第十七話:Father
「テーゼ! どこまで、どこまで私に盾突く気なのですか。お前はこの家にやって来た時からそうでした。無愛想で、傲慢で、鼻持ちならなくて。生意気なその目で、あの女と同じ目で私を見ないで……! お前など、お前などっ!」
「正夫人、気を確かに。どうか落ち着いて下さい」
メーウィアは驚いて手を差し伸べた。親がこれほどまでに子を憎むなど、子が親を泣かせるなど。血は繋がっていなくとも、ずっと一緒に暮らしてきたはずなのに。
「近寄るな」
「あ……!」
強く腕を引かれて息が詰まる。手荒に扱われたことで重心を失い、足がもつれて――
「お嬢様!」
支えを求めて彷徨う指先に杖が触れた。メーウィアは迷うことなく縋る相手を選び取る。
「なんど申し上げれば分かって頂けるのですか。お嬢様は目が見えないのです、急な動作には慣れていらっしゃいません」
「……悪かったな」
不機嫌な声を隠しもしなかったが、テーゼは奪い返そうとはしなかった。フラウの腕の中で平穏を取り戻したメーウィアは深く息を吐く。
「義母上、ツァイト家は私が継ぐ。ダストでは当主は務まらない。本人も自覚していることだ、貴女には分からないのか?」
「テーゼっ!」
心を絞めるような悲痛な叫び。メーウィアは哀れに感じた。まるで彼女こそがこの家で孤立しているような。
錯乱し始めた正夫人を助けたのはこの場にいた誰でもなかった。開け放たれた扉を力強く叩く音が、全員の注意をその場所へと引きつける。
「取り込み中のようだが入っても構わないかね? 自分の妻が寄ってたかって苛められている姿を見るのはあまり気分が良いものではないのだが」
ツァイト当主、オルド。メーウィアにとってはエウロラとの一件以来だったが、独特なその口調は記憶にしっかりと残っていた。
オルドは誰の返事も待たずに家の主らしく悠然と割って入った。
「やあ。レフガルト家の当主、来ていたのかい。いつも息子が世話になっているね」
「お久し振りです。ご子息にはいつも助けて頂いています」
「あなた!」
「まあ落ち着きなさい、君も」
現れた唯一の味方に正夫人はすぐに飛びついた。あしらい慣れているのか余裕を崩さない夫に尚も妻は食い下がる。
「ですけれど、ですけれどっ。テーゼは障害のある娘を妻に迎えようとしているのですよ? あなた、プリアベル令嬢は目が見えないと! 許せませんそのようなっ、生まれてくる子まで目が見えなかったらどうするのです。ただでさえテーゼは跡継ぎに相応しくないというのに家名に傷が、私に嫌がらせをするためにこのような女を選んだとしか考えられません!」
身を乗り出したフラウの腕を押さえ、無言でメーウィアは制した。正夫人を憎む気にはなれない。可哀想な人だった。
「聞こえないのかね。落ち着きなさい。心配しなくとも、誰がこの家を継ごうとも、私が愛しているのは君だけだ」
「……」
「自分の部屋で待っていなさい。それから今の話は誰にも言ってはいけない。君も私を愛してくれているのなら、私の願いを聞いてくれるだろうね? 信じているよ。行きなさい。私が話をつける、すべてはそれからだ」
いとも簡単に正夫人を追い出したオルドはフラウにも指示を出した。
「君もだ。ここから先は使用人風情が聞いて良い話ではない、出て行きなさい。君の主人に無体なことはしないと約束しよう」
「……」
「出て行きたまえ」
動こうとしないフラウを更に強い口調でオルドは命じた。その強力な、圧力にフラウはねじ伏せられなかった。
「私を雇っているのはプリアベル家。この場でお嬢様以外の方に命令されるいわれはありません」
「フラウ、待っていなさい。私は……大丈夫」
「お嬢様」
フラウは有無を言わさずメーウィアの両腕を掴んで額に口づけた。メーウィアはされるがままに立ち尽くす。
「お嬢様の、ご命令とあらば。失礼いたします」
