第十話(2):Under the stage
「どうして私があんたに負けなきゃいけないのよっ!」
メーウィアはその時、頬が熱いと感じるまでなにが起きたのか分からなかった。部屋に突然女が押しかけて来て、そして。
「メーウィア様!」
傾いだ身体をコアの頼りない腕が受け取るも、支えきれずに雪崩れるように倒れ込む。
「……っ」
コアを押し潰してしまわないように慌ててメーウィアは身を起こした。
「! なによ、使用人のくせに、放しなさいよっ。立場分かってるの?! きゃっ!」
「やめなさい!」
わけが分からなかったが女の悲鳴を聞いた途端、メーウィアは命令を発した。フラウを止めなければ。直感でそう思った。
「……いいえ、お嬢様。彼女がお嬢様にしたことを、分かって頂かなければ」
「このくらいなんともありません。揉め事を起こさないで」
声に動揺が走る。あの夜以来、フラウを扱うことに不安を覚えていた。言うことを聞かなくなってしまったのではないかと。しかしそれは単なる思い過ごしだった。
「躾のなってない使用人ね!」
解放された女は悪態を吐いた。
「……どなた?」
「エンドウム令嬢の私を知らないなんてラオフ領民として失格じゃないの? 私は領主の娘よ! あんたなんか本来なら口を利いてもらえるような相手じゃないのよ?!」
フラウが鼻にかけるような笑い方をした。
「エンドウム家がラオフ領主だったのは過去の話ですね。今の領主はツァイト家、自分たちを追い落とした相手に媚を売ってまで栄光を取り戻そうとするとは」
「うるさいわね! 平民風情が偉そうに、あんたなんかに貴族の事情が分かってたまるもんですかっ」
「ミュセ様……それともシアーヌ様?」
たとえ過去の栄光でも、元ラオフ領主の娘にメーウィアは敬意を払った。
「シアーヌよ。正夫人の方じゃなくて悪かったわね、私は第二夫人の娘シアーヌよ! 私が失格であんたみたいな落ちぶれた貴族が残ってるなんて……こんなことで調子に乗らないでよねっ。覚えてなさいよ、プリアベル家なんてお父様にお願いして潰してやるから!」
捨て台詞を残して荒々しくシアーヌは去った。騒ぎになってツァイト家の者が駆けつけるのを怖れたのかもしれない。実際、コアが大声で人を呼びに走っていた。
「完全な逆恨みですね。少し腫れています、冷やしておきましょう」
「お父様に……迷惑が」
フラウはエンドウム令嬢の言葉などまるで相手にしなかったがメーウィアの声は沈んだ。水で濡らした布を頬に当て、今更ながらに痛みを覚える。
「家のことは主人にお任せしましょう。エンドウム家の当主も娘の頼みとはいえ実りのないことに時間と労力を費やすことはないと思います。プリアベル家を攻撃しても得はないでしょうから」
「だと、良いけれど」
「貴族も力を失うと哀れなものですね」
「笑いごとではないわ」
それはまさにプリアベル家のことではないのか、とメーウィアは思った。沈痛な面持ちをフラウが横から眺めていた。
◆
夜が更けて燭台の灯が尽きる。日中動かした家具や花瓶の配置をすべて元に戻してフラウは一日の仕事を終えた。確認は怠らなかった。朝を迎えたメーウィアが覚えた記憶に惑わないように。せめて部屋の中だけでも、心穏やかに過ごせるように。
邸内の見取り図では使用人の寝室は別に用意されていたがフラウがそれを利用することはなかった。いつ存在を求められても対応出来るように、一人掛けのソファが寝台の代わりだった。
寝室の窓から外灯の光が見える。静かに寝息を立てる女主人の表情を確かめてフラウは安堵の息を漏らす。彼女に初めて教えた世界は霧だった。そして二番目は、夜。
――暗闇も、白い闇も。結局は同じなのだわ。影が動くのが見えたって、それがなんなのか分からないのに私になにが出来るっていうの?
