3章 真冬日と記念写真―――八百年・一月(一)
しゅー……。「はいはい、今行きますよ」
ストーブの上で蒸気を吹き上げる薬缶を持ち上げ、濡れ布巾を敷いたテーブルに置く。その後ココアパウダーと砂糖を分量通りカップに入れ、ダマにならないよう少しずつ伸ばし、完成。
「う~ん、美味しいねぇ」
寒い日に飲む至福の一杯に舌鼓を打っていると、カンカン。誰かが自室(二階)の窓を叩く音がした。
「お婆ちゃん、あーけーてー!」
屋根に登って硝子を叩いているのは、丸々とした茶色い埴輪の着ぐるみだ。口と目は一見すると暗黒だが、穴が空いているのか問題無く見えているようだ。
「あら、クランちゃん。ちょっと待ってて」
車椅子の車輪を回して窓の下まで行き、錠を外す。それから肘掛けを使って立ち上がり、両腕に力を籠めて窓を押し上げた。
「ありがと。善人のお婆ちゃんに幸運が訪れますように」
しゅるっ、たん!ばっ!新体操のポーズを決め、女王陛下は華麗に部屋へ降り立った。
「今日は何時にも増して寒いねぇ」
吹き込んでくる風が頬を撫で、反射的に身震いする。幾ら暖房を最強に焚いていても、流石にブラウス一枚では寒い。
「御免ね、すぐ閉めるから」
どんな構造かは分からないけれど、クランちゃんは器用に窓を引き下ろした。眼下を覗くと玄関前でクオル城唯一人の衛兵、アスが槍片手にキョロキョロ周囲を見回している。
「けけけ、馬鹿な衛兵め」
「また追いかけっこかい?楽しそうだねぇ」
「別に楽しくはないけどね、ふぁ」
欠伸に因り、着ぐるみが目に見えて膨張する。
「人の顔見れば仕事をやらせようとしてくるんだから、全く困った物だよ。ところでお婆ちゃん、アスにこの部屋へ入る許可は出しているの?」
「勿論。でも来るのは大体一日一回だねぇ。ゴミを持って行ってくれたり、呼ぶついでに食堂まで付き添ってくれたり。でも大丈夫だよ、あの子は『ほぼ』毎回律儀にノックしてくれるから」
「そう。じゃあ嗅ぎ付けられても、逃亡する時間は充分あるね」
言って来客用の椅子に茶色のお尻を乗せ、自室のように寛ぎ始める。と、黒目が微かに動く。
「それ、痣?」
「ん?―――ああ、これ」
何時の間にボタンが外れたのか、ブラウスから鎖骨の下にある痣が覗いていた。
「珍しいね。何の花?」
「多分カーネーションだよ。母親も同じ場所にあってねぇ」
「じゃあ遺伝?へー」
ゴソゴソ。ボタンを掛け直し、ついでにベッドの上のカーディガンを羽織った。
「クランちゃん、外を走り回って冷えないのかい?」両手でカップを掴む。「お婆ちゃんは冷え性だから、ストーブを焚いてもまだ寒くてねぇ」
「平気だよ。この埴輪、実は内部にエアコンが内臓されてるの。触ってみる?」
言いつつ背中を向け、真ん中のチャックを半分だけ開ける。そこから覗く中身は、今朝見たのと同じいつもの黒いローブ。
「どれどれ」
さわさわ。確かに空洞部分も女王本人も、まるで湯たんぽのようにポカポカだ。
「お婆ちゃんの手、本当に冷たいね。少し温めたら?」
「じゃあお言葉に甘えて」
さわさわさわさわ。お礼に小さな肩甲骨周辺をマッサージしながら、指先をぬくませる。
「クランちゃん、少しこの辺が凝ってるよ」右手に持ったココアを啜りつつ、硬い一点を親指で押す。「セミアちゃん程は酷くないけど」
「そう?でも、うーん……押されると少し痛いかも。あぁ、そこそこ……」
もぞもぞ身悶える埴輪は、何ともコケティッシュで可愛らしい。
「はい。こんな所かねぇ」
「ありがと」じーっ、後ろ手でチャックを器用に閉める。「お婆ちゃん、意外とテクニシャンだね」
「どういたしまして」
椅子の上で振り返り、再びこちらを向く。ふと、茶色い手が車椅子の後ろの物入れに伸びる。
