7
ビシャビシャッと水が地面を打つ音が辺りに響き、ヘモグロビンの色に染める。
今まで対峙していた悪魔は地面に倒れたままピクリともしない。
それに対してこの悪魔に飲み込まれていた人間は、マモンにつかまれたままビクンッと時折痙攣していた。
「終わった…?」
なんの液体かわからない|(おそらく血なのだろうが)もので全身を汚してしまった嫌悪感と、緊張が解けた倦怠感がどっと身体にのしかかる。
「ゆーた、早くその悪魔グリモアに戻さないとー。」
「戻すって…俺グリモアなんか持ってないぞ?」
「大丈夫、グリモアは契約した瞬間からあんたの中にあるから、あんたは大人しく“捕獲完了≪L'achevement de capture≫”って言っとけばいいの。」
「…“捕獲完了≪L'achevement de capture≫”?」
優太が呟くようにしてその言葉を発すると、彼の影から細いチェーンのような鎖が何本も飛び出てきた。
その鎖は地面に倒れたままのレラージュに絡みつくとずるずると優太の影に引きずり込む。
「ァア…ア……」
最期に小さくうめき声をあげると、ドプンッと沼に沈むように真っ暗な影の中に消えた。
「…はぁ、わからないことが多すぎて頭がおかしくなりそうだ。」
優太はそのまま頭を抱えため息をつく。
つい一昨日まで警察庁の警部としてばりばり仕事をこなしてたはずなのに、今の状況がコレだ。
人生どこでなにがあるかわかったもんじゃない。
「まぁ、なにはともあれ、初仕事おつかれさん。」
ぽんっと優太の腰辺りをエミリアが叩いた。
レヴァイアタンはご飯をお預けにされて少し不機嫌そうだが、エミリアの横で紫の体毛をなびかせている。
「…マモンちゃん、もうちょっと食べるの待ってねー。」
エミリアはそっとマモンを見上げる。
そして鷹のような足につかまれている最早人間の原型を留めていない人間を目を細めて見つめた。
「女ヶ沢さん、エミリア・ローゼンバーグはあなたを逮捕します。」
「はっ…?」
優太は思わずマモンの方を見上げた。
ぎゅるぎゅると12つの脳神経が動きだし、全身で状況を把握しようとした。
そしてなんとなく状況を理解したのかはぁと息をついた。
「…どうして…こんなこと?」
「千代さんのお家で釣り糸垂らしてみたけど…あっさり釣れちゃったねー。」
エミリアの言葉に優太は女ヶ沢千代さんの家での出来事を思い出した。
あの時に言った“逮捕します”という言葉はてっきり千代さんに対して言っているものだと思っていた。
「女ヶ沢透さん、お母さんのことが心配だったんだね。でも…それで悪魔に手を染めるのは間違ってるんじゃないかな?」
女ヶ沢千代さんの息子、女ヶ沢透さんだったのだ。
透さんはすっかり変り果て、ミイラのような姿で小さくうめいた。
「どんな理由があろうとも罪を犯してしまった人を捕えるのが警察の仕事だからねぇ…。この後のことは閻魔様に任せるよ。そんじゃ、マモンちゃんお食事邪魔してごめんね。」
エミリアがそう言ってくるっと踵を返すと、マモンはペロンと舌舐めずりをした。
そして器用に足を使って目の前の“生き物”の身体を鋭い爪でぶちぶち引き裂く。
あっという間に肉の塊となった物体の、心臓があった部位から淡く光を放つ球体を引きずりだすとうっとりとした表情でため息をついた。
「これが人間の魂…んふっ、美味しそう…」
マモンはそういいながら少し眺めた後、子どもの拳くらいの球体に噛みついた。
パンッ
閃光手榴弾を放たれたかのように辺りが光に包まれる。
あまりのまぶしさに優太は思わず両目を両手で覆った。
「なっ…!?眩しっ…!!」
エミリアはこれを想定してマモンに背を向けたらしい。
眩い光が晴れたころ、優太の視界も少し時間をおいて晴れてきた。
「…これは…?」
頭上からキラキラとした光の粒が降り注ぐ。
その光景はダイアモンドダストのように幻想的な風景を作り出していた。
「これは“記憶の粒”。透さんの記憶が魂からはじけたんだよ。」
エミリアはそう言って少し悲しそうに笑った。その青い瞳に光が映り美しく輝いている。
彼女はそっと光を掌で受け止めると、目を伏せてそのまま静かに透の“記憶の粒”を受け止めていた。
優太もそれを見てそっと光の粒に触れる。
すると自分のものではない記憶が頭の中に入り込んできた。
『大丈夫、会社のみんな優しいから。』
『少しくらいの残業はしょうがないよ、僕はまだ新社員だよ?頑張らないと。』
『今日は飲みに誘われてさ、一応社員として認めてくれたってことかな?』
『母さんには楽させたいからさ、大丈夫だって。大丈夫。』
『…ありがとう、母さん。』
『今日は、ちょっと疲れたなぁ…』
それはまるで頭の中で映画を観ているようだった。
女ヶ沢透が“死”という選択をするまでのストーリー。
精神的に追い詰められていっても誰も助けてくれない。
真面目な性格故に振り切れない理不尽な選択。
大好きな親、妻に相談なんてできない。心配をかけてしまう。
だめだ、疲れた。もういいや。
きっと自分がいなくても地球は回るしみんな生きていく。
何のために生きてきたんだろう。
もういいや、死んじゃって。
きっと死んだら今より楽だろうなぁ。
せめて、育ててくれた親には迷惑かけないように、保険金かけようかな。
自殺でもお金おりるかなぁ。
さようなら。
あれ、自分、死ぬことできたのかな?
なんだかすっごく身体が軽い。
あ、母さんが見える。
泣いてる、青ざめた僕の顔を見て泣いてる。
ごめんね母さん。ちょっと疲れちゃったんだ。
「透は優しい子だから…。大丈夫よ、あなたを追い詰めた人は私が報復してあげるからね。」
…ダメだよ、母さん。母さんが手を汚すことないじゃないか。
ダメだよ、やめてくれよ。
僕が弱かっただけなんだよ、やめて、母さん。
あぁ、身体が動かない。ダメだ、母さんを止めないと。
僕のせいで犯罪者なんかにさせちゃダメだ。
守らなきゃ、母さんを守らなきゃ。
助けて、だれか、助けて。
助けなきゃ、母さん、助けて。母さん、助けなきゃ。助けて。
『力、貸シテヤロウカ?』
「人を想う気持ちは一歩間違えれば凶器になるんだよ。彼はお母さんを守るために自分を捨てたんだねー。」
エミリアは美味しそうにまぐまぐと魂を頬張っているマモンを見ながらそう言った。
「やっぱりそうだったの。」
ふと、自分たちとは違う女性の声が聞こえた。
「透が、やってくれてたのね…。あの子、優しい子だから。」
それは千代さんだった。真っ赤に染まる優太やマモン、レヴィアタンを認知していないのか、至って普通に彼女はそう言った。
どうやら一般の“人間”には悪魔を見ることはできないらしい。
「あの子、ようやく救われたのね?」
「うーん、救われたかどうかは知らないけど…。」
「いいのよ。もう手を汚さなければ、それで。」
千代は悲しそうに、それでもどこか安心したように微笑んだ。
そして、夕焼けの暖かな光を受けながら優太とエミリアを見つめた。
「ありがとう、警部さん、小さな警視庁さん。」
こうして榊原優太が“未解決事件対策本部”に配置されて初となる任務は完了した。