第十九話:Without my stick
「今夜は早く戻る。妙な気を起こすな、もう二度と」
それが真剣な願いにも聞こえたのでメーウィアは大人しく頷く。朝から出仕する余裕もなかったと言う二人は慌ただしく城へと出かけて行った。
◆
「お嬢様……」
メーウィアがツァイト家に残ると告げた時、フラウの声は間違いなく掠れていた。驚きも当然のこと。あれほど強く求められるとはメーウィア自身も思っていなかったのだから。
「花嫁に選ばれました。プリアベル家はツァイト家との婚姻を成立させます」
「まあ、メーウィア様! おめでとうございます! 私は当然メーウィア様が選ばれると思っていましたけど!」
同じく部屋で待っていたコアは手を打って祝福した。出て行くと決めた次の日、つまり今日。フラウが荷造りを始めてもコアはメーウィアを引き止めようとはしなかった。ただ、残念です、と心から残念そうに言って。彼女の本当の主人――テーゼに告げ口する以外に、出来ることはもうないと分かっていたのだろう。戻って来たメーウィアの言葉に弾けたように喜んだ。
「よろしいのですか? 本当に。お嬢様はそれで、よろしいのですか」
「ツァイト家の当主も次期当主も、私の境遇を知った上で私を望んで下さると。そのお気持ちに背くことなど出来ません」
「お嬢様のお気持ちは? お嬢様が家のことを第一に考えていらっしゃるのは分かっています。ですが、これではあまりにも」
不自由なメーウィアの身を心配してか、確認するようにフラウは言った。有力貴族の家に嫁げば平凡な人生を送ることは出来ない。目が不自由なばかりにいつか打ちのめされる日が来るのではないかと。
「もちろんプリアベル家のことは大切よ。私は一人娘、家を切り離して我が身を考えることなど出来ません。心配しないで。私にとってもテーゼ様は理想的な方……あの方と一緒にいられるのなら、私は」
「違います、お嬢様」
強く引き寄せられてメーウィアは足を踏み外しそうになる。フラウがそのような過ちを犯すはずもなく、身体はしっかりと支えられていた。
「では主人が用意されている縁談の方は、お断りなさるのですね?」
「ええ。だって、ツァイト家より強い相手ではないのでしょう? もしそうであっても私がお慕いしているのは」
「お嬢様、その縁談の相手は」
「フラウ?」
髪に差し込まれた指の力が強くなるのを感じて、メーウィアは戸惑った。そんなに簡単に断れる相手ではないのだろうか。父が早まって婚約を成立させていたとしても、大抵の貴族はツァイト家が相手ならば尻尾を巻いて逃げて行くだろうに。平民であれば尚更。
――震えているの?
霧に閉ざされた世界では声の調子、言葉の内容でしか相手の感情を推し量ることが出来ない。抱える障害のためにこの身に触れることを許してきたフラウに対しては、触れたその先から伝わる感情を探ることは出来ても……それはとても難しかった。
「……あなた、もしかして、」
コアの声があまりにも深刻だったのでメーウィアはそちらへ顔を向けた。
「いいえ、お嬢様。お嬢様が心から望まれることならばよろしいのです。私は本当に……心配ばかりしていますね。あまりに急に決まったので驚いてしまっただけです。お嬢様、おめでとうございます。後のことはすべて私と主人にお任せ下さい」
編んだ髪を優しく引かれてフラウに注意を戻す。いつもの落ち着いた声だった。愚痴も文句も、聞き入れられなくても。フラウは不満があればいつも示した。プリアベル家にいた時も、ツァイト家に来てからは特に。だからメーウィアはその言葉を信じた。
「これからは心配しなくて良いのだわ。プリアベル家の将来も……平民と結婚しなくても、私は。嬉しい……良かった……」
テーゼの出自や王命が偽りであったことは伏せ、メーウィアは告げられた言葉を伝えた。ツァイト家の次期当主が自分を必要としてくれたことを。そしてメーウィア自身も側にいたいと願い、心から結婚を望んでいることを。
「今まで努力をしても虚しいと思った時もあったけれど……報われることが、こんなに嬉しく感じるなんて……」
