第一話(前):Zeit
肥沃な大地に温暖な気候――有力貴族ツァイト家が治めるラオフ領。厳格な当主に管理され、領民による犯罪や反乱の極めて少ない地方として知られていた。ツァイト家は由緒正しい名門ではないが、王城仕官の功績により地盤を固めてきた貴族でもある。近年急速に力を強めて”新興勢力”と称されていた。
ツァイト家がまだ新興勢力と呼ばれる前のこと、当主オルドには娘が四人いた。男の子には恵まれず、跡継ぎを懸念したオルドは分家の弟夫婦に息子が生まれれば養子として貰い受ける約束を取りつける。
その子の名前はテーゼ=ラオフ・ツァイト。
乳離れした頃、テーゼは本家の門をくぐった。
運命の悪戯か、数年後にツァイト正夫人が男児を出産する。
その子の名前はダスト=ラオフ・ツァイト。
オルドは弟夫婦に子を返すことはなく、二人は実の兄弟として育てられることになる。
そして二人は同じ環境、同じ教育を受けて育ったにも関わらず、似ても似つかない兄弟として成長した。
「兄上。あ、に、う、え。聞こえてる?! 早く選ばないと。これ以上父上を怒らせたらやばいって!」
机に積まれた結婚申込書は分厚い歴史書二冊分の高さがある。数にして三十七件。ツァイト家の次期当主に対して当家の娘を婚約者に、と寄せ集められたものだった。
一通り目を通したのは話題に上っている本人ではなく、一族の者。これでも最初は百件を越える申し込みがあった。二人の父親でもある当主が花嫁募集の告示を出してしまったからだ。有力貴族、新興勢力、今や最も世間の注目を浴びるツァイト家は花嫁を迎えるとなると思うがままに選ぶことの出来る立場にあった。
「……どれでも。お前が代わりに選んでくれ」
親同士で話し合って勝手に決めれば良いのに、とテーゼは思った。忙しい次期当主の代わりにと書類選考で三十七件にまで絞られたがそれでも多い。特に添付書類、必要以上に強調されている趣味や特技などに目を通している暇があったら仕事の書類を一枚でも片づけたいくらいだった。
「ちょっと、兄上のお嫁さんなんだけど! 顔だけでも確認しといた方が良いってば。結婚するなら可愛い子の方が!」
「馬鹿馬鹿しい。お前は顔で女の価値を決めるのか」
冷静かつ鋭い指摘に弟、ダストは怯んだ。
「……えっと。そういうわけじゃないけど、どういう人かは会ってみないと分からないし」
「重要なのはツァイト家に有益であるか否かだ。そこにある申込書は既に選抜されたものだろう。だからどれでも同じだ。抽選でもして決めれば良い」
「……」
「なんだ」
兄と弟の間に流れたのは微妙な沈黙。理解し合えない、絶望的な隔たり。
「いや。兄上と結婚する子がちょっと可哀想かなーって。そういうこと、女の子の目の前で言わないで欲しいなーって」
「貴族としての自覚に欠ける女などこちらから願い下げだ。女は浪費する、結婚しなくて済むならそれが一番だと思っているくらいだ」
テーゼは立ち上がった。
「だから思ってても言っちゃ駄目だってば! どこに?!」
「王城に戻る。仕官中だ、こんな用件でいちいち呼び戻されてたまるか」
「怒られるって! しかも俺、関係ないのにとばっちり! せめて選んでからっ。父上の命令に逆らってまで戻るなんて……」
”父上の命令”は効果を発揮した。間一髪、部屋から出て行こうと扉を開けたテーゼを机の前にまで引き返させる。
「……持って行け」
煩わしさから逃れるようにテーゼは一番上に積まれた一冊を手に取り、弟に投げつけた。
「うわっと」
「それでいい。渡しておいてくれ」
そして颯爽と部屋の外へと歩み去る。扉が閉まると同時にダストの抗議の声が響いた。
「そんなの駄目だってば! 俺、このこと父上に報告するからね! こんな選び方、絶対却下されるよっ」
馬鹿馬鹿しい。
苛立ちが足音に響く。
優秀な兄、出来損ないの弟と世間では呼ばれ。
実の兄弟として育てられてきた。
だが、幾らテーゼが親の期待に応えようと努力しても本当に愛されているのは弟のダストだった。当然だ。テーゼは実の子ではないのだから。
養父オルドは跡継ぎを欲するがために迎えたテーゼを、ダストが生まれた後でも約束を違うことなく後継者として認めてくれた。その期待を裏切るわけにはいかない。無愛想な養子にツァイト正夫人が眉をしかめてもテーゼには心の支えがある。
誰よりも貴族として相応しく、誰よりも跡継ぎとして相応しく。
その道を妨げる者は、たとえ妻となる女でも許さない。結婚相手に要求するのは足手まといにならないこと、ツァイト家に有利な形勢をもたらす家であること、それだけだった。