第二十一話(2):Lovers
服を掛け終えると名前を呼ばれた。記憶した間取りを脳裏に描き、メーウィアは一人で声の主の元へと戻る。
「大したものだな」
「私にとってはこれが普通ですから。他の場所も、暮らしていればじきに慣れます」
「十分だ。時間は幾らでもある」
それだけではなかった。誰にも見抜かれないほどに振る舞うことが出来たのは。
「フラウのお陰です。たった一人の使用人ですが私にとってはかけがえのない存在……」
「今夜はどうした? 姿が見当たらないが」
「家に帰らせてあります。両親に結果を知らせなければなりませんから」
フラウの不在を告げるとなぜかテーゼは沈黙した。
「テーゼ様?」
「随分と信頼しているな、いつから雇っている」
「はい。少女の頃からもうずっと……私が今、貴方の前に立っているのはフラウが私と共に歩んで来てくれたからです。貴方と出会うことが出来たのも」
メーウィアは自分にとってフラウがどれだけ大切な存在かを訴えた。今はプリアベル家の使用人だが、ツァイト家の力で雇って欲しいと願った。フラウの存在をこの家でも認めて欲しいと。
「雇用前の経歴ははっきりしているのか」
しかし、投げ返されたのは疑惑に満ちた言葉だった。
「フラウを疑うのはおやめ下さい。私が責任を持って保証します」
「その割にはあまり使いこなせていなかったようだが? 虚勢だな」
皮肉混じりの鋭い指摘にメーウィアは怯んだ。自分が感じていたフラウの態度は気のせいではないのだと、改めて実感して悲しくもなった。
「それは……この家に来るまでそのようなことはなかったのです。不満を表に出すことはありましたけれど、私の命令を無視してまであからさまなことは」
「庶子の使用人には主人を選ぶ権利と貴族の親から生まれた誇りがある。従える者の品格が高く評価されるのはそれ故だ。扱い難いのは当然、待遇も桁違いのはずだが……プリアベル家に雇う力があったというのが正直疑問だな。どういう経緯で雇ったのか気になっている」
テーゼの分析はどこまでも冷静、客観的で、言われてみれば当然の疑問だった。寂れたプリアベル家に雇われなくてもフラウならもっと恵まれた環境を選べたはず。
「フラウを連れて来たのは父です。私はなにも……」
メーウィアにとって重要なのは女主人の目が不自由でも側にいてくれるかどうかで、一緒に過ごしてきた時間がすべてだった。過去にどんな経歴があったとしてもフラウを手放すつもりはない。しかし、それではツァイト家で通用しないことも歴然としていた。
「目を逸らすのはもうやめろ」
急に顔の向きを動かされて反射的に両目を伏せてしまう。気まずさも手伝って、言い訳が口を突いて出た。
「……気持ち悪くありませんか? 私の目は虚ろだから、俯いていた方が良いと父に言われたことがあります」
「これ以上なにを隠すつもりだ。まだ振り払わなければならない秘密があるのか」
逆らえず、ためらう素振りを見せながらもゆっくりと目を上げた。影が映っている。近い。目を凝らしてじっと見つめてみるものの、霧は依然として晴れなかった。
「見えないのなら触って確かめてみたらどうだ」
「それは……あの、よろしいのですか?」
「結婚相手の姿形に興味はないのか」
軽く右手を引かれて言われるままに伸ばしてみる。指で顔の輪郭をなぞってみても、肌の感触以外に自分とあまり違いが分からない。それでも、触れる前に感じた不安は徐々に嬉しさへと変わっていた。気難しいこの人に心を許されている気がした。
髪の長さを確かめてみたり、触ることに夢中になっていると冷たく固い物が左手の薬指に触れる。関心はすぐにそちらへ移った。
「これを元に正式な物を作らせる。少し緩いな、調整が必要か」
「指輪ですか?」
「無駄金としか思えないが周囲に知らしめるためには必要だからな」
「……ありがとうございます。嬉しいです」
「見えないのにか?」
無神経な問いが返って来る。もう少し言いようがあるだろうに、と思いはしても不快ではなかった。声音で分かる。向けられたのは純粋な疑問。
「高価な宝石も路傍の石も私にとっては同じこと……ですが、指輪には宝石としての価値を越える意味があります。どうか無駄金だなんて仰らないで、どんな石をつけて下さったの?」
メーウィアは指輪をはめたままの指に口づける。不自由な目の代わりに、その形と感触を確かめるために。この人の妻になるという証。
「ただの金属の輪だ。手配する暇がなかった、正式な品には赤い石を」
不自然に言葉が止まる。色を理解出来ないと思い至ったのだろう。そんな心配は無用とばかりにメーウィアは微笑んだ。
「マルグレットの色ですね。あの花……好きです。とても良い香りで」
イリアの庭園にも咲き乱れていた。甘く官能的な匂い、柔らかな花弁。花の女王と呼ばれ、女性に愛される花としても広く知られている。
「赤はマルグレットか」
「はい。私はそうやって色を覚えました」
それがフラウの教えてくれた世界だった。色は触れて感じることは出来なくても色を持つ”物”になら触ることが出来る。あとはそれらを頭の中で繋げるだけ。
「良い覚え方だ。これは婚約指輪だが、結婚指輪は義母の物を譲り受けたいと考えている」
「……」
「無駄かもしれない。だが、しばらくは待ってみるつもりだ。義母を無視するようなことは避けたいと思っている。あの人の苦しみは理解出来ないが、父のために」
メーウィアは密かに喜んだ。親子が不仲でいるのは悲しい。正夫人の企みは破られたが、また同じことが繰り返されるかもしれない。そうならないためにも少しずつでも歩み寄って欲しかった。正夫人も自分の恋敵とその子は違う存在なのだと、いつか分かってくれる日が訪れるはず。
「では、しばらくは婚約指輪のままで?」
「不満か」
「いいえ。素敵な考えだと思います」
首を振ってもう一度テーゼの顔を見上げた。当然だが、見えはしない。しかし同じように視線を注がれているのは分かる。無意識だった。自ら頬に手をかけ顔を近づけていた。
「あ、あの。そろそろ、私、お邪魔、ですよね……?」
コアの声が二人の意識を現実に引き戻した。
「コア……まだいたのね」
「います、先ほどから、ずっと! 酷いです、今夜は私がお側にいなくちゃって張り切ってたのにっ」
「……そろそろ自室に戻る」
「あ」
温もりが離れ、メーウィアは行き場のなくなった手を自分の胸に押し当てた。
「明日の朝、上着を取りに来る。朝食を用意しておいてくれ。花嫁候補に支給していたものではなく、ツァイト家の朝食をだ」
「お待ちしています」
気が利かないコアを半ば恨みながらも、メーウィアの顔に浮かんだのは幸せな微笑みだった。