最終話:Mawie=lauf・Zeit
メーウィアが結婚指輪を手に入れたのは、イリアの庭が新しく染まり変わった頃だった。
「メーウィア様、お綺麗です。とても。ああ、どうやって表現したら良いのでしょう。まるでこの世の方ではないみたい。私、一生このお姿を忘れません」
金銀の糸が織り込まれた花嫁衣裳。胸元には宝石をあしらった首飾り。式場で誓いの指輪を交わすため、今まで一度も外さなかった婚約指輪は指にない。銀の冠と花飾りで固定されたベールは薄く透けて花嫁の美しさを柔らかく映し出していた。ただ本人だけがそれを理解出来ない。コアが懸命に言葉を尽くそうとするのをメーウィアは止めた。
「大げさに言わなくてもいいのよ」
「本当のことです。私たちメーウィア様付きの使用人はみな、鼻が高いです。正夫人のお許しがこんなに早く頂けるなんて良かったですね」
難しいと思われた正夫人の承諾はあっさりと得られた。口元を綻ばせてメーウィアはその時のことを思い出す。ほんの少し、膨らみを帯びた腹部を撫でながら。
――そう。メーウィアが身籠っていることが発覚すると急展開で話は進んだ。すぐさま息子を呼びつけた当主は厳しい声で説教を始めたという。
「お前に限ってこうなるとは思いもしなかった。気持ちは分からないでもないが、もう少し我慢出来なかったのかね。まさかお前に物事の順序を説かねばならんとは……」
「遅かれ早かれこうなりました」
「テーゼ、行動が早過ぎると言っているのだ!」
ダストが盗み聞きした話は義姉や使用人たちを喜ばせ、いたくメーウィアを赤面させた。悠長に構えてはいられないと指輪の確保には義父が協力してくれたのだった。
ツァイト家はささやかながら敷地内に式場を建設した。この計画には当主と次期当主の間で若干の確執があったらしい。テーゼが施工期間と費用の問題を持ち出して予算を大幅に削ったために、決して広くも豪華でもないという話だった。それでも、とメーウィアは思う。他家は招待しない内輪だけの式と聞いている。身内で祝うならばそれで十分だった。
”ますます別館が建てられなくなった”と当主は娘たちとも確執を生じさせていたが、こちらは一蹴してしまっていた。オルドは娘よりも妻を愛した。落成式の日に二度目の結婚式を披露した正夫人は新しい指輪を贈られて若い娘のように喜んで、そして夫が一言添えただけで今まで大事にしていた指輪をメーウィアに譲ってくれた。
「メーウィア、辛いことがあったら必ず私に相談するのですよ。あの子に酷い仕打ちを受けたら私が味方になって差し上げますからね」
懲りない女の執念にメーウィアは苦笑してしまった。
「はい、お義母様」
もちろんそう答えておいた。きっとこの人とも、上手くやって行けるだろう。
「メーウィア、準備はどう?」
「兄上に見せるのが楽しみな仕上がりだね。ご両親はまだ来てないの?」
花嫁の控え室に入って来たのは次女と次男。義姉はメーウィアのために作ったという小さな花束を手渡してくれた。
「式場に直接向かっていると思います。こちらに入って来るのは遠慮しているみたいで」
「まあ、そんなこと気にされなくても良いのに」
「兄上の方はちょっと時間かかりそうだよ。正装には着替えてるんだけど今日の段取りをあちこちに指示飛ばしてる。自分が主役の日くらい、人任せにすればいいのにさ」
「メーウィア、おめでとう!」
「おめでとう! 私たち二人でブーケを作ったの、是非これを使って!」
賑やかに扉を開けたのは双子の三女と四女。メーウィアが手に持っている物を見つけたのか揃って悲鳴を上げた。
「もしかして姉上も?!」
「ダメよ! 折角イリア姉上の庭からこっそり取って来たのに」
「貴女たち、なに言ってるの? 私が先に渡したんだからメーウィアは私のを使ってくれるに決まっているでしょう?」
「姉上、ずるい!」
