第二十二話:Flau(1)
太陽が高く昇った頃、フラウはようやくツァイト家に戻った。いつものように、そしていつもより深刻に美しい女主人のことを考えていた。玄関口でツァイト家の使用人に進入を阻まれた時にはすべての事態を察知する。
……今まで誰よりも花嫁の近くにいた者が、警戒されている。彼女の信頼を一身に受けていた自分が。
当主が姿を見せた瞬間にそれは確信へと変わった。
「君が戻って来るのを待っていたよ」
「……有力貴族の当主ともあろう方が他家の使用人風情に、なにか」
思った以上に行動が早い。あるいは、メーウィアが求婚を受け入れるまでは介入する気はなかったのかもしれない。行き過ぎた忠誠は肝心な人には伝わらず、彼らを怪しませただけだった。
「大事な話がある。少し寄って行きたまえ」
「以前に申し上げたはずです。私はお嬢様の命令にしか従わないと」
「残念だがその言葉はもう通用しない。君のお嬢様はツァイト家の花嫁となるのだ。我々にも命令する権利がある」
「……」
強制力を持つ声に黙って従い、通されたのは無数の本棚が整然と立ち並ぶ部屋だった。紙特有の匂いはしても埃臭さを感じさせないのは持ち主の管理能力の高さを示している。
「当家の書庫だ。領地に関する資料はもちろん、今回の花嫁選びで収集した情報はすべて揃っている。息子が出入りすることもあるが今は留守、鍵は私が持っている。ここなら誰かに盗み聞きされることはないだろう」
壁に取りつけられた本棚が空間を圧迫している。息苦しさはそのせいか、それとも気持ちの問題か。用件を尋ねる前にオルドは口を開いた。
「フラウ=テルス、シルファニー家を知っているね?」
突拍子もない問いかけをフラウは静かな瞳で受け止めた。
「名と勢力を併せ持った大貴族だ。形としてはツァイト家とプリアベル家の長所を合わせた感じかな。残念ながら我が息子と君の女主人が結婚しても対等に並ぶことなど有り得ないが。それほどに強力で、絶大な力を持つ貴族。家名、財力、地位、影響力……レフガルト家の当主は当家と協力関係を結び、その勢いを少しでも抑えようと奮闘しておられるが……比べれば新興勢力などまだまだ」
杖が床を叩く音が規則的に鳴り響く。幾つかの本棚を巡った後、フラウの背後でそれは止まった。
「名門にして大貴族、シルファニー家。フラウ=テルス、君の生家だ。そうだろう?」
正体を看破されてフラウは両目を閉じた。
「驚いたよ。提出してもらった身分証明を見た時にテルス領の出身だということは分かっていたが……嫡子として認められなかったとはいえ、名のある大貴族の庶子が良くも使用人などに身を落とす気になれたものだ」
隠していたつもりはない。ツァイト家が少し調べれば分かるような事実だ。しかしフラウの女主人は出会った頃からずっとフラウの出自を知らないままだった。貴族の庶子としか、それ以上に興味を抱いてはくれなかった。それはどんな過去があったとしても受け入れるという彼女なりの信頼の証だったのかもしれないけれど。
フラウ=テルス・シルファニー。嫡子であったなら、それがフラウの本名だった。
「腐っても……か。息子は君の女主人ばかりを気にしていたのだがね、私は最初から君のことを考えていた。人品卑しからざる容貌、洗練された身のこなし、使用人とは思えぬ自己主張の強さ。まさかツァイト家よりも力を持った家の子だったとは」
「私は第八夫人の子、物の数にも入りません。母はシルファニーの姓を持っていましたが私とシルファニー家は無関係。嫡子として認められず寄る辺となる家を持たない、それが庶子の定め」
ゆっくりと振り返り、開いた目に氷の冷たさを宿してフラウは答える。オルドは動じなかった。
「だが、生まれてより十年間は実子と同じ扱いで一通りの教育を受けたはずだ。メーウィアには君が教えたのだろう。大貴族の令嬢と言っても差し支えないほど彼女の動きは美しい。自立してからも母方の家からは経済的援助を受けることは出来ただろうし、両親共に貴族の血統であれば庶子の社会的地位は決して低くはない。君一人を雇うだけでもプリアベル家の財政は圧迫されただろうに」
雇われた家の娘はとても美しく、目が不自由だった。幼い頃の彼女は歩く度に物にぶつかり転んでは当たり散らすから、今まで雇ってきた使用人は誰もがすぐに辞めてしまったのだという。
暗闇に生きる少女を憐れんでフラウは自分の世界を分け与えることにした。自分の目に映る世界と同じものを、少女の頭の中に。
