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俺の名前は榊原優太。“未解決事件対策本部”にて警部を勤めているエリートだ。
…というのが今までの肩書きである。
何故そんなことを言うのか、というと、俺はすでにこの世に存在しない者となってしまったからだ。
つまり簡潔に述べると“死んだ”ということである。
一つおかしいことがあるとすれば、俺が自分の死を自覚しているということだろう。
さらに言うとまだ自分の意識が存在しているようにも感じる。
それ以外の感覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などは全て機能していないが確かに自分の意識はここに存在していた。
(…真っ暗で何も見えない。なにも聞こえない。)
俺がこうなるに至るまでの経緯を思い返してみよう。
自称32歳の上司、エミリアと事件の聞き込みについて揉めているときに突如凶器を持った男が現れたんだな。確か。
そいつの動きを封じようとしたが、普通の人間とは違い予想外の行動に俺はどうしていいかわからなくなった。
手をつけられないと感じた時、エミリアが“レヴィアタン”という言葉を口にした。
俺の“常識”が狂ったのはそこからだった。
御伽噺の世界である生き物が目の前に現れ、宙を舞う。
男は悪魔に姿を変え、矢を射る。
いつも通りの風景を背景にして非日常が目の前で動き出していた。
まるでゲームや漫画の世界に迷い込んだようだ。自分は夢を見ているのかとも思った。
しかし、悪魔の放った矢が自分の胸に刺さった時に感じた現実の痛みが御伽噺ではないと俺に言い放った。
そうして今に至る。
「とかなんとか言っちゃって、なに自己分析してんの?」
「!?」
今まで真っ暗だった視界が突然開けたと思ったら、目の前で青い肌をした少女がけだるそうに空中で肘をついていた。
「あ…あはは…いい加減夢から覚めろって自分…」
「さっき夢じゃないって認識したばっかじゃん。」
独り言のように呟いたその言葉はバサッと目の前の少女に切り捨てられた。
落ち着いて辺りを見回してみよう。
どうやら俺がいるのは“現実”ではないらしい。
地面は道路ではなく石畳になっており、12畳程のスペースまで楕円上に広がっていた。
石畳が途切れている先は真っ暗で奈落のように見える。
この空間には中央にアンティークの小さな机が一つと、同じデザインの椅子が一つおいてあり、机の横に緑に塗装された街灯が細長く闇に向かって伸びていた。
ここの明かりはこの街灯に頼っているらしい。
最も気になったのは少女の後ろに佇む二枚のドア。
一枚は木製の一般的なドアだが、もう一枚は酷く薄汚れて錆びた鉄で出来ていた。
「…ここは。」
「よーやく聞いてくれた。ここは“狭間”。生きてもない、死んでもない、丁度中間地点。」
目の前の少女はふふっと笑ってサラリと紺色の髪を揺らした。
…彼女は誰かに似ている気がする。
「生きてもない、死んでもない…ってことはやっぱり俺は死ぬのか?」
「そーね、今のままじゃ死んじゃうねー。」
少女はあまり興味なさそうに俺にそう言う。
俺は困ったときにしてしまう顎に手を当てるという行為を行おうとしたが、腕の感覚が全く無いということに今気がついた。
そういえば腕はおろか、足の感覚も身体を動かすという感覚もない気がする。
そもそも腕も足も存在していないのか。
「あー、今あんた人間の形してないからもがいても動けないよ。」
「人間じゃない…?じゃあ俺は今何なんだ?」
「うーん、人間の言葉でいうと“魂”かな?」
その一言に妙に納得した。
とりあえず深く考えるのは止めよう。おそらく今の状況に答えなど存在しないのだろう。
「…俺、本当に死ぬのか?」
「そーだね、死んじゃうよ、あんた。」
「どうにかならないのか…?俺はまだ死ねないんだよ。」
言っても無駄だろうが俺は目の前の少女に懇願した。
このまま死んでしまったら恐らく…というより確実に成仏できない。
まだやり遂げていないことがあるのだ。それを終わらせるまでは死ぬわけにはいかない。