少し疲れていたが、心はとても充実していた。
「お嬢様、私は一度プリアベル家に帰って事の次第を主人に報告して参ります。ツァイト家に嫁入りされるなど夢にも思っていらっしゃらないでしょうし、準備など慌しくなります」
しばらく部屋で過ごした後、日が暮れたのを告げると同時にフラウが切り出した。朝から慌しい一日だった。それも、プリアベル家とメーウィアの運命を変えてしまうほどの。
「お父様、きっと喜んで下さるわ。私がツァイト家の花嫁に……これでプリアベル家は名門らしい名門に戻れる」
メーウィアが選ばれた。それが政略性を踏まえたものだとは分かっている。ツァイト家は家格を、プリアベル家は財力を。その上で二人は惹かれた。両家に必要なものを意識しながら。
「フラウ、もし縁談相手が怒ってくるようなら教えて。お父様が私のために良かれと思ってして下さったこと。けじめは自分でつけます」
「……。明日の朝までは戻れないと思います。どうか無理だけはなさらないで下さい」
明日の朝まで、メーウィアは杖を失う。それでも今は不安よりも嬉しさが勝っていた。その時フラウがどんな表情をしていたのかも知らずに。
その日の夜は特別だった。フラウがいないと時間の経過も分からないメーウィアは寝台に身を横たえ、ツァイト家に、テーゼの生き方に思いを馳せていた。
正統な嫡子として生まれながらたった一人の正夫人のために、妻を愛する当主の作為によって差別を受けて育った人。真実を知るイリア以外の姉たちのよそよそしい態度。義母には憎まれて。
血筋は生まれながらにして定められた証。その証をねじ曲げられて、養子として家を継がされる彼には平穏など訪れないだろう。
――逆境に立ち向かう勇気はないのか。
強い人。痛みを分かち合うことが出来たなら。目が見えないこの自分を必要としてくれるのなら、同じものを返したい。メーウィアは今までの人生で他人と関わったことがほとんどなく、この気持ちが恋愛感情なのか実のところ良く分からなかった。けれど、それはそれで良いのだと思った。側にいたいと思う気持ちに変わりはないのだから。
「……?」
いつの間にか眠りかけていたメーウィアは物音に目を覚ます。窓の外が騒がしい。誰かやって来たのだろうか。
「メーウィア様」
寝室の向こう側から声がかかる。夕食後に退室したコアが再びやって来たのだと分かると急いで身を起こした。
「どうしたの」
「良かった、起きていらっしゃったのですね。テーゼ様とダスト様がお帰りになられたのです。お迎えに行きましょう。メーウィア様にもおいで頂くようにとの命令を受けています」
「……そう」
「今夜は大事なお話があるそうですよ。邸の者はみな集められているのです」
だから夜遅くに騒がしいのだろう。邸内は外よりも慌しかった。
コアの声を頼りにメーウィアは歩いた。
「メーウィア様、こちらですよ」
呼び止められて道を誤ったことに気がつく。曲がり角、だろうか。右、それとも左? 訓練で直線に歩くことは出来るようになったものの、曲がる時は声をかけてもらわなければ気づけない。コアの足音を探ろうとしても慌しい家の様子が気配をかき乱した。
「立ち寄りたい場所があるのでしたら後ほどご案内しますから、今はお出迎えを先に」
「……」
「メーウィア様?」
「気分が、あまり……」
「まあ、大丈夫ですか。お顔が真っ青ですよ」
そのまま壁に寄りかかった。動けない。もし階段を利用しなければならなかったら……不吉な考えが頭をよぎる。
「コア、なにをしているのかね。プリアベル令嬢は私が迎えに行くという話になっているはずだが」
聞き覚えのある声がメーウィアを救った。
「え?! 当主が? わ、私、聞き間違えたのでしょうか。申し訳ありません!」
「もう良いから行きなさい。彼女は私が連れて行くから」
緊張を解いて顔を上げる。
「様子を見に来て良かった。隠す必要はない、と言ったはずだが……コアにもまだ打ち明けていないのだね」
オルドだった。助け起こされたメーウィアの耳に深いため息が届く。
