第八話:"Marriage of convenience"
「プリアベル令嬢?」
声をかけられたのは階段から平面の廊下へと足を進めた時だった。
「プリアベル令嬢……メーウィア、よね? 確かイリア様の前でそう名乗っていたわ」
足を止め、振り返る。フラウが庇うように前に出た。
「あ、不躾でごめんなさい。私はミゼル。ノエンナ領を治めるハスニカ家の娘よ。貴女と同じ花嫁候補、よろしくね?」
「フラウ」
メーウィアはフラウを退かせる。
「運が良いわ、貴女の部屋にお邪魔しようとしていたところよ。私の部屋、すぐそこなの。良かったら寄って行って」
「ごめんなさい。少し疲れているの、今日はもう……」
「誘いを断っているのは知ってるわ。二十分……いいえ、十分で構わない。貴女と話がしたいの。少しだけ、どうかいらして」
メーウィアは目立たないように短く息を吐いた。イリアに気に入られてからというもの、こうやって声をかけられ続けるのだろうか。
「お言葉ですが、お嬢様は」
「フラウ、控えていなさい。分かりました。十分だけなら」
「良かった。こちらよ」
「お嬢様!」
「側にいて。離れないでいて」
小声で告げた。その一言で、忠告を続けようとしたフラウが固まったように言葉を止めたのをメーウィアは知らない。身体に触れようとしたその手を握り締め、耐えるように瞳を固く閉ざしたのを。命じなくてもフラウは離れないだろう。だからメーウィアは自分に言い聞かせるために言った。
「すぐに終わるわ。だから」
「分かりました」
一曲踊っただけでこの疲労感。一人ではきっと辛い。
「甘い……ですね」
招かれた部屋で、メーウィアもフラウと同じ感想を抱いた。勧められた椅子はメーウィアの部屋と同じ素材のものだった。
「焼き菓子を作ったからよ。ツァイト家の方々に召し上がって頂いたの。手料理には自信があるんだけど部屋には調理器具が揃ってないし、焼く時は調理室を貸してもらったり……面倒だったわ。良かったら貴女にも、どうぞ」
「ありがとう。でも、遠慮しておきます。話を聞かせて」
花嫁候補から差し出された物を口にする気には二度となれなかった。なにが起こるか、巻き込まれるか分かったものではない。ミゼルは特に気分を害した様子もなくフラウにも軽快に呼びかける。
「予備の椅子しかないんだけど、使用人の方も座って。私が無理に誘ったのだから悪いわ」
フラウはメーウィアの背後を守るように立っていた。
「いいえ、身分が違いますので」
「あら、そう?」
ミゼルはそれ以上気を遣わず、話を切り出した。
「貴女、色々と大変だったわね」
「?」
「イリア様に褒められたと思ったら今度はルシルターク家の令嬢と騒動を起こして」
「どうしてエウロラとのことを」
「あら、彼女が言い触らしてるのよ? プリアベル令嬢に酷い目に遭わされたって。知らない候補なんていないと思うけど」
軽い衝撃を受けつつもメーウィアは沈黙で受け流した。そんな風に流布されていたなど思いも寄らず、簡単に噂が広まってしまうほど候補同士の関係は密接ではないとも思っていた。しかし、思い返してみれば。メーウィアはあの事件以来、すべての誘いをフラウに断らせた。直接部屋に押しかけようとしたミゼルがいるくらいなのだから断った件数は少なくないだろう。そうやってみなが互いに接触を図っていたと、思い至るまでに数分もかからなかった。
「心配しなくても大丈夫よ。無闇に騒ぎ立てたりしてエウロラは馬鹿ね。どっちに非があったかなんて事情を知らなくても分かる人には分かるわ。そういう家に限って家格と財力を兼ね備えてるんだから、世の中ってそういうものかしらねー」
「ラオフ領以外の領地からも参加者がいたのね……」
ノエンナ領主ハスニカ家。名門ではない。しかも新興勢力のツァイト家と比べればどうしても見劣りするが、領主である以上はそれなりに力を持っていた。ラオフ領主ツァイト家との婚姻が実現すれば両家とも勢いを増すことになる。
「不思議ではないでしょ? 政略結婚って違う領地でやった方が、両家の思惑が強くなるから実現は面倒だけど、実利が大きいし。ツァイト家はね、当然ながら結婚で有利になる家の娘を集めてるの。候補を選ぶとか言ってるけど実際は最初から順位がつけられてると思うわ。私はラオフ領にノエンナ領の利権を与えるための駒よ」
感心しながらメーウィアは耳を傾けた。口調とは裏腹に思慮深い女性だった。メーウィアはプリアベル家を立て直すことだけを考えて参加していたが、彼女は違う。結婚相手のツァイト家と自分の関係を絡めて物事を考えている。他領出身なだけに、今回の花嫁選びには領地を巡る勢力関係にも無関心ではないだろう。
「メーウィア、貴女はどうしてこの試験に参加したの?」
