第十六話:Pressure
早朝から出発の準備を整えたメーウィアは最後の挨拶を兼ねてツァイト正夫人に面会した。
「先日の件ですが……とても良いお話でしたが、お受けすることは出来ません」
「まあ。散々待たせておいて、どういうことです? テーゼでなければ、当主夫人になれなければ嫌だと? 貴女がそんなに欲深い女性だったなんて」
出し抜けに断りを口にしたメーウィアに対して正夫人の声は明らかに不快を伴っていた。
「それは関係ありません、私はツァイト家の花嫁には相応しくない身なのです。ですから……縁談そのものを辞退させて頂きたいと」
「プリアベル令嬢、どうしたのです、さっきから。言っていることの意味も分かりませんし、なぜ目を閉じたままなのです? 失礼ですよ」
厳しく指摘されてメーウィアは薄っすらと瞳を開けた。
「私は目が見えません」
必死の努力で。気高い誇りで守り続けてきた秘密。それをメーウィアは、自ら明かした。ダストとの結婚を拒むため。正夫人を説得し、プリアベル家に被害が及ばないように出て行くためには他に思い浮かばなかった。
あの人の枷にはなりたくない。そのためには、この方法しか。
「嘘をおっしゃい、そのようには見えませんよ」
「……まったく見えないというわけではありません。私の障害は色覚異常と呼ばれるもの。物が動いている様はかろうじて認識出来ますが、色の判別や物の形は捉えられません……視界が不安定なので目を開けていることは負担になってしまうのです。ツァイト正夫人、私の目をじっくりとご覧になって下さい。目線の先が定まっていないことがお分かりでしょうから」
虚ろな瞳で目の前にいるであろう正夫人の顔を見据え、はっきりとした口調でメーウィアは答えた。怖くはない、もうこの家から出て行くのだから。相応の人生を、自分に見合った男と結婚すればいい。たとえ相手が平民でも。貴族の誇りをどんなに汚されても、自分にはその程度の価値しかないのだから。
「辞退、させて頂けますね? 花嫁が障害者ではツァイト家の名に傷がついてしまいます。私がいなくなる分には正夫人にご迷惑はかからないと思います」
「そ、そうですね。当家を貶める行為など……よろしいでしょう、当主には私から話を通しておきます。貴女は花嫁として欠陥があると」
「ありがとうございます」
「ああ、本当に……取り返しのつかなくなる前で良かった……ダストと結婚させていたらとんでもないことになっていたところでした。プリアベル令嬢、貴女は良心の呵責に耐えられなくなったのですね。打ち明けて下さったことに免じて非礼は許しましょう」
メーウィアは立ち上がって頭を下げた。もう隠す必要はない。でも最後まで、令嬢として品格ある振る舞いを。正夫人に背を向けた時、扉の外側から鋭い声が胸を貫いた。
「退け!」
「な、なんです?!」
メーウィアと正夫人の動きを封じたその声は乱暴に扉を開かせた。
「お嬢様……っ」
「フラウ?」
鈍い音を立てて床が振動する。聞き間違えるはずもない使用人の呻き声との関連性に、メーウィアは踏みつけないよう注意を払いながら近寄った。探し当てるために伸ばした腕が乱暴な力で捕らえられる。
「どういうつもりだ」
フラウのものとは違う低い声。
「なぜ勝手に出て行く準備をしている。言ったはずだ、決定権を与えた覚えはないと」
今この家にいるはずのない、いつも不意を打たれてばかりの。
「テーゼ様……どうして……」
身体を強張らせて、メーウィアは口だけを動かした。
「俺が不在の間に去るつもりだったのか。計画的なことだな。当家にいる限り、お前の行動はコアから筒抜けだということを覚えておくと良い」
「テーゼ! な、なんですか、勝手に。無礼にもほどがあります! 貴方に入室を許可した覚えはありませんよ!」
正夫人が敵意も露に責め立てる。フラウも強引な態度には腹を立てていた。
「お嬢様に乱暴はおやめ下さい。貴方という方は、お嬢様の使用人を痛めつけるだけでは気が済まないのですか」
「フラウ? テーゼ様、フラウになにを」
掴まれた腕を振り解き、フラウを探す。顔に手を触れると応えるように頬が押しつけられた。腫れている様子がなくて胸を撫で下ろす。
「テーゼ、せっかく駆けつけたのに、周りを敵一色に染めてしまってどうするのです。間に合ったのですからよろしいでしょう。もし遅れていたら追いかければ済んだ話です。直情的になるのは良くありませんね」
メーウィアが文句を続ける前に別の男が仲裁に入った。誰かは分からない、聞いたことのない声だった。
「プリアベル令嬢、ご安心下さい。テーゼはそんなに酷いことはしていませんよ。貴女の使用人が忠実に、主人の面会に邪魔が入らないよう抵抗するものですから。ちょっと力押しで扉を開けただけです」
テーゼの声を緊張感をもたらすものと例えるなら、まるで穏やかに優しく包み込むような。男は正夫人にも声をかけた。
「ツァイト正夫人、お久し振りですね。突然押し掛けてしまった非礼をどうかお許し下さい」
「レフガルト家の、当主、ど、どうして」
「レフガルト家の?」
メーウィアは耳を疑った。そしてすぐにレフガルト家とツァイト家の密接な繋がりを思い起こす。ツァイト家が力を増し、新興勢力と呼ばれるようになったのはレフガルト家の当主がテーゼの地位を引き上げたから。だからこそツァイト家は花嫁を思いのままに選べる立場になった――
「テーゼ、彼女が貴方の花嫁ですね?」
「はい」
「テーゼ様、私は……!」
「落ち着いて下さい。悪いようにはしませんから、ここは彼に任せましょう」