「まあ、急に言われても難しいのだろう。大丈夫かね、あの使用人なしで部屋を出るとは無茶をするものだ。実家に帰したと聞いているよ。今夜は彼はいないのだろう?」
「……イリア様の庭園散策では大丈夫だったものですから、つい」
「ふむ。イリアの庭には壁も柱も段差も、ましてや喧騒もない。障害物と言えるものは素人判断で言わせてもらえば柵くらいだ。それが分かっていたから彼も君を一人で向かわせたのだろう。まったくあの使用人は大したものだ。君のことを実に良く分かっている。ずっと側で見てきたのだろうね」
「フラウは私の父が杖代わりに与えてくれた使用人ですから」
「ああ。彼は質の高い、貴族の庶子だったね。そうか、なるほど。恐ろしく高価で危険な……杖だ。まるで怖れを知らない」
不安に駆られて誘導するオルドの腕を握り締めた。確かにフラウは身分を弁えない行為を繰り返した。しかしそれは使用人を制御出来ない主人にも問題がある。彼だけが強く咎められるほどのものではないはず。
「フラウはとても良く尽くしてくれています。非礼な振る舞いはすべて私を守るため」
「そうだろうとも。普通なら許されないことだが、この件ばかりは責めているわけではないのだ。私が君の父親だったら同じことを考えたような気がしてね……さあ、着いたよ。広間だ」
「……」
ざわついた空気の中でメーウィアはオルドから離れまいと寄り添う。人が多く集まる場所は苦手だった。声が入り乱れ、気配が行き交い、自分の居場所が分からなくなってしまう。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ、テーゼ様、ダスト様」
吹き抜ける風に慌しさが一掃され、使用人の声が二人の帰宅を告げる。オルドの手に軽く押されてメーウィアは悟り、頭を下げた。
「お帰り息子たち。一日ご苦労だったね。さて、みなが呼びかけに応じてこうして出迎えたわけだが理由を聞かせてもらおうか。我々はこれでも暇ではないのだよ、さぞかし重要な話なのだろう?」
「え? 俺知らないよ。兄上が集めたの?」
「義母上は……いらっしゃらないようですが」
「うむ、気分が優れないらしくてね。気にすることはない。話したまえ」
テーゼは数秒黙っていたが――それ故に場も静まっていたが、話し始めた。それは彼が”今夜は早く戻る”と告げた理由でもあった。
「期日にはまだ早いが、私が選んだ花嫁を紹介しよう。暗黙の内にみなが知っていたとは思うが。メーウィア」
「……はい」
突然名前を呼ばれて反応が遅れる。今夜この話をするなど聞かされていなかった。
「こちらへ」
「まっすぐ歩きなさい。受けとめてくれるよ」
オルドの言葉に後押しされ、メーウィアはためらいながらも胸を張って歩いた。大勢が注目している。落ち着いて、自信を持って。近くまで行くとテーゼが手を引いてくれた。
「プリアベル家の令嬢、メーウィア=ラオフ・プリアベル。彼女をツァイト家の花嫁と決定する。同時に花嫁選定の期間は終了する」
その言葉を待っていたように拍手と歓声が湧き起こった。発表の日を心待ちにしていた温かな拍手。みな、メーウィアを歓迎していた。
「静かに。もう一つ言っておきたいことがある」
テーゼの声にすぐ場は静まる。教育の行き届いた、統制の取れた家だった。
「メーウィアは生まれつき両目に障害を負っている。誰かの助けがなくては生活に困難が生じる身体だ」
「テーゼ様!」
メーウィアは一瞬で蒼白になった。話を中断させようとするが、肩に回された腕で強く押さえられてしまう。誰も反応しない静けさがとてつもなく恐ろしかった。
「それを良く理解した上で使用人は彼女に仕えるように。結婚しても私には臣下としての職務がある、側にいないことの方が多いだろう。姉上がたにおいては良く労わってやって欲しい。これは次期当主としての私の――頼みだ」
静まり返った場にはメーウィアにも分かるくらい異様な空気が漂っていた。それは歓迎の拍手から一転して、重く冷たい雰囲気だった。