父と母と〈二〉
「ご当主様、お帰りなさいませ。お役目並びに長旅、大変お疲れ様でございました」
「お久しぶりね司さん。こちらこそ留守の間の家守、感謝しているわ。父と娘の世話は手が焼けたでしょう」
蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことか。二年ぶりの母、兼、師の睥睨は梓乃にとって効果覿面だった。少女としたことがあわや口を割ってしまいそうになったところへ、折よく使用人の司が顔を出す。乙和は梓乃に含みのある視線を投げ、だがその割に呆気なく踵を返した。母と使用人の会話を聞きつつ、どうせ見逃してはくれなかろうと、半歩下がって背後を付いてゆく。
「そんな、滅相もない。逆によくして頂いて・・・そうだ、昨日もお嬢さんと裏山に出かけたんですよ。今年は木通が早く色付いていたので、先取りして籠に半分ほどもいできてしまいました。お嬢さんたら、実る木の場所をよくご存じで、ふふふっ。夢中で採っていたものですから、気が付けば西日が眩しく――」
「・・・西日が?」
じろりと乙和が斜め後方を向いた。余所余所しく明後日の方向を眺める梓乃の視界に、しまったというふうに口を押える司の表情がある。気付くのが遅いよ司さん、と心中嘆くも、覆水盆に返らず。
「梓乃。弓術の稽古は毎日朝夕欠かすべからずと言っていた筈。師の言い付けを守らず果実狩りとは良い御身分になったものだね」
「べ、別にお手伝いするくらい、いいでしょう?朝の稽古はちゃんとやっていたもの。今朝だってこうして、ほら!」
纏っている道着を見せつけ主張する梓乃を、片や微笑ましそうにくすりと笑い、片や不機嫌そうに見つめる。やれと言われたらやらず、やるなと言われたらやる。天邪鬼な弟子だこと、と嘆息する乙和に、頬を膨らませた。
――なにも、好きで弟子をやっているわけではない。独学で学べるものを、強いて現当主は次期に師と呼ばせているのだ。それは弓の扱いに留まらず、諸武芸全般に言えることで、因んで加えると、作法教養しきたりなどは、現役を退いた祖父から叩き込まれている。
退治屋の実戦において最も重要な、呪法の修行は、この十年で体得すべきものの半分も身に付いてはいないが。通力の才は持っていない、と皆を騙っているので、この点についてはあまりとやかくと言われない。将来家業を継ぐつもりも、態々その世界に飛び込んで仇なす妖どもを駆逐するつもりもないので、学ぶ必要なしと切って捨てていた。まあ、継げ継げとなおも五月蠅い周囲にはうんざりするものの、なんとか今日で全ておじゃんにしてしまいたいのである。
従って、いきなりしゃしゃり出て来たかと思えば余計なことをずけずけとのたまう、産土神を名乗るあの和泉とかいう男は、まさしく青天の霹靂で。
「昼餉のご用意が整っております。大旦那様も旦那様もお待ちでしょう。もう恐らく、三の間に」
「分かったわ。お役目の報告はその時にと父へ伝えて頂戴」
「かしこまりました」
当主室に差し掛かると二人は短くやり取りをして、乙和は襖の向こうへ、司は父と祖父がいるであろう三の間へ姿を消した。
「・・・・・・?」
二年ぶりの対面ゆえに、もっと膨大な量の小言やら尋問やらが待ち構えていると思った梓乃は、母の不気味な大人しさに背筋を凍らせる。
「おかしい・・・・・・」
司がいなくなれば部屋に引っ張り込んで、誰と喋っていたのかねちねちと蛇の如く吐かせにくると警戒していたため、拍子抜けであった。母であって、けっして母ではない、母性よりもむしろ厳しさや強さなどといったものを子供に示す、父性の持ち主であるから。