「……恐ろしいね。随分と挑戦的な使用人だ。ふむ、以前に私が与えた忠告は聞き入れてもらえなかったということか」
オルドは感嘆の入り混じった声を漏らした。額に手をやり、メーウィアは呆然と呟く。
「……申し訳ありません」
「いや、気にすることはない。少々行き過ぎだが雇用主に対する忠誠心は立派なものだ」
反抗的な発言は一人残される女主人の身を案じるがため。そうだと思ったからメーウィアは大丈夫だと示した。
――でも、意味が分からない……
もしかしたらフラウは違うことを言いたかったのかも、メーウィアに違う言葉を望んでいたのかもしれなかった。
「支えがないと不安だろう。これを持っていなさい」
オルドに握らされたのは固い棒のようなものだった。
「私の愛用だ。君のと違って鉄製だがね」
細く硬い感触、金属の杖。しっかりとした重さといい、オルドが扉を叩いた音はどうやらこれだったらしい。
「ツァイト当主、王の使者として参りました。ツァイト家とプリアベル家の婚姻をあの御方は望んでいらっしゃいます」
霧の向こう側で起きた光景――勅書を差し出したレフガルト当主に跪き、恭しくツァイト当主は受け取った。書状を開いて目を通したオルドは感心したとも呆れたとも取れる声を出した。
「私に王の筆跡が分からないとでも思うのかね。からかう相手を間違えているよ」
「やはり見抜かれてしまいましたか」
メーウィアは霧の中で目を瞬いた。
「まったく……良く真似てはいるがこれはどう見ても、レフガルト当主、君の筆跡だ。それどころか王印すらない。少し手抜き過ぎるんじゃないかね」
「貴方の奥様にお見せするつもりが、その必要にまで至らなかったものですから。もったいないので代わりに見て頂こうと思っただけですよ。曲がりなりにも偽造文書ですので破り捨てておいて下さい」
「あれの魅力は純粋なところだからね。我々のように腹黒く疑ったりはしないのだよ」
言葉通り紙を引き裂く音がした。その回数分だけメーウィアの頭には疑問符が浮かぶ。傍らで、テーゼが答えを示した。
「説得が間に合いませんでした。王は自らの目で確かめたものしか信用出来ないと」
「あ、私が……」
テーゼの誘いを断ったから。分からなかった彼の意図がようやく繋がった。あの要求に、そんな深い意味があったなんて。
「貴女が悪いわけではありませんよ。貴女の事情を知っていながら、打ち明けられないことも分かっていたのに騙してでも上手く連れて来れない方がいけないのです。まったく、少しは柔軟性を身につけて欲しいものですね」
レフガルト当主が紳士的にメーウィアを庇ってくれた。
「お前が勝手に出て行こうとするから代わりの手を打った。結果として順序が逆になっただけだ。必要ならばこれから許可を得れば良い」
メーウィアがコアに出て行く意図を知らせたのは昨日の午後。テーゼは報告を受けて計画を変更したのだろう。王の説得を続けるのではなく上官の協力を仰ぐ方向に。
「プリアベル令嬢、結果を出せない努力に意味なんてありませんけれど、彼の行動だけは認めてあげて下さい。王が一度拒否なさったものを諦めずに願い申し上げることはとても勇気のいる行為。お怒りに触れることを覚悟で彼は、貴女のために頑張っていたのですよ。私が偽の勅書をしたためてあげたくなるほどにね」
――こんなことまでして。ツァイト家の名を汚すことしか出来ない女のために。
「義父上、メーウィアはツァイト家の花嫁には相応しくありませんか」
障害を抱えた娘と結婚するための、切り札。それは実現しなかったけれど。そこまでしてメーウィアを望む理由はどこに。ルシルターク家でもエンドウム家でもツァイト家に家格を与えることは出来る。周囲の反発を招いてまで目が不自由なメーウィアを迎える必要など、どこにも。
「私に答えを問うのかね。なぜ花嫁を選ぶ期間を設けたと思う? これが私の望んだ結末だ。筋書きに最後までつき合ってもらえるのなら、お前が言うべき言葉は唯一つ」
