当主会〈一〉
秋月は総本家をこの村に置き、諸分家を全国各地に点在させている一族だった。物理的な距離故に一族が揃って集まることは滅多になく、血縁を持っていても、特定の事例を除いて各々独自の生き方をしている。彼らの都合上神職を生業とする者が多いのだが、それでも日常における互いの接点はあまりなかった。
こういった状態で、分家が本家を訪問する正式な機会が、数年から十年に一度ほどの頻度で設けられている。本家に赴く権利を持つのは、主要六分家の当主たち、またはその付き人のみで、本家当主も交えて開かれるその日の"当主会"に参加し、発言することが許されていた。会は近況の報告、一族を左右する重要な議題の議論、否決可決に終始する。
最後に当主会が開かれたのは八年以上前だった。
秋月千影から梓乃の母親である乙和に当主の座が引き継がれることが議論され、結果可決されたのだ。
現当主秋月乙和は健在。しかし次代とされる乙和の一人娘、梓乃はまだ正式には本家次期当主の座を確約されていない。厳格な家であるから、総本家の長子は、当主候補、当主見習い、次期当主、と段階を経て肩書きが変化する。
この十年、当主見習いで通ってきた梓乃も、十七の生誕日を迎えてしまったからには最早見習いを名乗ることはできなかった。一族を安泰させるために、本日の当主会で可決されれば次期当主の看板を背負うこととなるのである。逆に言うと、次期当主と指名されたが最後、後戻りはできない。
梓乃にとっては決戦の日だった。この機を逃せば一生をふいにしてしまう。絶体絶命の瞬間であり、千載一遇のチャンスでもあった。何としてでもお歴々の前で、後継辞退の意見を押し通さねばならないのだ。
「御免!何方か。花房の者だ」
快活な訪問の声が屋敷に響く。開かれた正門の正面に、人の影が二つ。一人は黒羽二重五つ紋付、羽織袴と第一礼装の出で立ちが、すらりとした背丈と撫で肩の体躯に馴染んでいる、男だ。剃髪された頭部、額にじっとり滲んでいる汗を木綿の手拭いで拭ったり、衿元をぱたぱたと扇いでいる。
「ああっ。暑い、暑い。桐ちゃん、やっぱり君の言う通り、絽の長着にすれば良かったよ。秋とはいえ礼装でこれだけ歩けば全身汗だくだ。早く奥に通してくれないものだろうか」
「何を今更。“気合も根性もない軟弱者め。心頭滅却すれば火もまた涼しと言うだろう”などとご高説垂れて、私の進言を一蹴なさったのはどこのどなたですか」
「いや面目ない。甘く見ていたよ。村の入り口ではなくこちらまで車で送ってもらうのだった。仕事の装束なら実に楽なのだがなあ」
男――花房銀杏は、出迎えがやって来るのを待ちながら唇を尖らせた。背後に侍る門弟から、子供じみた仕種を窘められつつ、されどどこ吹く風といった態度は改めない。秋月一族、筆頭六分家の一、格で位置付ければ上から三番目の当主である。
「やや、本家ご当主御自ら出迎えとは痛み入る!本日もまた麗しい御姿だ。そこの見事な松葉牡丹さえも霞んでしまうほどの美しさ、こぼれるような色香とはこれいかに・・・」
「口上はいい。数日前まで共に同じお役目に就いていた者が、改まって畏まる必要もあるまい。入りなさい」
歓迎とは程遠い第一声で銀杏を黙らせ、乙和はさっさと両者を中へ促した。これが出迎えと言えるのだろうか。冷え冷えとした応対に、母の後を付いてきた梓乃は面食らった。そして、一体どんな頭でっかちなのだろう、と勝手に分家当主像を膨らませ、見定めようとすると、目敏く二対の眼が少女を発見する。
「おやおやおや。桐ちゃん、彼女はもしかして、噂の?」
「さあ・・・。私に聞かれましても」
こそこそと桐に耳打ちする銀杏は、好奇心たっぷりの瞳を梓乃へ向けた。堅物の威圧的な睨みが飛んでくるかと思っていたのだが、予想外の反応に少女はたじろいでしまう。出鼻を挫かれた気分で言葉を発せずにいると、男は先んじて話しかけてきた。
「妖嫌いの後継がず、本家の姫君ではござらんかな!」
「う、わっ」
躊躇いなく梓乃の両手を取り、興奮気味に銀杏は詰め寄った。上背が上背なので、至近距離で前かがみに覗き込まれれば、実に迫力がある。梓乃は目を見開いて仰け反った。