襖の奥は無人であるかのようにしんと静まっていた。未だ部屋の前で立ち尽くす梓乃に掛かってくる声もなく、乙和が何を考えているのか少しも分からない。分からないといえばそれは昔から分からないのだけど、父葉月との性格の落差がいつも梓乃を戸惑わせていた。
優しくしてほしいわけではなく、この歳で親に構ってほしいと甘えるつもりでもないが、どうしても母のあの腹からこの自分が生まれてきたというのは、信じ難いのである。家族や親子、といった骨肉の情が限りなく薄い。
「昔はそうでもなかったけど・・・・・・やっぱ見習いの修行が始まってからは母子っていうよりは、寝ても覚めても師弟って感じだし」
仕方なく私室へ戻り、道義を脱ぎ捨てながら少女は独白する。さらりと道衣が肌を滑り、畳に波を作って落ちた。
「そう言えば、あたしが跡を継がなくなったら、お母さんはどうするのかな」
読めぬ先の事に、ふっと首を傾げる。
◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆
退治屋の正装などするはずもなし。小袖に着替え、祖父に二度叱られる前に道場の後片付けも済ませ、ようやく梓乃は三の間で昼餉にありついた。既に祖父も両親も食事半ばで、仕事の話に箸も止まっていたので、司の膳立てした料理を梓乃だけがぱくぱくと口に運んでいく。両親の不在はこの家では日常的なことで、祖父・千景の説教を受けつつ腹ごしらえをする普段と異なり、今日は勝手が違う。右から左へ筒抜けていく大人たちの会話を余所に、満腹となると食卓の隅で手を合わせた。ごちそうさま。当主会が近付くにつれて増長する不安や焦燥を埋めてしまおうと、食べ過ぎてしまったか。腹八分を心掛けている胃が、些か重たくなる。
「――そうか、そこまで酷いか。飯縄の山はもう長くは持たんかもしれんのう」
「もしもの時は、最小限に被害を抑えなければ。最早、地蔵岳だけで札の数は千三百超え。本家と花房、百鬼の手数で、果たして事足りるかどうか」
千景と乙和の会話に分家所縁の名を見つけ、少女は目を向ける。葉月含め三者とも浮かない表情だった。神経質に顎髭を撫でる、それきり無言の祖父が物珍しい。父母はともかく、不満があると何かにつけ文句を言わねば気が済まない、一言居士な男であるのに。
何事かと梓乃が口を挟もうとすると、娘の様子に気づいた葉月が片手で柔らかく制止する。
「まあ、二人とも。悲観的観測ばかりでは気も滅入ってしまいますよ。今はまだ御山の“封”も保たれていることですし、今日はせっかく二年ぶりに帰宅できたのだから。ね、肩の力を抜きましょう?」
釈然としない少女を横目に、三者は食事を再開した。場を和ませたその父の言葉も、打って変わって漬物の塩加減を嬉々として語る祖父の笑顔も、共に自分の疑問や好奇心をはぐらかすためのものだと気付いてはいたが、なお敢えて強引に聞き出そうとはせず、梓乃自身もまた雰囲気に流された振りをして空の食器を勝手許に持って行った。わざわざ運んでくださらなくても、と恐縮する司に再び、ごちそうさまでした、と言って微笑む。
愚かなことをしでかそうとした。これから後継を辞退しようとしている自分が、彼らの話に首を突っ込みすぎてはならないのに。家族の仕事に、中途半端に関わってはならないのに。発言を制し、やんわりと拒んだ父の行動はともすれば、梓乃の本懐に理解を示していればこそ、のものだったのかもしれない。・・・・・・と、少女は殊勝に反省しながら、前裁の隅に立つ黒松を登る。
「逃げることは、悪いことではない。悪くはない。本当に悪いのは、無力でありながら善を掲げることよ。綺麗事だけでは誰も何も救えないのだから。何が正しくて何が正しくないのか、判断もできない能無しに歩む正道などないわ」
