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梓の稲荷神  作者: 花橘
【第一譚】
8/13

外法のもとに〈一〉


「こ、困ります。勝手に入られては!」


 招かれざる訪問者は、ゆるり降りはじめる秋雨と共に。

 季節外れの沈丁花の香りは風に乗って届くことなく、漂う湿り気に掻き消されていた。


 普段は不可視の、屋敷と外の境界が下座から窺える。空を揺らし、たゆむような歪みを見せる半透明のそれは異物をそこから退ける、本家の結界である。往年の十五代目総本家当主が、かつて初代当主の施したそれを改良・補強したものだ。

 有り体に言えば一族の敵となる存在の侵入を防ぐ代物で、邪気瘴気それ自体は勿論のこと害をなす人外、霊的な意味での人非人にんぴにん――例えば憑き物を宿した人間であるとか――も排除の対象となっている。ゆえに朝方は敷地内で和泉を見咎め、物の怪が侵入したと思い込んだ梓乃がまさかと驚いたのである。

 結界に拒まれたものは、それに触れると低級・中級な妖であれば焼尽し、呪詛や怨念であれば術者・呪者が返り討ちに遭う。通力を持たぬ者の目には映らず害もないが、敵を感知すると、そこに流れる通力と同系統の能力を持つ人間にだけ――つまり秋月の者にだけ――、結界は形となって目前に現れるのだった。


 ぽつり。ぽつり。

 葉を叩く天からの雫にしなる細枝。池の水面に広がる波紋。庭石の荒々しい肌はてらてらと濡れそぼって、ぬめりを帯びる蛙の皮膚のよう。

 降り始め、水の滴る音はあちこちから響く。ぴちゃんだとか、さあさあだとか、湿っぽい土や草木の匂いを運んで屋敷の中へ。


 司が引き止めるのを器用に躱し、その者はくれ縁と座敷の間の敷居を跨いだ。紺足袋がす、と畳の上をずる。着物は礼装のそれではない。藍白の長着に褐色かちいろの中羽織、冬山の色の大きな襟巻をしていた。やや暑苦しげに見えるその者は、被っていた仕立ての良そうな帽子を取り、胸元に抱えると膝を折った。すいと、面を上げる。


「はじめまして。名を霏霏ひひと申します。お見知りおきを」

「姓は」

「持ち合わせておりません」

「何者か」

「秋月一族の末端の者。それ以上はお答えしかねますが」

「・・・・・・」


 大座卓を隔てて対面する千影と、その、霏霏という者。警戒の眼差しが突然の客人へ注がれる。制止を躱され戸惑う使用人に翁は頷き、構わんと合図した。ある当主は不安そうに千影の顔を見やり、またある当主は注意深く霏霏を観察する。

 不気味な静寂を雨音だけが遮るなか、呼吸がか細くなるのを梓乃は感じた。

 得体の知れぬ“まじりもの”の気配が、幽かにしているのだ、この突然のまろうどから。他の誰もがそう思っているように、少女も訝しむ。これは一体何者なのだろうか。


 千景が皴を寄せた鼻をひくりと動かした。


「この匂いは、沈丁花か」

「よく御存じで。鼻が宜しいのですね」

「ふん。きな臭いもんには昔から鼻が利くんじゃ。吐け、お前は何者か、何用で参ったのか」


 霏霏は貼り付けたような微笑みで翁の質問を受けると、顎を斜めに引いて別な場所を見上げた。目が合ったのは、梓乃である。

 