「君はメーウィアに恋をしていたね?」
オルドの言葉が身を貫いた。
――フラウ、見えるわ。黄色は太陽、リュスカ。青は空とシャルノー、マルグレットは赤い炎、血の色なの? そう。でもきっと綺麗ね。この世のすべては花と結びつければ良かったのね。私にも見えるの、本当よ。
世界を知るようになってから少しずつ明るくなったメーウィア。初めて見せた笑顔は太陽のように輝いて、自信を持って歩く姿はマルグレットの赤い花のように気高く美しかった。
同情が愛情に変わったのはいつだったのか、覚えていない。
貴族の誇りを抱いた彼女は使用人と恋に落ちることなど考えてはいなかった。平民との結婚に屈辱を覚えるほどに誇り高い人。どんなに愛しさを込めて抱き締めても、メーウィアにとってフラウはあくまで使用人、ただの杖。それでも構わなかった。
「……プリアベル家から支給された報酬は結婚資金として、いずれあの家に還元されるように蓄財していました。私はあの方の婚約者だったのです」
欠陥を抱えた娘を欲しがる貴族などいない。いずれ彼女は自分のものになる。大金をはたいて貴族の庶子を雇った家の主人、嫁げぬ娘のために婿養子を探していた――身体が不自由な花嫁をもらってくれる貴族の血を引く男を。相続権を狙っていた庶子の少年、どの家でも構わないと世間を渡り歩いていた――欲しいのは愛でなく貴族の誇り。両者は引き寄せられるようにして出会った。
「合理的だね。貴族との結婚に成功すれば名と身分が手に入る。なまじ貴族の血を引くだけに、返り咲きたくなる気持ちは分かる。君自身も本気で彼女を好きになるとは思っていなかったようだね」
雇用契約を結んだ時にプリアベル家の主人は言った。
――娘に仕え、娘を愛してくれるのならばプリアベル家は君にあげよう。
フラウは冷淡に約束を交わした。欲しかったのは貴族の誇り、愛など。
けれど美しいメーウィア。強がって胸を張り、陰では健気な努力。転び、つまずき、ぶつかって。いつも隠れて泣いていた。なんど、その肌に醜いあざを作ったことか。誰の力も借りずに真っ直ぐに歩けるようになった時、少女は気高い笑みを浮かべた。すべて、すべてを側で見守っていた。
いつしか優先順位が入れ替わっていた。貴族の誇りは二の次、貴女の愛も求めはしない、傍らで愛することさえ許してくれるのならば。心は手に入らなくても、ただそれだけで良かった。他の誰にも奪われなければ。
「私が口を出すのもどうかと思ったのだが息子には大きな借りがあってね。ここは大人しく身を引いてもらえないだろうか」
「それは脅しですか」
「頼んでいるのだよ」
「良くもそんなことを」
オルドは首を振って勝ち誇った笑みを浮かべた。
「はっきり言った方がお好みかね? これが貴族の世界だ。君は足を踏み込んでいるのだ、力を持った方が欲しいものを手に入れる」
大貴族シルファニー家の血脈を宿しながら実子と認められなかったが故に、すべてを手に入れる前にすべてを失った。家も名も身分も。ただそれだけの事実が、決定的な現実がフラウからメーウィアを奪い去った。
貴族だったなら。
そうであったらシルファニー家の嫡子がプリアベル家の令嬢と出会うことなどなかっただろう。彼女の強さが儚いことを知り、支えるために側に寄り添い見守ることも。
だからこれは罰だ。打算で近づいて恋に落ちた愚かな自分への。もう良い。平民でいる限り、彼女の心は変えられない。
「あの方を……必ず幸せに」
花嫁候補の参加を反対しなかったのは、いずれ使用人と結婚することになる愛しい人の貴族としての誇りを守りたかったから。それに対するプリアベル家の主人とフラウの考えは完全に一致していた。有力貴族の花嫁選び――メーウィアが選ばれるはずがない。だからせめて良い思い出になれば、と。しかし彼女は選ばれてしまった。貴族の花嫁になることを望んでいたメーウィア、彼女が望む幸せを奪ってまで自分のものにするにはフラウは愛する心を捧げ過ぎてしまっていた。
「……ツァイト家が目の不自由な娘を花嫁に選ぶとは思いませんでした」
真っ直ぐに顔を上げたまま書庫から立ち去る。傲慢な貴族の脅迫など怖れはしない。失うものはなにもない。ただ一人、失いたくない大切な人は、手の内からすり抜けてしまったのだから。
フラウがツァイト家に戻ったのはメーウィアに別れを告げるためだった。