「集合写真?あ、この真ん中の人がお婆ちゃん?」
「そうだよ。昨日本棚を整理していたら出て来てねぇ。懐かしいからしばらく入れておくつもり」
簡素ながら額装され、長い年月でセピア色になった写真に目を細める。
「六百七十五年七月、シャバム音楽ホールにて―――もうすぐ百五十歳だから、二十五歳の時?」
「そう。この頃はお婆ちゃん、まだ魔術が全然使えなくてねぇ。“赤の星”のラブレって街で音楽の教師をやっていたんだよ。意外でしょう?尤も勉強したのはピアノと声楽だけで、それも余り巧くはなかったんだけどねぇ」
「ふぅん。トロフィーを持っているって事は優勝したの?」
「そうだよ。しかもそれ、私が顧問になって二年目」
共にカップへ手を掛ける、隣席の黒髪の男子学生を指差す。
「特にこの子。一年生のハイネ君は、毎日遅くまで熱心に練習しててね。彼がいなかったら、きっと入選止まりだったわ」
言葉にした次の瞬間、昨日以上に胸が張り裂けそうになった。
―――そしてあの気丈で優しい少年は、永久に私達の手の届かない遠くへ行ってしまったのだ。でも、会えるならもう一度……せめて一目でも―――
「そっか」
写真を戻した女王は、一緒に入れてあった楽譜帳をパラパラ捲る。
「……クランちゃんは親しい人を亡くして、寂しいと思った事は無いの?」
彼女の実の肉親は、現在神様をしている兄だけだと聞いている。つまり御両親は既に、
「さぁ?私、自分の感情に疎いからよく分からないよ」
「そう―――でも、少し羨ましいかもねぇ」
この子のように常に理性で以って状況を見られたなら、きっとあの事件の際、もっとずっと良い選択が出来ただろう。家族皆を救える、そんな道だって見つけられたかもしれないのに。
「そんな事無いよ」「!?」
首単体では動かせないため、埴輪は全身をふるふる震動させて否定した。
「感情の無い人生なんて、きっと凄くつまらない。私だけで充分だよ、そんなのは」
「クランちゃん……」
「何てね。特に不自由は無いし、別にどっちでもいいんじゃない?」
椅子から立ち上がり、バレリーナのように片脚でくるくる。
「―――でも少なくともこの学生さんは、お婆ちゃんに後悔なんてして欲しくないだろうね」
ぴたっ!静止した虚ろな目と視線が合う。
「今も昔も、キュクロスお婆ちゃんには笑顔が一番似合うもの」
「そう……ありがとう、クランちゃん」
背後の扉が音も無く開かれ、気配を殺した衛兵が入ってくるのが見えた。そして次の瞬間、
ガシッ!バタンッ!!「もー!!?」
後ろから足首を掴まれたまま勢い良く引っ張られ、うつ伏せに倒れた埴輪が甲高く鳴く。突然の暴力を起こした張本人に対し、恨めしげに作り物の黒い眼を向けた。
「御免ねぇ。クランちゃんを捕まえる時『だけ』はノック無しで入って来るんだよ。ね、アス?」
「ええ。屋根に掛けた縄梯子、後でちゃんと片付けておいて下さいよ。さあ、連合政府からのお客様を待たせているんです。まずは部屋に行ってそれを脱いで下さい」
「横暴だー!この暴力衛兵めー!」
「来客の気配を察知した途端逃亡する女王様の方がよっぽど横暴です!」
「どうせ船着場の細かい設備の相談でしょ。大臣かあなたが適当にOKしておけば問題無い」
「何無責任な事言っているんですか!誘致したのは女王様御本人でしょう!?最後までちゃんと責任を持って下さい!!」
ダンダンダンダンダンダンッ……!!せめてもの抵抗にと両手で床を叩く音と、息の合った喧嘩の声は段々と遠ざかっていく。
キィ、パタン。「ふぅ……さて、今度は紅茶にしようかねぇ」
仲睦まじい二人を思い出しつつ、底に残った最後の甘い一口を飲み干した。