父親の威厳を漂わせ、オルドは告げた。
「”父上、プリアベル家の令嬢と結婚させて下さい”だ」
理由。必要性。メーウィアがツァイト家にもたらす利益と不利益。
「しかし、義父上の許可を頂けないのであれば」
「なんだ、肝心なところではっきりしない子だね。まあ良い。プリアベル令嬢、妻が心ないことを言ってすまなかった。もしツァイト家に来てくれるならどうか許してやって欲しい。あれがテーゼを、テーゼの幸福を憎むのは仕方のないことなのだ」
「オルド様……」
「分かっています。養子に過ぎない部外者にツァイト家を乗っ取られることを――」
「いいや。テーゼ、お前は間違いなく私の息子だ。養子ではない」
沈黙が降りた。
「……お聞かせ願ってもよろしいのでしょうか?」
最初に口火を切ったのは無関係の立場にあるレフガルト家の当主だった。
「貴方はツァイト家を引き立てて下さった方、貴方にこそ知っておいて頂きたい。ツァイト家の真実とテーゼが当主に相応しいことを。そしてメーウィア、花嫁となる君にも」
語られたのはツァイト家で起きた過去の爪痕だった。
「私には二人の妻がいた。女というのは私にとっては領地を支配するより難しい存在でね、この二人は残念なことに相性が悪かった。顔を合わせる度に喧嘩していたのだよ。私は正夫人だった妻を早くに亡くしてしまったのだが、あの頃は疲れていてね……不謹慎にもほっとしてしまった。新しく妻を迎える気も起こらなかったほどだからね。我ながら余程懲りていたのだろう」
妻同士の醜い争い。当主を巡る嫉妬の嵐。オルドはテーゼに真実を告げた。
「お前は過去の正夫人の子だ。だが私は今の正夫人を愛しているのだ。だからこそ、生まれてすぐに母親を亡くしたお前を弟夫婦に預けた。そして養子として再びツァイト家の門をくぐらせたのだ」
「今の正夫人の機嫌を取るために弟夫婦の実子と偽ったのですね」
言葉も出ないテーゼに代わってか、レフガルト家の当主が相槌を打った。
「茶番だよ。公然の秘密……妻と当時物心のついていた長女、そして使用人も事実を知っている。知っていて知らぬ振りをしている。口止めをする必要さえなかったのだよ。みなが過去の正夫人と第二夫人の不毛な争いを知っていたからね。誰も妻の機嫌を損ねるようなことはしなかった」
誰もテーゼに教えようとはしなかった。そして知っていたのだ。テーゼこそが血筋も能力も、次期当主に相応しい存在であることを。
「……だが、今の話はここだけにして欲しい。世間ではテーゼは弟夫婦の子として通っている。厳しい道を敷くのだと分かっていても養子としてツァイト家を継がせるつもりだ。テーゼ……お前のことは実の子として愛している、この家を継がせたいと考えている。だが、私は本当に妻を愛しているのだよ。私を誰にも取られまいと気が狂わんばかりに嫉妬する女をね。対立した女の息子がこの家を継ぐのはさぞかしあれには辛いことだろう」
相反する二つの願いがツァイト家に歪みを生み出した。我が子を、我が妻を。愛する当主の思いが。
「私こそが誰よりも酷い仕打ちをお前にしているのだ。許してくれと言うつもりはない。陰ながら見守ることしか私には出来ない。だが、お前はそれでも立派に成長した。表向き正統な後継者だった弟を妬むこともなく……常に前を見て、そしてダストもお前を良く慕っている。お前はツァイト家を継がせるに相応しい人物だ。どうかこれだけは信じて欲しい、誰がなんと言おうとも私はお前を認めているよ」
「……当主になる気もない弟を妬むなど見当違いです。まして父上を恨むなど。父上が認めて下さっていると分かっていたからこそ、私は自分を信じて歩めました。父上、心を煩わせる必要はどこにもありません」
テーゼは抑揚のない声で応じた。しかしそこにはメーウィアの知らない、確かな温もりに満ちていた。