第二十二話:Flau(2)
「お前は本当にそれで良いのか。今ならまだ間に合う」
主人の声がフラウの脳裏に蘇る。昨夜、プリアベル家で交わされた会話だった。メーウィアが花嫁に選ばれたと、主人は最初は信じなかった。しかしフラウの真剣な眼差しまでを否定することは出来ず、本当なのか? と小さく念を押した。
「ツァイト家に牙を剥く力がプリアベル家にないことは主人も良くご承知のはずです。差し出した娘を取り返せば確実に……潰されます」
普通の親ならば喜ぶだろう。野心に満ちた、娘を政略の駒としてしか考えない親ならば。プリアベル家の主人は違った。恵まれた身体で生を受けなかった娘の幸福を、願っていた。
「娘には既に決まった相手がいると、申し上げれば……」
「ならばなぜ候補として参加させたのかと責められるだけです」
「しかし、馬鹿な。なぜメーウィアが選ばれる? あの子は不自由なんだぞ。有力貴族の家に嫁いで……権力抗争に巻き込まれるのがどれほど恐ろしいことか……! それにお前との約束はどうなる。我が家に庶子を雇い続けるだけの経済的余力はなかった、だから、娘との結婚で穴埋めはすると。親として娘を愛してくれる男に嫁がせたいと思うのは当然だろう? 違うか? フラウ!」
なぜ止めなかったのかと、なぜ途中で連れ戻さなかったのかと主人はフラウを責めた。貴族同士の権力争いに敗れた過去を持つプリアベル家は臆病になっていた。主人に野心がないのも、同じ過ちを繰り返すことを怖れるがため。
ただし主人は分かっていない。誰がメーウィアを愛するか、よりも重要な問題があった。
「試験期間中、ずっとお嬢様を見守ってきました。お嬢様は間違いなくツァイト家の次期当主に惹かれています。私と結婚しても幸せにはなれません」
「だ、だが。お前の気持ちは告げたのか。お前が言い募れば」
「いいえ。それでお嬢様の心が私に傾くとは思えません」
「それならなぜ、こうなる前に告げなかった。側で見ていたのなら分かったのだろう?」
「平民と結婚することを嫌がっていたお嬢様に? 私にはお嬢様が諦めて下さるのを待つことしか出来ませんでした」
貴族との結婚を、諦めて欲しかった。そうすれば婚約者として誰よりも相応しくなれたのに。
「次期当主は日々を仕事に追われ、それ故に地位を得た方だと聞く。そんな方がお前以上に娘のことを愛してくれるのか?!」
あの男が噂通り女に無関心で家の利益ばかりを考える存在だったなら、こんな結果には終わらないはずだった。目の秘密を知られた時点で失格にされたに決まっている。
「ツァイト家はお嬢様を手に入れるために王の許可を得ました。私の力では……もう、どうしようもありません」
二人の間になにがあったのか自らの目で確かめたわけではない。それでも分かった。目が見えない花嫁候補のために王に直訴したあの男の行動は、プリアベル家の家格以上にメーウィアを望んでいるのだと。
「主人、もうよろしいのです。どちらを選べばプリアベル家のためになるかは比べるまでもないこと。どうかこの家の主人として、取るべき道を選択して下さい」
「王の、許可……次期当主の力か。平気で恐ろしいことをなさる。お前は、これからどうするつもりなんだ……」
次第に弱々しくなって行く主人の声は権力に屈する卑小な貴族の姿そのものだった。プリアベル家に力はない。力がないからこそ、決定権はないのだ。貴族ではないフラウの方がまだ冷静だった。
「また新しい家を探します。庶子の使用人は引く手数多ですから困ることはないでしょう」
ふりだしに戻っただけ。メーウィアへの想いは計算違いだったと割り切るしかない。初めから、フラウは貴族の格を取り戻すために生きていた。
「フラウ、娘にはお前が必要だ」
フラウは沈黙で答えた。今更なにを望むというのだろうか。もうなにもかも、元には戻せないのだ。杖として一生を終える気にはなれない。主人も不毛なことを言ってしまったと気づいたのだろう、すぐに肩を落とした。
「……なんということだ。本当に、すまない。お前は心の底から娘を愛してくれたのに」
「よろしいのです。私はお嬢様から信頼以上のものを勝ち得ることが出来なかったのですから」
胸に渦巻くあらゆる感情を静めてフラウは頷いた。
「……」
書庫を出た後、フラウは吹き抜けの渡り廊下を歩いていた。
あまりにも無力。自らが招いた罰。メーウィアが他の男に惹かれるのを傍らで止めることも出来ず、想いを告げることも出来ず、貴族が相手では彼女を取り戻す力もなかった。
メーウィアの待つ部屋まで繋がった一本の細い道。自然と足取りは鈍くなる。途中でマルグレットが咲き誇る庭園が視界に入るとついに立ち止まった。色とりどりの花が競い合う中、女王然と美しい姿に想い人を重ねてしばらく見惚れる。
庭園の主人が花園に姿を見せた時、フラウは足を踏み出していた。
メーウィアが愛した花。マルグレット。シャルノー。
あそこには一つだけ、足りないものがある。