すると少女はその言葉を待ってましたと言わんばかりににぃっと怪しい笑みを浮かべて俺に顔を近づけた。
「ふふっ、あたしはそんなあんたの願いを叶えるためにここにいるんだよ。」
「願いを…叶える?」
「早い話、あたしと“契約”しない?」
「こんと…らくと。」
正直上手すぎる話だとは思った。おそらくこの話には裏があるのだろう。
命という単位の引き換えには一体何が選ばれるのか、自分の中の信号が赤に点滅し危険を知らせている。
でも。
「わかった。」
「…いやに素直ね。何も疑わないわけ?」
「どっちみちその話に乗らなきゃ俺は死ぬんだろう?だったら返事は決まってるさ。ただ…条件を聞きたい。」
「ふーん、もっと悩むと思ったんだけどなー。まぁ、話が早いからいいや。」
少女は少しつまらなそうにそう言ってテーブルに両肘を付き、小さな顔を支えた。
「あたしね、上級格の悪魔なの。人間の魂を主食に生きてるのね。」
「はぁ…。」
「でもねー、どっかの誰かさんのせいで低級格の悪魔たちがグリモアから開放されちゃってねー…あ、グリモアって知ってる?」
「悪魔と人間界を繋ぐ魔法書…だと記憶してます。」
「んー、ちょっと惜しいな。」
俺の言葉に少女は目線を斜め上にずらしてうーんと考えた。
「グリモアはねー、悪魔を封印する言わば監獄なの。それが書物って形になってるわけなんだけど。」
「つまりそこから悪魔たちが逃げたってことですか?」
「ビンゴ。そーゆーわけ。つまりその逃げちゃった悪魔たちをグリモアに戻すのを手伝ってほしいの。」
なるほど、大体やることはわかった。
俺は小さく頷いて(実際は動けないのだが)要求を呑んだ。
「ふふっ、契約決定。それじゃあ現実に戻してあげる。」
少女の微笑みと声でまたもや俺の視界が狭まってくる。
じわじわと端から侵食してくる黒が俺の視界を覆ったその時、意識がぷつんっと音を立てて途切れた。
「あー…困ったな。」
エミリアは地面に倒れたまま動かない優太を見て頭をかき、ため息をついた。
なんというミスだろうか。一般人を巻き込んでしまうとは。
彼女はそんなことを考えながらレラージュという悪魔をチラッと見た。
悪魔は彼女と距離を保ちながらふよふよと宙を漂っている。逃げ出さないところを見ると、舐められているらしい。
エミリアはポケットに突っ込んでいた飴玉を口に放り入れると、ガリッと音を立てて噛み砕いた。
じわっと口いっぱいに広がる糖分が彼女の頭をクールダウンさせる。
飴玉を噛み砕くのはイライラした時の癖なのだ。
「せっかくいい人材が見つかったと思ったんだけどなぁ。」
そもそもこの“悪魔”という存在が一般人に見えてしまったことが想定外だったのだ。
彼女の周りを漂っているレラージュが攻撃を仕掛けてくるのは想定内。
その悪魔と戦闘になるのも想定内。
自分がパートナーを召喚のも想定内。
ただ、榊原優太に悪魔が見えていたことだけが想定外だった。
もしかしてこの男は同業者だったのだろうか。
…いや、あの驚きようからしてどうみても初めての現場だろう。
考えても仕方が無いのだろうが、初めての出来事にエミリアは苛立ちを隠せていなかった。
「まーいいや、とにかくあいつを喰ってから考えよう。」
彼には気の毒だが、こうなってしまったものはしょうがない。
エミリアは鞭を撓らせ、乾いた打音を響かせながら威嚇した。
レラージュもそれに反応し、弓を構える。
『あたしの名前を喚んで。』
ピクッとレラージュとエミリアの身体が震えた。
ここにあってはいけない自分たちと同じ気配が突如現れたからだ。
二人が視線を送った先は地面に倒れていたはずの榊原優太。
彼はしっかりと自らの足で地面に立ち、真っ直ぐに自分が敵対する“悪魔”の方を見つめていた。
「え…嘘でしょ!ゆうたん、まさか…」
エミリアは驚いたようにそう呟く。
彼の胸を貫いていた弓矢は朽ち果てたかのように真っ黒く変色し、灰となってぼろぼろと床に零れ落ちる。
そこには刺し傷など存在していなかった。
息を呑むレラージュとエミリアを眺め、優太は声を張り上げた。
「出て来い、マモン!《Venez Mammon!》」