第二十三話:Lost
目が眩んだ。
霧が色濃く、尋常ではない深さに。
「あ……」
閉ざされた世界で両手の指だけを動かす。失われた感触。
さっきまでそこにあったはずのフラウの気配が、今はもうどこにもない。さようなら、愛しい人。それが最後に聞いた言葉だった。
どうなっているの……?
あまりにも突然で。激しく思考が交差してなにもかも分からなかった。
私はもうお嬢様の使用人ではありません
どうしてそうなってしまうの?
やっと結婚が決まったのに。それも新興勢力として頭角を現す有力貴族との。今まで尽くしてくれた分も含めて、これからはフラウに相応しい待遇をあげられるはずだった。
今のままの私では主人として相応しくないの? それなら、言ってくれればもっと。
目眩が強くなってメーウィアは思考を放棄した。白い闇が、暗闇に……そのまま崩れ落ちた。
――今はもう遠い昔の出来事。
「メーウィア、今日から彼がお前の使用人だよ」
赤いと呼ばれる靴を履いていた。青いと呼ばれるドレスを身に着けていた。黒いと呼ばれる髪を、私は持っていた。父が新しい使用人を連れて来る度に繰り返す台詞をいつも投げやりに聞いていた。
「お嬢様、初めまして。本日からお仕えさせて頂きます。フラウとお呼び下さい」
父は”彼”と言った。
女では埒が明かないから今度は男を連れて来たのだろうか。誰が来ても同じだった。
「誰にも私の目の代わりなんて出来はしないわ。使用人なんてもういらない。お金の無駄遣いよ」
「メーウィア、でもお前は一人では生きてはいけないんだ。分かっているだろう?」
そんなことないわ。一人で歩く練習だってしているのよ、お父様。まだ完璧ではないからお披露目は出来ないけれど……目が見えなくたって私は。頑張って、いるのよ。
答えない娘を放置して父と使用人は話し合っていた。しばらくして気配が近づいてくる。
「お嬢様、どうかお側に。きっとお役に立ってみせます。試して下さい、ご満足頂けるまで私からはなにも求めません」
「お金はいらないと言うの?」
メーウィアは驚いた。
三度の食事と寝床があるだけで満足するなんて、今までどんな生活を送ってきたのかしら。そんなにまでして仕事が欲しいのね。目が不自由で怒りっぽい娘の使用人にはこの程度がお似合いなのね。もう、まともな使用人を雇う力はプリアベル家にはないのね……
「はい。お嬢様が私を手放したくないと、そう思って下さった時に正式に雇用して下さい」
そしてフラウとの主従関係が始まった。
「お嬢様、お近づきのしるしに私と一曲踊って頂けませんか」
「どうして平民なんかと。使用人のくせに図に乗らないで、お前は言われたことだけやっていれば良いのよ」
「目が見えないと怖いですか? 貴族なら一曲くらい踊れないと恥をかきますよ」
「! そこまで言うなら踊らせてみなさいよ」
振り回される恐怖も顧みずに腕を突きつけていた。
威勢が良いのは口だけ。あの頃の私は自尊心だけが強くて。なんども足がもつれた。その度に二人の立ち位置は入れ替わって、回っていたのだと知ったのは踊り終わってからのこと。フラウは知らぬ振りをしてくれた。
「……驚きました。練習すればもっと上手くなりますよ。侮った無礼をお許し下さい」
「分かれば良いのよ?」
誇らしげに顎を反らしても、踊れたのはフラウのお陰だと分かっていた。メーウィアは今まで一度も踊ったことがなかったのだから。最初の頃のフラウはなにかと強引で、後から思えば女主人との距離を縮めようと必死だったのかもしれない。
その日の食事にも困るような下層の民ではない。彼は教養と品格を兼ね備えた貴族の庶子だった。接する時間を重ねる度にそれは明らかになって行く。
フラウを信じていれば立派な貴族になれる。それが心に初めて灯った希望の光。正しい食器を使って一口も零さずに食事が出来るようになると父と母は泣いて喜んでくれた。目が見えない不安と恐怖は積み重なる自信によって駆逐されていく。傍らにはいつもフラウがいた。
「私は一人娘なの。私の値打ちでプリアベル家がどう扱われるか、決まるわ。だから私は歩けるようになりたい。お父様に恥ずかしい思いをさせたくないの。目が見えないなんて誰にも分からないくらいに……お前の力が必要だわ」