「あ……っと。俺、ちょっと向こうの様子見てくるね。じゃ……」
姉妹の喧嘩が部屋を明るくする。メーウィアは双子の声が聞こえる方向に手を差し出した。
「二つとも使わせて頂きます。お義姉様がた、ありがとうございます。よろしければどんな花を使ったのか教えて頂けますか?」
義姉たちと入れ替わりに義母がやって来て、相変わらずテーゼに対する恨み言を述べた後、現場の指揮を息子に奪われた義父が訪れた。式が始まるまで、後どれくらい時間が残っているだろうか。落ち着かない気持ちでメーウィアはなんどもコアに時間を尋ねた。
「メーウィア、おめでとう。とても綺麗よ」
「イリア様……ありがとうございます」
最後に訪れたのは長女イリアだった。メーウィアはすぐさま立ち上がって歓迎する。来てくれた。言葉に表せないくらい嬉しかった。たった一人、この人にだけは強引に話を通してしまったから。
「まだ少し時間があるわ。ちょっとだけ、つき合ってもらえるかしら」
誘われるままに手を引かれて外に出る。陽射しは暖かく、少し風のある日だった。
「許してね。私、貴女たちの結婚に反対したわ。一度は賛成したくせに貴女の目のことを知った途端、手のひらを返したように。嫌な女だと思われているのでしょうね」
繋いだイリアの手のひらは温かい。一つ一つの言葉に応えるために握り返してみる。
「イリア様、そのような」
「今はもう反対していないの、本当よ。テーゼはずっと一人だったの。周囲に自分を認めさせるために、ずっと……一人で頑張っていた。でも私にはどうしてあげることも出来なくて。あの子には貴女が必要なのね。姉なのに大事な局面で応援してあげられなかったこと、後悔しているわ」
メーウィアは温もりが心にまで伝わってくるのを感じた。
「イリア様、あの方は孤独ではなかったと思います。あの時……イリア様の反対があったからこそ。私はテーゼ様と踊り、みなさまの祝福を得ることが出来ました。本来ならば私はツァイト家の花嫁には相応しくない身。誰も表立った反対をしなければ、使用人は心の内で次期当主の選択に反感や不信感を抱いていたことでしょう。あの場で矢面に立って下さったこと、テーゼ様もきっと感謝されていると思います」
「……そうね。そう思ってくれていたら嬉しいわね。私の愚かな反対が貴女たちの役に立てたのなら」
手を離されてメーウィアは戸惑った。
「ここは?」
「私と貴女が初めて出会った場所よ」
イリアの庭園。風に合わせて花々のそよぐ光景が脳裏に広がった。
「メーウィア、今ここにはどんな花が咲いているか分かる?」
マルグレットの匂いが消えている。あんなに美しく咲いていたのに。メーウィアは確かめるために指を伸ばした。背の高い、小さな花が咲き乱れている。
「頑張って」
イリアは答えを言わない様子だった。身を屈め、集中して匂いを探る。マルグレットのように主張の強い花ではない。だけどこの花を知っている。
「……リュスカ」
仄かに香るどこか懐かしくなる匂い。細い茎に丸い葉、花弁が五枚の小さな花。太陽の色。口にした途端、イリアの柔らかな身体がメーウィアを包んだ。
「ああ、やっぱり分かるのね。メーウィア、この一画にはリュスカしか咲いていないのよ。私が黄色の花園に染め替えたの……貴女のかつての使用人に頼まれて」
びくりと肩が震えた。フラウに頼まれて? いつ。どこで。なぜ彼女が。かつての、という響きは切なくメーウィアの心を揺らした。
「突然声をかけられて驚いたのよ。でも……私はずっと貴女に謝りたくて、謝れなくて。そんな時に頼まれたの……絶対に貴女が喜んでくれると断言されて私もすぐにその気になったわ。夫に頼んで毎晩リュスカの苗を持って来てもらったの」
「イリア様、フラウと話をされたのですか? 一体、いつ……?」
