第七話:Waltz
緑は暖かく陽の光が匂う、ひだまり。柔らかな歌声が風に乗って流れてくる。
「……綺麗な声。誰かしら」
「候補の方ではないでしょうか」
木陰で足を止めてしばし聴き入る。
歌声が途切れると拍手と歌姫を称える声がメーウィアのところにまで届いた。
「そのようね。今日まで残った花嫁候補はこうやって努力していたのだわ……」
求められていたのは花嫁候補に相応しい振る舞い――あくまでも”花嫁”として相応しい振る舞いではなかった。つまり”候補”としてなにをするのかということ。
「お嬢様より優雅に踊れる方は中々いらっしゃらないと思いますよ」
「駄目よ」
メーウィアは再び歩き始めた。
目が見えないことを補うため、聴覚を、平衡感覚を養うため。暇を見つけてはフラウと踊った。訓練の一環だったがメーウィアには才能があった。最初の内こそ身を委ねてばかりだったものを、今となっては自ら挑発して難しい足取りを踏むことも出来る。それでもツァイト家に披露するに至らないのは相手役が使用人では格好がつかないからだった。
「……お嬢様」
一段低くなったフラウの声を無視してメーウィアは続ける。
「どんな曲でも踊ってみせる自信はあるけれど、一人では踊れないわ」
「それほどの腕前ならお手並み拝見しようか」
驚いて足を止める。霧の中――木漏れ日の下で、メーウィアは誘われた。
「お嬢様、テーゼ様がいらっしゃいました」
「……覚えているわ」
この声を。
初日に出会ったきり一度も顔を合わせる機会を与えられなかった仮初めの婚約者。鋭さを伴った声。ツァイト家の次期当主。
「お久し振りです」
皮肉を込めてメーウィアは口端を上げた。
「今までどこに隠れていらっしゃったの? 今日はどうしてこちらに?」
「花嫁を選ぶだけが俺の生活ではないからな」
今までの間、彼がなにをしていたのか知らない。そして今、ここにいる理由も。彼の返事は答えにはなっていなかった。
「どうする? 気に入られる手段としては一番の近道だと思うが。曲ならばどうせまた始まる。必死だな」
先ほどの歌姫が次の歌を奏で始める。知らない曲、音も遠いが出だしは三拍子を刻んでいた。合わせられる。
「受けて立ちます」
挑戦的に答えてメーウィアは手を差し出した。
「社交界の経験は?」
メーウィアを引き寄せてテーゼが問う。
「ありません。大貴族や王族主催の行事には私の家は招待されません、出たことがあるのは小さな宴くらい……」
それでも公的な場で他人と踊る機会は一度もなかった。舞踏会を開けるほどの財力などプリアベル家にあるはずもなく、プリアベル家と親交のある家もまた同様に。メーウィアの腕が高いと家族が褒めてくれても身内贔屓だと思って悲しくなることもあった。それでも踊ることをやめなかったのは、やはり好きだからだろう。
「……」
踊りながらメーウィアは奇妙な違和感を覚える。曲の流れに上手く乗れない。しばらく踊っていなかったから勘が鈍ったのだろうか。
「……つかぬことを伺いますが」
眉をしかめて問いかけた。これは自分が原因ではないと思ったのだ。
「もしかして、踊りはお好きではいらっしゃらない?」
「嫌いではないが苦手分野だ。過去相手になった女が喜んだ例がない」
「……」
息を飲み込む。眩暈を覚えるも抑え、意を決してテーゼの腕を掴む手に力を込めた。
「曲は無視して私に合わせて下さい。ご自分が主導権を握ろうとなさらないで」
「なんだと」
威圧的な声が返ってくるがメーウィアは怯まない。
「そうしないと私は実力を発揮出来ません。この程度の女だと思われたくありませんから」
細腕で、力任せに自分を支える身体を押す。気圧されたのか相手の動きが少し弱くなった。
「踊ることの楽しさを教えて差し上げます」
美しい歌声が頭上を流れてゆく。
息を詰めながらメーウィアは足取りを導いていた。強引に進めないと力負けする、気を抜くとすぐに音を踏み外される。一秒として油断は出来なかった。フラウや父としか踊ったことがないから分からなかった。足を踏まないように気をつけているつもりかもしれないが、こんな、歩いてるだけとしか思えないような……この世にこれほどまで踊れない人がいるなんて。一種の衝撃的事実だった。
「花嫁候補に一度聞いてみたいことがあった。ツァイト家の花嫁というのはそれほどに魅力あるものか? 新興勢力で成金だと馬鹿にする者もいる。いつ足元を掬われるかも分からない状態だ」
「……そうですか」
質問に上の空で答える。歌声が緩急を孕み始め、合わせるのが難しい旋律が漂う。いつの間にか拍子も変化していた。舞踏用に作られた曲ではないのだろう。厄介な、と腰に回された方の腕に圧力をかける。そこで、なぜ、回れないのか。叫びたかった。
「今は注目されているがそれも一時に過ぎない。地盤を固めるには長い時間がかかる。当主は功績を重ね、妻は社交界で人脈を広げることで……」
「集中が乱れます、話しかけないで下さい!」
「楽しんで踊るのではなかったのか?」
心外だと言わんばかりの言葉にメーウィアは目を丸くして、悪戯の仕掛けを見抜いた時のように眉を困らせた。唇は思わず綻ぶ。
「合わせる努力、して下さっていないでしょう?」
「言うだけのことはあるな。中々楽しい」
無愛想だと思っていた男の台詞にメーウィアは呆気に取られた。途端、歌につまずき足が止まる。前のめりになった身体は抱き寄せられる形で支えられる。すぐに離れ、相好を崩して苦情を述べた。
「おしまいです。女性を置いて一人だけ楽しむなんて酷い方」
歌はまだ続いている。
今度はフラウの手を取ってメーウィアは邸内に戻った。
「お嬢様?!」
部屋に通じる階段を昇る途中でメーウィアは立ち眩みを起こした。手すりに身を預けるとフラウが慌てて駆け上がって来る。
「無理をなさりすぎです」
抱き起こされたもののすぐに一人では立てず、背中を任せて大きく息を吐いた。
「……」
目を開き続ける行為は負担を伴う。真の暗闇ではない、動く影しか捉えられなくても白い闇が見えているのだ。中途半端な視力に気力を奪われ、しかも誘導するために半端でない集中力を強いられて。短時間とはいえ至近距離で踊っている間は目を休めることなど出来なかった。
フラウの指摘は悔しいくらいに的確で、食事をしっかり取っていなかったのもきっと一因なのだろう。
「部屋に戻って休みましょう。よろしいですね?」
力なくメーウィアは頷いた。