「お手伝いします。お嬢様、歩く訓練だけでなく私が知る限りの知識と教養を貴女に。貴族令嬢の誰にも負けないくらいの実力を身につけましょう」
メーウィアに色を教えようと、ただそれだけのために花壇の手入れを始めたフラウ。植物に興味を抱いたのはその頃。芽が出て、蕾、綻んで、花開くまで。触らせて教えてくれた。側から離れないで下さいと言われて一緒に水を遣った。
「フラウは貴族の庶子なのでしょう? お父様から聞いたわ。庶子は平民の中でも一番優れた血統を持っていると。そういう人を使用人として雇うのは有力貴族でも難しいことだと。どうして私に仕えてくれるの? プリアベル家にはお金もないし、私は目が見えないのに……」
「理由ならありました。ですが今は、もうどうでも良いのです。貴女にお仕えしたい、それではいけませんか?」
「フラウ……」
プリアベル家は名ばかりの貴族で。だからせめて、振る舞いだけでも一流の貴族として。フラウが自分の主人を誇れるくらいの教養を身につけたい。財力はないけれど、それこそが使用人を従える貴族の品格。
「お嬢様、お側にいさせて下さい。これから先もずっと」
「今までの使用人みたいに辞めたりしない? ずっと私を助けてくれると約束して。それなら私は」
今はもう遠い約束。私はかけがえのない使用人を手に入れた。
「……さまっ。メーウィア様!」
いつしか、一人でいることが寂しいと感じるようになっていた。
「フラウ……?」
「ああ、メーウィア様っ」
重い瞼を持ち上げると自分を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
コアの声。
メーウィアはぼんやりしながら身を起こした。
私のお嬢様、愛しています。どうか幸せに。
唇をそっと指先で拭った。衝撃と混乱で散らばっていた思考の欠片が繋がっていく。あんなことをして、フラウはツァイト家には残れない。彼は望んでそうしたのだ。
「馬鹿ね。身分が違うのに……」
馬鹿は私。
自分が幸せになればフラウも喜ぶと思っていた。幸せとは有力貴族との結婚――かつてはあまりにも儚かった夢。実現して、結果を見てみればメーウィアはフラウを失っていた。
なんて残酷な思い込み。
どんなに酷い仕打ちをしてしまったのだろう。どれだけ長く想いを秘めていたのだろう。受け入れられなくても、してあげられることはあったはず。少なくともフラウが嫌がる命令を強制はしなかった。
「メーウィア様、傷がついてしまいます」
強く握り締めた拳を、コアが気遣いながら解こうとしていた。
「身分違いの恋なんて辛いだけなのに抑えられなかったのですね。諦めてしまえばずっと一緒にいられたのに、可哀想……」
「コア、知っていたの?」
「あっ。あの……お、お許し下さい。私、テーゼ様のお側にいて欲しくて……申し上げることが、出来ませんでした」
メーウィアは拳を緩め、怯えながら告白するコアの手を包み込んだ。コアを責める理由はどこにもなかった。
「メーウィア様、彼はメーウィア様のことを、ずっと……?」
「もうここには戻って来ないわ。私の元へはもう二度と」
貴族の誇りと引き換えに大切なものを失ってしまった。
テーゼの求婚よりもフラウの方がずっと深く愛してくれていたのかもしれない。今まで一緒に過ごした日々と告白にはそれだけの重みがあった。それでも平民で使用人のフラウでは、メーウィアを守れても名門プリアベル家を守ることは出来はしない。自分はやはり貴族の娘だった。誇りを抱いて生きていたかった。
「メーウィア様、この家に残ってくれますよね? いなくなったりしませんよね? お願いです。テーゼ様と一緒に」
「大丈夫よ。私には守らなければならないものがあるから……」
あまりに白々しい言い訳に自分を嘲笑いたくなる。身分、立場。今までのメーウィアを形作ってきたもの。メーウィアとフラウを隔てるどうしようもない壁。しかしフラウに愛を告げられたことで、皮肉にもメーウィアははっきりと自覚した。テーゼでなければ――自分はテーゼを、愛しているのだと。
コアの前で涙は流せなかった。だから大切な宝物をなくしてしまった悲しみを、心の中で静かに噛み締めた。
メーウィアは知らなかった。
父とフラウが交わしていた契約の詳細と、自分に用意されていた約束の未来を。