答えずにいるとミゼルは更に言葉を被せてきた。
「私はお父様に勧められて。政略結婚、大いに結構。でもテーゼ様は、ね……噂ではつまらない男だと聞いていたけど本当になんの面白味もないんだもの。なにもやらかしてくれないどころか初日以来まったく姿を見せないし。帰ろうと思うの。お父様は勢力を広げたいと考えているから私の結婚相手は限られるんだけど……夫になる方に対して少しくらい胸をときめかせたいわ」
「私は、帰らない」
「ツァイト家の財産にときめいているから?」
からかうようにミゼルは笑った。メーウィアから答えを引き出そうとするかのように。
「ええ、プリアベル家にはお金がないわ。貴女のように結婚相手を選ぶ自由も。ですから落とされるまでは残ります。長く残ればツァイト家の花嫁候補として敢闘したと、私の価値も上がるでしょうから」
根回しの出来ない自分が選ばれるとは到底思えない。時間の問題と分かっていても。万が一、選ばれたとしても……思考を遮断する。その先を考えるつもりはなかった。
「本題に入るわね。そんな貴女にちょっとした提案があるんだけど。エウロラから聞いていた通り、上等ね……従わせているだけで品格が上がりそう。テーゼ様よりずっと、興味深いわ」
メーウィアは訝しげに眉を寄せた。
「お金が欲しいなら彼を私に譲ってくれない? 言い値で結構よ。貴女の家にどれだけ必要かは知らないけど、傾きを正すほどの金額でも用意するわ。それに……そんな素敵な使用人を雇っているからお金が足りないのではないの? 見たところ貴族の庶子ね。私の家には一人もいないから羨ましいわ」
彼、とは紛れもなくフラウのことを指していた。途端にメーウィアは気分が悪くなる。こんな相手と会話しなければならないなんて。またか、と。苦痛に近いものを感じた。
「貴族の血を引いてる使用人なんて、数が少ないから手に入り難くって」
「フラウはお金では交換出来ないわ」
「じゃあお望みは? ハスニカ家の威信にかけてなんでも用意するわよ」
「見くびらないで」
メーウィアは立ち上がり、ミゼルを見下ろす姿勢になるよう顎を引き胸を張った。
「フラウを手放す気はありません。プリアベル家の威信にかけて」
ノエンナ領主の娘を前に、どれほどの威信がプリアベル家にあるのだろうか。脆すぎる矜持。それでも言わずにはいられなかった。力及ばなかったとしてもメーウィアはフラウの女主人だった。
緊迫した空気を、ミゼルの忍び笑いが揉み消した。
「なにがおかしいの」
「失礼。怒らせちゃったみたいね。ごめんなさい、暴言を許して」
身体を強張らせたままでメーウィアは聞く。馬鹿にされているのか、いないのか。ミゼルはまだ笑いを抑えきれないでいる。
「使用人を大切にする主人は好きよ。フラウ? 貴方に対しても。本当にごめんなさいね、本気じゃないの。あわよくばっていうのはあったけど……そろそろ時間ね」
同じく席を立ったミゼルはメーウィアの手を取って強引に握手を求めた。が、メーウィアは力一杯弾き返す。
「……見くびらないで」
「そんなつもりじゃないわ。本当に、許して。笑ったのも謝るから。たった十分で貴女のことを知ろうと思ったらこうするしかなかったのよ」
なんのために、と口を開く前にミゼルが先を制した。
「今のは忘れて。私はテーゼ様と結婚する気なんてないけど、ここで逃げたら世間は勝負に負けたと見るから。どうせ負け犬になるなら自分が認めた人にしか譲りたくなかったの」
「貴女の都合など私には関係ありません」
「だけど、私は貴女を応援するわ。貴女がツァイト家の財産を諦めてしまうほどあの男に愛想を尽かして候補を降りないことを祈ってる」
「なぜ」
試されていたと、気づいたせいで怒りは簡単に収まらなかった。
「貴女、美人だし。それに私以外の候補の中で一番目を引いたから。みなを差し置いてイリア様に興味を抱かせたのが貴女だったからよ。貴女の本質が間違いないことを確かめたかったの」
無視して去ろうとするメーウィアの背にミゼルはなおも言葉を投げかける。
「メーウィア、頑張ってね。お詫び代わりにツァイト家に貴女を推薦して出て行くから。結果がどうなってもまたどこかで会いたいわ」
私はもう二度と会いたくありません。メーウィアは心の中で悪態をつく。
「ミゼル様、失礼いたします」
廊下まで導いたフラウが部屋の扉を閉め、ミゼルの存在を断ち切った。
「……お嬢様」
「なに」
「ありがとうございます」
「別になにもしてないけれど」
八つ当たりに相応しい不機嫌な声が出る。
「お嬢様」
「だから、なんなの」
「私はお嬢様にお仕え出来て幸せです」
一気に体温の上昇した顔を背け、方向も分からないのにメーウィアは突き進んだ。大切な杖が、前に出た。