「なんと懐かしい。八年前の当主会では父の付き人として参ったのだが、当時を思い出すよ。葉月殿の背に隠れながらもちょこまかと動いていた、あの少女が。こうも美しく育つとは、血は争えんなあ。名は確か、園ちゃんだったか。夢乃ちゃんだったか?」
「し、梓乃です」
「そうだ!一族所縁の、梓の字を頂く、君にぴったりの名だったなあ!」
銀杏はにこにこと屈託ない笑顔で梓乃に語りかけた。八年も前の、まして当時付き人だった人間の顔など全く覚えがないので、一方的に懐かしがられても困ってしまう。困惑の色ははっきりと表情に出しているつもりなのだが、この花房当主、銀杏には伝わらないのだろうか。中々手を離そうとしない。耐えかねて、少女自ら強引に振り払った。
きょと、と束の間笑みが抜け落ち、それからふんわりと男は微笑む。剃髪した、中年に差し掛かろうという大の男のくせに、外見にそぐわぬ無邪気な笑顔だ。反比例で、毒気を抜かれた梓乃は苦々しい顔つきになる。何故か悔しい。銀杏はふっふっふっふ、と不気味な声で笑うのだ。
「キモチワルイデス。離れてください」
「いいねえ、その、とても嫌そうな顔。うちの桐ちゃんに負けず劣らず。次期当主殿は中々にして腹が据わっていらっしゃるようだ」
「・・・次期、当主と。呼ばないで頂きたい。私はその器ではなく、後継をまるで考えておりません」
次期当主、と言われた瞬間に一歩下がり、見上げ睨んだ。こんなおちゃらけた者でも、やはり分家当主なのだ。当然の如く梓乃をその肩書きで呼ぶ。流されかけた雰囲気が一変した。毅然と立ち、ともすれば威嚇ともとれる空気を梓乃は纏う。
――――後頭部が、大きな衝撃に襲われた。
「この、莫迦孫っ!!」
「あいたっ!」
容赦のない拳骨だった。食らわせたのは遅れて顔を出した祖父・千影。飛び石の上に膝をつく孫は、目尻に涙を滲ませた。
◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆
秋晴れは長続きしないという。青く澄んだ空も、さらりと乾いた空気も、一時すると酷く荒れ始めるのだそうだ。
下座に腰を下ろし、頭の真新しい瘤を撫で擦る梓乃は外を眺めていた。
爽やかな日和。室内を飛び交う朗らかな談笑。恨めしい胸中とは真逆である。くれ縁と畳には庭木からの木漏れ日が落ちていた。鳥の囀りも聞こえる。なんて長閑なのだろう。現実逃避、とまさしく母の言葉が蘇る。
整然と座椅子が並べられ、中央に一枚板の大座卓が置かれている奥座敷に、続々と分家の人間が集まってきていた。
席は離れているが、どうにも祖父と母の牽制があって今は大人しくしている。そもそもは分家当主たちを門前払いするつもりであったのに、何故自分はこんな部屋の隅で人の出入りを傍観しているのだろうか。言いたいことだけ言って消え失せた和泉の顔が、脳裏に浮かぶ。怒りはやり場もなく、拳を畳に叩き付けた。茶を運んできた司がぎょっとして、梓乃に声をかける。
「お、お嬢さん?」
「何でもない。ちょっと怒り心頭に発してるだけ」
努めて涼しげな表情を保つ梓乃。静かに、部屋の端から端、目の届く範囲全てに視線を走らせた。が、当主会に立ち会わねばならぬと言った和泉は、未だ姿を現していない。これといった気配も感じない。
疑念はずっと燻っているのだ。本当に、あの男は産土神なのか。神とは、自ら神などと名乗るものなのか。ああも尊大な態度の男が、本家が管理する神社の、この土地の主か?――嘘くさい。恐ろしく胡散臭い。妖・物の怪ならいざ知らず、神や仏なるものとの接触は経験がなかった。人ではないものとは即ち妖の類である、としか認識してこなかった梓乃であるから、和泉の話にどこまで信憑性があるのか大いにはかりかねていたのだ。
そして最悪なのは、問題はそこではなく、男が梓乃の秘密を握っており、あまつさえそれを盾に、梓乃の意図に沿わぬ行動を強いているということである。ばらされてしまえば十年の努力が水の泡。ばらされたくなければ、和泉に従うほかあるまい。
「でもあいつも、結局はあたしが当主になる事を望んでいるようだった」
小さく呟いた悲嘆の声は、上座に坐す祖父と、花房銀杏の笑い声に掻き消される。梓乃は鬱積した不満を懐に抱え、溜め息をつく。和泉に従うというのなら、そうだろう、結局自分は、当主への道を歩まされてしまうのだ。なんと本末転倒な話なのか。