投げやりな少女の声には自虐と諦めが混ざっていた。動く影を、物の存在が分かるということに大きな価値があると知ってもらうのに幾日も要した。不自由で、色も形も認識出来ないけれど。だからこそ。
だからこそ、色彩に乏しく実体を持たないものから教えようと思ったのかもしれない。
寝室から立ち去ろうとして逡巡する。もう少しだけ。
安らかな寝顔。
額にかかった髪に触れ、頬の横に分けてやった。
メーウィアは夜の静けさを嫌った。
寝台の感触以外に己の存在と居場所を確認出来ない時分、音がないのを怖がって病的に独り言を呟くこともあった。ある時は眠りから突然覚めて、フラウの都合などお構いなしに呼びつけた。
「朝はまだなの? 窓から陽の光が入ったら起こして。小鳥の声を聞かせて」
必死の要求に、泣きそうになったのはフラウの方だった。静寂に怯えなければならない人生。その夜から二人は手を繋いで眠ることにした。フラウは床に座り毛布を被って眠る羽目になったが、安心しきった寝顔を見たらどうでも良くなった。言葉を交わさなくても握ったその指を動かして存在を確かめ合った。メーウィアの独り言も、途絶えた。
「もう……手を繋がなくても良くなってしまいましたね」
心が強くなる度に彼女は手助けを拒むようになった。
――もう、平気だから。
「残念です」
メーウィアの瞼が微かに動いたのを見て、フラウは声を出していたことに気づく。起きる気配のないことを確かめて膝を折り、顔を近づけた。長い睫毛が整って並んでいるのが見える距離。
プリアベル家に帰る、と中々言い出してくれないこの人がとても憎かった。ツァイト家の次期当主に近づけたくなかった。彼女の価値を高めるためなら、誇りを守るためならなんでもする。だけど。気高い人、どうか一日でも早く諦めて欲しい――
「ん……」
寝返りを打つ声に胸が高鳴り目をみはる。寄せた唇は寝息に触れただけだった。眉間に皺を刻み、目を閉じる。なにを焦っているのだろうか。主人と使用人だ、今は。フラウは立ち上がった。
「……お嬢様、おやすみなさい」
残された言葉は寝室に消えた。
深夜。寝台に倒れ込もうとする勢いでテーゼは自室に戻る。扉を開けて、目の前に人影を認めると動きを止めた。待っていたのはイリアだった。イリアが手元に置いてあった小さな燭台の灯を吹き消すと、外灯の光だけが二人を仄かに照らす。
「お仕事お疲れ様、話があるの」
「……もう眠らせてくれないか」
長女には脅しが効かないのが分かっているので仕方なく相手をする。
「明日も集会を開くから知らせておこうと思って」
「そんなことを伝えるために夜遅くまで待っていたのか。使用人を使ってくれ」
「もう一つよ」
いつになく厳しい眼差しでイリアは迫ってくる。
「いつまで逃げてるつもり?」
「……」
「期日が来るまでに選ばなくてはならないのよ」
「まだ十六日しか経過していない」
「もう半分終わったのよ。明日で十七日目になるわ」
「どうしろと? 姉上がたが気に入ったのを選べば良い、この家で上手くやって行くためにはそれが一番重要だ。俺は関係ない」
「無能だわ」
両手でテーゼの顔を挟んでイリアは更に迫る。
「貴方の妻を選んでるのよ、私たちは。貴方に選ぶ能力がないから手伝ってあげてるの。妹たちはまだ知らないでしょうけど、今朝、エンドウム家の令嬢を独断で失格にしたそうじゃない。本当に無関係だと思ってるなら勝手なことはしないで」
顔の向きを固定されたまま、戻るなり放り投げた黒鞄を一瞥してテーゼは視線を戻した。木漏れ日の下で踊った令嬢。毅然とした態度で挑み、決して怯まなかった。ここ数日で調べ上げた花嫁候補に関する一事が、あの中に詰められている。
「……俺の望み通りに選ばせて後悔しないか」
「それこそを望んでいるのよ。父上も、私も」
「その言葉を忘れるな」
見下ろした冷たい瞳は弟を案じる姉をも竦ませた。