動揺するメーウィアをレフガルト家の当主が優しくなだめた。王の腹心、新興勢力の代表、ツァイト家を凌ぐ有力貴族。様々な言葉が脳裏を駆け巡る。優しさの裏側に込められた命令に、メーウィアは大人しく従うしかなかった。
「義母上、私の預り知らぬところでメーウィアを利用するのはやめて頂きたい。ツァイト家の花嫁を、次期当主夫人に選ばれた女を騙すような真似は」
「騙すだなんて、言いがかりもはなはだしい」
「候補が一人しか残されていない事実を隠したまま取引を持ちかけたのでは? 私の情報力を侮ってもらっては困る。ダストですら完全に味方につけられない貴女が」
大切な存在を秤にかけて、ダストは兄を選んでいた。きっと悩ませてしまっただろう。申し訳ないと思う一方でメーウィアは感謝した。
「愛想の欠片もない貴方に味方がどうのと言われたくありませんよ。それならばプリアベル令嬢の欠陥も当然知っているのでしょうね? 諦めなさい、ツァイト家の花嫁として相応しくありません。それに本人が候補を降りると言ってきたのですからね」
「馬鹿馬鹿しい。この際どうでも良いことを」
義理とはいえ母親に向かって吐き捨てるようにテーゼは言った。
「どうでも良いですって? このような花嫁では役に立ちません。家を継ぐ気なら尚更、家のためになる令嬢と結婚するべきでしょう!」
「王の決定に逆らってでも?」
「……な、んですって?」
勢いを挫かれた正夫人の声は裏返っていた。メーウィアは息を飲む。テーゼに失望されたあの時もそうだった。王という言葉が、こんなにも軽々しく出てくるなんて。
「王はツァイト家とプリアベル家の婚姻を承認なさいました。正式な通達ですので私が彼の上官として、また王の使いとしてツァイト当主にご報告に上がったのです。正夫人、事は既にツァイト家が左右出来る問題ではありません。私が訪問した理由をお分かり頂けましたか?」
レフガルト家の当主がつけ加え、釘を刺した。
「王のお許しを……? そんな、畏れ多いことを、テーゼ様、本当にそのようなことを」
「だからお前を連れて行きたかった。目が不自由でも立派に振る舞える女だと王に見せたかった」
フラウからメーウィアを奪い、額に息がかかる距離でテーゼは告げた。
滅茶苦茶だと思った。王は、メーウィアにとって雲の上の存在だった。しかし彼は王に謁見する力を持っている。そして願いを申し上げるほどの力を。
”王の許し”には特別な価値がある。その一事に関して絶対的な庇護が与えられるという意味が。そして、王に逆らえる貴族など存在しない。最大の圧力だった。
「は、恥知らずな! たかだか貴族の婚姻に王の許しを得るとはどういう了見です。そのような些事で王を煩わせるとは……その程度のことで、職権を濫用して!」
テーゼは怒りで震える義母の声には耳を貸さなかった。メーウィアを捕らえたまま、語るように続ける。
「お前の場合、目が見えないということは武器だ。不自由な身体で常人のように振る舞い、毅然とした態度で弱みを隠そうとした。その強さを差別を恐れる心で封じるなど、愚かなことを。その努力を、秘密を守るためではなく自らの強みとして活かしてみせろ」
「……どうして?」
そんなことをしてまで。
「王の承認を得たのはうるさい身内を黙らせるためだ」
焦れるほどに求めているものと違う答えが返ってきた。
「そうではありません。なぜ、私などを選んだり……! 覚えていらっしゃらないの? 私と初めて会った時、貴方は足を引っ張る女は必要ないと」
「言った。お前は自分の価値も分からないのか。俺と同じ努力を要求するのは酷か? 教養と作法を身につけ、誰にも負けないと豪語したのは嘘だったのか」
「馬鹿になさらないで、このような身でも私は誰に負けるつもりもありません。不自由なく育ってきた方々に負ける気など、絶対に。ですが、それとこれとは話が違います!」
反発するメーウィアを、頭に回された大きな手が押さえ込み、黙らせた。
「なにも違わない。それがメーウィア=ラオフ・プリアベルの価値だ」
力強い言葉が心に降り注ぐ。燦然と、照らすように。
……ああ。メーウィアは泣きたくなった。どんなにか焦がれただろうか。いつの日か、貴族令嬢として完璧な自分を誰かが認めくれることを。
「テーゼ! いい加減になさい。お、王の許しを得たところで……目の見えない女を妻になどっ、ツァイト家を世間の物笑いの種にするつもりなのですか!」
「ツァイト正夫人、王に逆らうおつもりでしたらそのお覚悟で」
激しく追及する正夫人を竦み上がらせたのはレフガルト当主の一言だった。
「! い、いえ。そのようなつもりは……」
「先例がないわけではありません。私の妻、レフガルト正夫人のようにね」
「……それは、本当なのですか」
身のほども忘れてメーウィアは聞き質していた。
「私の妻は奴隷階級出身です。王族の恩恵により今の地位まで昇り詰めましたが、卑しい出自が消えてなくなるわけではありませんからね」
重い話をレフガルト当主はさらりと言ってのける。愛人でも第二夫人でもなく、正夫人――今後どのような婚姻を為そうとも、レフガルト家が名門を冠するのは不可能な内容だった。
「プリアベル令嬢、貴女はとても恵まれているのですよ。私の妻は容姿が優れているわけでもなく元の身分はあまりにも低い。誹謗中傷の格好の的です。目が悪いくらいで落ち込まないで欲しいですね。ましてや貴女は欠点を補うための努力をなさっているのでしょう? ですから」
強く背中を押されてメーウィアは前に倒れた。落ちた先は誰かの腕の中だった。
「自信を持って下さい。テーゼは貴女のその気高さに心奪われたのですから」