一族を率いる主なら尚更、正道以外の道を進むことは許されないのだ。誤り踏み外すことのできない細い一本道を、一生かけて歩む覚悟も大器も、自分にはないものだと梓乃は考えている。
屋敷の土塀を見下ろすまでの高さまで来ると、頑丈な枝に腰かけ、遠くとおくを見つめた。感慨深くもなろう。待ち受けるものの大きさを思えば、自分は今この身一つ。周囲の失望を背負ってでも、目を背けたい未来がある。いい年をして我欲ばかりの馬鹿げた娘だと皆思っていることだろう。それでも、期待を裏切ってでも、拒みたい。逃げてしまいたい。
梓乃は、人ではないものが見える。声が聞こえる。触れることができ、時には気配さえ分かることもある。
そういうことができる力を、一族は通力、と呼ぶ。七つを数え、とある通過儀礼を終えてからこの十年は、自分の通力の恐ろしさ、及ぼす弊害をまともに味わってきた。身の内に巣食う魔物だとさえ感じた。
こんな力を操って不浄を祓う退治屋になどなれるわけがない。幼いながら己の行く末を見極め、それと同時に梓乃は周囲を欺き始めた。自分には通力の才などない。何も見えぬ、何も聞こえぬ、何も感じぬ。徹底して自らを偽り、勘の鋭い大人たちを騙してきた。更に当主を継がぬ意思を来る日も来る日も主張して、才がなければまあ仕方なかろうと、彼らを諦めさせるために明け暮らしたのである。内に潜む通力を疎んじ、暫らくして人ではないものをも強く忌み嫌うようになった。
腰抜けだと罵られるだろうか。才もなく、跡を継ぐ気もなく、嫌だいやだと押し付けられる重責を拒絶し続けている。皆の目に映る姿は、酷く無様に違いない。だが、それでいいと思う。このまま次期当主となって、何れは十九代目となって、身を引き裂くほどの苦痛を味わう日々を送るくらいなら、退治屋始まって以来の出来損ないだと烙印を押される方が幾らもましだ。
「――小袖で木登りとは、お前の前世は山猿だったのかしら」
「!」
下を向いた。呆れているのか馬鹿にしているのか、単衣の黒留袖を纏う乙和が、無表情でこちらを見上げている。
「お母さん」
「母ではない。師匠と呼び直しなさい」
「う・・・るさいなあ。師弟関係なんて、全部今日で終わりにするから。当主会が始まったら絶対に継がないって宣言するの!そうしたらもうあたしは、当主見習いでも、お母さんの弟子でもなくなるんだよ」
「おや。お父様から聞いた話だと、当主会は必要ない、分家の人間など追い返せと無礼千万だったそうじゃないか。感心するね、会には出ようと決めたのか」
「・・・・・・っ」
言葉に詰まる。まさか産土様に脅されているとは言えず、梓乃はそっぽを向いた。母の、何かにつけ居丈高な態度が癪に障る。それこそあの和泉のようだ、と心中悪態をつき、余計に腸が煮えくり返った。
産土だとか稲荷神だとか、はったりだったのではなかろうか。人畜無害な物の怪が人に化けて、屋敷の結界を偶然すり抜けられて、たまたま道場にいた梓乃に悪戯をした。矢で貫いて死ななかったのも、きっと何かの手違いで。ああそんな感じで、全て無かったことにしてしまいたいのに。
「現実逃避か」
的を射た母の一言が届いた。横目でそろりと見下ろした先に、乙和の変化のない表情がある。当主会について言ったことなのだろうが、底知れぬ黒い瞳に、梓乃はこくりと喉を鳴らした。まさか知っているのではと、脈が躍る。乙和の、何でも見透かすような視線は、昔から大の苦手だ。
「一言伝えておくわ。次期とならぬなら、お前は明日から私の娘ではなくなる。父も母も祖父も、皆お前の傍から離れると思いなさい」
澱みなく、十八代現当主はそう警告した。