「あな、鬱悒いぶせし。梓乃様、されどこれも宿命さだめと諦めてください。虚実を明らかに致しましょう。あたくしがお手伝いして差し上げます」


 密やかに微笑し訪問者が言った。

 瞠目する梓乃に、悪寒の波が一斉に押し寄せてくる。

 仏のある喉笛から“あたくし”と自称の声が出てきたもので、幾人かは顰めた顔を見合わせていた。


「本来発言も参席も叶わぬ身ですが、こうでもせねば“我々”の言葉は届かぬと思い、全て心得た上で参りました。どうぞ後の処分は如何様にも」

「一介の当主見習いに何ぞ用向きか。我々、と今申したな」

「ええ。単独ではしたの者が乗り込んだと思わないで頂きたいのです。この参席はあたくし一人だけのものでは、ないのですよ。これをご覧になって」


 霏霏は右手を懐に差し入れ、簡素な巻物を取り出した。しゅるりと紐解かれ、膝の前で広がるそれ。したためられた筆字が梓乃たちの眼前に現れる。


「これは」


 腰を上げた千影は直ぐにそれが何なのか勘付いたようだった。眉間に苦々しい皺を刻み、巻物の正体を言う。


「・・・・・・連判状か」

「如何にも」


 霏霏は短く肯定した。

 巻物の右に大きく書かれた文字はなんと、梓乃の次期当主襲名に反対する旨だった。

 そこからずらりと横並ぶ名、真下に示されている朱い判の数々が目に飛び込んでくる。署名者は十人やそこらではない。梓乃を拒む者の実名が、そこにはありありと、ゆうに五、六十人分あろうかというほど、書かれていた。


「ここに連署した者は皆、秋月一族の血縁で次期当主反対派です。数は五十八。率いるあたくしを含めれば五十九。縁切り覚悟の上でこちらも申し上げましょう。我々は梓乃様が次代をお継ぎになること、承知いたしかねております。思うところは、先程の百鬼様の主張と右に同じ。末端の意見と言えど、数として看過できるものではなく、本日の当主会で俎上に載せられたしと皆に仰せつかって参りました」


 真っ直ぐ見据えてのたまう連判状の代理人に、千影は目元を険しくした。霏霏は視線を流し、呆然とする梓乃を見上げてにこりと笑う。下らん。乙和が取るに足らぬことと興醒めの一言を漏らし、夜久が溜め息をついた。試すかのごとく、霏霏に問う。


「この書状が偽物ではないこと、お前が一族の者であることをどう証明する」

「――そう、仰られましても。あたくしは神聖な当主会に丸腰で割り込み、即座に切り伏せられても文句の言えぬ無礼を申し上げているのです。水火も辞さぬこの覚悟こそ、全て偽りではないことの証と、受け取って頂けませんか」


 じ、と低い姿勢で見つめ返す霏霏。雨脚の強くなりゆく只中、肩に掛かる黒髪をさらりと動かして夜久は再度嘆息した。奥小路を隔てた向こう側で、銀杏が目を閉じ、静かに腕組みをしている。

 複雑な表情で連判状を運んできた司からそれを預かった千影は、つぶさに連署されている名の一つ一つを確かめ、声を発した。


「儂の見慣れぬ名もあるな」

「それは総代様。如何な貴方様であれ、五百年の一族を端から端まで知悉されるのは至難の業でしょうから」

「これは、信ずるに足ると?」

「左様」


 ふうむ。千影は気難しげに、蓄えた顎髭を撫でた。

 御大おんたい・・・!

 奥小路が焦ったように千景を呼ぶ。

 どこの馬の骨とも知れぬ男ですぞ、信用召されるな!

 よもやと釘を刺す奥小路の声は聞いてか聞かずか、徐々に厳しかった表情から力を抜く翁である。天井をぼうっと眺め一人黙考し、にやり、不敵な笑みを覗かせた。


「まあ、良かろう」

「御大!しかしですな…!」

「これも総代としての懐の深さじゃ、皆まで言うな。――霏霏とやら、この連判状はしかと受け取ったぞ」


 霏霏は、恐縮でございますと額を畳に擦り付けた。確たる証拠もなしに霏霏の申し立て、連判状共々受理されたのである。当主会幹部らは突として色めき立ち、困惑の声を口々にしてゆく。


「まさか!」

「総代様、お戯れを!」

「えいえい、そう取り乱すな。縁者の意見一つ聞き入れたまでじゃ。議論自体がどうなったわけでもあるまい」

「そのような問題では……っ」


 発言を制された奥小路に代わり、四・五格の分家当主らは当然の反論と食い下がった。彼らの狼狽えぶりたるや、一族総代表ともあろうお方が血迷われたのか、とでも考えているような状態で。