いっそのこと全て忘れて、とんずらしてしまおうか。出奔の二文字が思い浮かぶものの、すぐにそんな非現実的な案は却下された。行方の知れぬ小娘一人、全国に網を張っている一族が見つけられぬ筈もない。
お先真っ暗だ、と天井を仰いだ。
「ああ。――“これ”か」
氷の如き声が耳を打つ。主人と従者、と思しき二人が敷居を跨いで部屋へ入ろうとしていた。出で立ちは花房銀杏同様、礼装であったので恐らく分家当主の一人なのだろう。梓乃を“これ”と呼び捨てた男は、美しい顔のつくりをしていた。横顔を隠す黒髪の隙間から、切れ長の眼がじっと少女を見下ろしている。
先に到着していた者たちが、男を“百鬼殿”と呼んでいた。昼餉の折に母が言っていた名であった。顔を見たのは初めてだ。梓乃は男の不躾な眼差しを、ひたと受け止め睨み返した。
「何か」
愛想がない、というよりは非情。嫌悪、というよりは蔑視する瞳。一目で男の人となりを理解した梓乃が、口を開く。男の返事はなかった。ただ背後の従者らしき人物が、“夜久様”と奥に進むよう促すと、男は梓乃から顔を逸らし、上座の方へ移動していった。そこで千影らと二言ほど言葉を交わし、席に着く。百鬼とは、秋月支流として分家中最長の歴史を有する家だ。客席の席次は、最も格上の、現当主乙和の正面。
「・・・・・・」
梓乃は、無言で奥に座す夜久の挙措を眺める。真っ直ぐな背筋、扇子を持つ指先、洗練された物腰は流石格式ある家の当主だ。梓乃は思う。母・乙和がもし男だったなら、見た目から態度まで正にこのような感じだっただろうと。主観で述べれば、一言。いけ好かない。
ふん、と鼻であしらったところで、また別な者たちが入室する。
「――梓乃さん!」
入るなり、親しげに少女の名を呼ぶ少年。久方ぶりの友人の笑顔が、梓乃の意識を奪った。憮然としていた目元も、驚きのそれへ変化する。梓乃は、珠、と少年の名を呼び返した。嬉しげに、ころころと人懐こそうな猫のように、少年は梓乃の傍に膝を折る。
「お久しぶりです!お元気そうでなにより」
「珠こそ、相変わらず元気そう。びっくりした。あんたが来るなんて。今日はどうしたの?付き人として随伴?」
「いいえ!父の体の具合が優れなくて、やむを得ず僕が当主代理として参りました。僕のような若輩が当主会幹部だなんて、もう手足の震えが止まらなくて」
頼りなさげにそう不安を零す友人を、梓乃はぽかんと見つめた。確かに少年、珠の姿は他の当主同様の礼装である。秋月の五つ紋がしっかりとそこに入っており、本人は大層恐縮しているものの、傍から見ればまこと様になっていた。
――――とても、五年前まで衣食住を共にしていた者とは思えない。
「まさか、信じられない。あの泣き虫だった珠が・・・珠が当主代理!」
「う、そうですよね・・・。僕自身、本当に自信ないんです。今日のことだって、父から碌に教わらず・・・もう心配で心配で」
「違う、そうじゃないよ。立派になったなってこと!凄いじゃない。暫く会わないうちに敬語も覚えちゃったの?背だってこんなに伸びて・・・」
梓乃は目線を上げ、珠の頭頂部を見て言った。言って改めて、少年の背の伸び具合を思い知る。五年前自分は、あの旋毛を余裕をもって見下ろせていたのに、と。
珠ははにかみ、嬉しさと恥ずかしさが半々といった面持ちで言葉を返す。
「あなたと兄弟弟子だった頃から、もう随分と経ちますから。こちらで奉公させて頂いて学んだことは、今でも僕の大きな財産です。こうして梓乃さんとまた会えて、僕はすごく嬉しい」
心の底から言っていると、伝わるような声色だった。微笑みつつ真摯に見つめられ、梓乃も頬が緩む。こういう珠の優しいところが、梓乃は好きなのだ。年月が経っても、見掛けは変わっても、変わらぬ友の温厚な一面に、少女はひどく心が安らいだ。
最初の訪問者、花房銀杏の来訪から数十分と掛からず、参席者が揃い踏みする。“柊”家の当主代理・珠も、六分家の末席に腰を落ち着けた。
「さて。皆々様、よろしいか」
千影の、声が通る。当主会の始まりを告げる、厳かな一声だった。本家側と分家側が相対してずらりと並ぶ壮観さに、梓乃は人知れず鼓動を速める。膝の上で拳を握り、いよいよだと自らを奮い起こした。
あの産土神――和泉の姿は、依然として見当たらぬまま。