フラウが姿を消した理由は今やこの家の者なら誰でも知っている。その前に、どこかでフラウと会っていたということになる。イリアは答えてはくれなかった。その代わりに。
「どういう意味かずっと分からなかったけれど、今、理解したわ。リュスカは他の花を引き立てることで映える花……花の女王は一輪あれば十分だものね。貴女にはこの庭園が似合うわ、とっても」
――お嬢様には黄色が良くお似合いです。
知らずとも好きになっていた色。メーウィアの所持品も黄色で揃えることが多かった。そうすればフラウが喜んだから。
「婚礼の日に間に合って良かった。儚い花の命を摘み取るのは心が痛むけれど、今は許されると思うの」
メーウィアは頭上から降りかかるなにかを感じた。ふわり、柔らかな羽のように。幾重にも。
「リュスカに引き立てられた貴女はとても素敵よ、マルグレット」
ベールを被った頭に。肩に。腕に。ぱらぱらと優しく降り積もっては落ちて行った。
「受け取って、これが、彼から貴女への結婚祝い。そして私からはこの庭を。私はじきに夫の家に帰らなければならないから……これからは貴女がここを守って」
「そんな……」
失った悲しみと向き合うことが辛くて、心の奥底に閉じ込めてしまっていた。共に歩んでくれた存在を。忘れられるわけがないのに。
「泣いては駄目よ。メーウィア、私は彼のことを知らないけれど、彼は貴女のことが本当に好きだったのね。貴女が幸せになることを心の底から望んでいたのでしょうね。だからどうか……今は、笑って」
彼から貴女を奪った私たちが言えた義理ではないけれど、とイリアは少し寂しそうに告げた。
肩に手をやる。小さくて存在感もないけれど、たくさん集まればとても鮮やかなのだと。フラウは気に入っていた。積もった花を指先で摘む。リュスカ、太陽の花。メーウィアを引き立てるためにフラウが選んだ、色。酷く傷ついたに違いないフラウはメーウィアを傷つけて、そして最後までメーウィアのためを想って去っていた。
「姉上、メーウィア!」
「あら」
イリアの反応よりも素早くメーウィアは振り向いた。愛する人の声が。足音がこちらに向かってくる。腕を伸ばすと応えるように掴まれた。
「こんなところでなにをしている。もう始まる時刻だ、花嫁が消えて大騒ぎになっている!」
「あら……ごめんなさい。私が連れ出したの。誰にも邪魔されないところでお祝いの言葉をあげたくて」
「後にしてくれ! しかもなんだ、花屑を……」
乱暴に払おうとするテーゼの腕を、メーウィアはやんわりと押し止めた。顔に浮かべたのは懇願混じりの微笑。花を払わないでと口にすることは出来ない。婚礼の日に、他の男から贈られた花を。問い質すのも面倒だったのかテーゼは無言で願いを叶えてくれた。
「テーゼ、こんなにおめでたい日に怒鳴ったりしては駄目よ。分かったわ、急いで戻りましょう」
「走れ。間に合わない」
手を取られてそのまま引かれそうになるのをメーウィアは必死に抵抗した。その意図を真っ先に察してくれたのはイリア。
「嫌に決まっているでしょう。走るだなんて、手を繋いだって恐いわよ。それに転んだりしたら大変よ。身重の花嫁に、誰のせいでこんな身体になったと思うの」
「……分かった」
妙に低い声が花園に漂ったかと思うとあっという間にメーウィアは抱き上げられていた。重心を失って踊らせた手足がしっかりと抱えられる。
「テーゼ様?!」
「こうすれば異存ないだろう」
「良いの? そのまま式場に突撃したら、ちょっと楽しいことになるわよ? ふふ、私は素敵な演出だと思うけれど……」
「結構だ!」
花嫁を抱えて花婿は走る。腕を回してしっかりと掴まったメーウィアは小さく声を立てて笑った。ふいに、風が強く吹き抜けていった。
「まあ……綺麗。メーウィアにも見せてあげたいわ」
イリアの声が流れていく。
祝福を授けるように太陽の花弁が空に舞った。