 だが梓乃だとて驚かずにはいられなかった。傍から見ていても、祖父の安請け合いは異常に感じられたのだ。

 当主会に招かれざる者が、確かな身の上も示さず、一族の頂点を左右する議題に意見する。どころか委細不明の連判状まで上程しているというのに。いくら霏霏が縁者だと名乗っていても、受け入れられるには男は無礼を働きすぎている。――ので、これは如何なることかと我が目を疑った。


「かかる事態が許されましょうか。総代様、どうかご判断は慎重に」

「そうですとも、総代様!」


 二人が腰を浮かせ座卓に身を乗り出していると、横から伸びてきた腕が止めに入る。目を閉じだんまりを決め込んでいた花房銀杏の腕だった。


「――鵜条うじょう廿楽つづらくどいぞ。総代殿がそう判断なされたんだ。これ以上の過言は慎め」

「・・・・・・しかしっ」

「いいから」


 銀杏に鋭く咎められ、四格の鵜条も五格の廿楽も勢いを殺されてしまう。納得できぬような彼らは、されども目上の当主に窘められては引き下がるしかなかった。

 ――二人は、正常な反応をしているように見受けられた。どうも梓乃と他の者とでは思考が異なるらしい。それ以上千影に反論する者はいなかったのである。

 面を上げる霏霏が、戸惑いつつ腰を下ろす梓乃に再び微笑みかけた。この、意味深な微笑はどう取ればよいのだろう。あちらは仮にも自分の後継を反対している立場だ。挑発なのだろうか。精々何ともない振りをして気味の悪さを紛らわしていれば、次は上座から声が上がった。


「連判状には反対者五十九名か・・・形勢逆転だな。多数決ならば尚更だ。まろうどよ、加勢に感謝するぞ」


 夜久が満足げに下座を一瞥する。霏霏は無言で頭を下げ、連判状を歓迎でもするかのような百鬼家当主の物言いに奥小路・鵜条・廿楽などは目の色を変えて上座を睨め付けた。

 果たしてこの状況で話は纏まるのか。固唾をのんで場を見守る梓乃。至極不安だった。勿論、後継辞退の方へと流れが傾きつつあるのは望ましいことで、当主見習いの少女当人としては願ったり叶ったりではあれども、予期せぬ後押しが次々に舞い込むので不安なのだ。味方など誰一人おらぬ、そう思い込んでいたが、蓋を開けてみれば――夜久曰く――形勢逆転とくる。

 解せない。何故祖父は霏霏の要求を呑んだのか。“きな臭い”と自ら怪しんでいた男の言葉を受け取った祖父の、真意は何だ。いや祖父だけでなく、連判状の受理に物申さぬ人物皆である。

 考えれば考えるほど疑問が湧いてくる。決してこれは安直に浮足立ってよいところではない。梓乃は渦中の客人を横目で盗み見た。本当に一体何者だ。この者から感じるまじりものの気配は何が原因なのだ。霏霏が自分に向かって語りかけた時の、“虚実を明らかに致しましょう”というくだりは何だったのだ。


「では霏霏よ、用向きが済んだのならお前は去れ。一族の当主会に長居するものではない」

「ええ。無論でございます。それではこれにて」


 膝を立て、来た時と同様に静かに立ち上がった霏霏は帽子を目深に被った。襟巻と相俟って顔が翳り、その表情は窺い知れぬ。座敷を去ろうという霏霏の紺足袋の動きを梓乃は注意深く目で追いかけ、それが敷居を跨ぐ直前でぴたと止まるのを、見止めた。


「ああ梓乃様、梓乃様。あたくしがこのまま何も喋らず去ねば良かったのに、残念ですね」

「・・・・・・?」

「虚実を明らかにと申し上げたでしょう?簡潔に述べますと、あたくしは知っているのです。梓乃様が本日、人知れず離れ家にいらっしゃったことを」


 さあ、と血の気が引いたのを少女は実感する。

 男は潔く屋敷を去る気などなかった。ああ、今この者は自分の秘め事を、暴こうとしているのだと腑に落ちる。

 こめかみに冷や汗を流しながら、梓乃は、出会って間もなき男の喉笛を怒った眼で睨み据えた。


「梓乃様、貴女。無才とはとんだ嘘八百。あそこでお一人、妖と語らっていたではありませんか」



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