞って―――」
迫真のノンフィクションにごくっ、無意識に唾を飲む。
「―――落ちていた手斧で、左手首から先を切断したのです!!」
余りの衝撃に数秒間、場は沈黙に包まれた。
「そしてあの子は、最後に私へこう言ったんです……『ごめんね、パパ』、と……」
ガンッ!未だ包帯の巻かれた傷口を証言台の縁に叩き付ける。
「自分を救えなかった愚かな父親に、それでも謝ったんですあの子は!あんなに心優しい娘が、一体どうして死ななければならなかったんだ!?答えろ、魔女め!!」
魂の奥底からの絶叫に、しかし大量殺人犯は軽く肩を竦めただけだった。
「ああ。リリーの急性中毒は、確かに不幸な事故だったね」
「事故だと!?あれは立派な殺人だ!貴様があんな危険なウイルスを開発していると知っていたら、絶対に結婚などしなかった!!」
「そっちが勝手に惚れて押し掛けて来たんだろう、ダン。御好意で置いてもらっていた分際で」
「所詮財産目当て、と言う訳か?」
「来る者拒まずってだけさ。あんたの知識は中々の物だったし、研究の役に立つと思って判を押してやったんだよ―――とんだ期待外れだったがね」
「!!!?」
酷え……この女、人としての感情が欠落してやがる。
「あ、そうそうダン。元伴侶のよしみで良い事を教えてやろう。―――全部忘れな。でないと何時か、お前は私の手の者に掛かって死ぬ事になる」
「っ!!?」
「リリーの事も、『こちら側』へ手を出しかけた当然の報いだ。彼女の死を招いた諸悪の根源はお前だよ、お父さん」
絶句する元夫を嘲るように見、怪女はエルへ視線を向けた。
「副聖王様。こんな小汚い怪我人より、私の『子供達』を召喚したらどうだい?」
『子供達』?こんな冷血鬼畜にも子供なんているのか?
「黙れ。言った筈だ、これは取引だと。お前は大人しく罪を認める義務がある」
飛び出した脅迫めいた言葉に、流石の俺も軽く引く。
(こんなおっかない大量殺人犯と、一体何の駆け引きがあったって言うんだ……?)
俺の頭の中で、急速に疑念が膨らんでいく。まさかエル、お前は、
「―――十五年もすれば分かるさ、少年紳士君」「!?」
にたぁ、と嗤う悪女。
「嫌でも理解出来るよ。大人には、逃れられないしがらみって奴がある事を……ね」