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梓の稲荷神  作者: 花橘
【第一譚】
2/13

しろがねの男



 地方の一村で、事は起こり始めていた。

 村の中心から見て、鬼門にあたる北東と、裏鬼門にあたる南西に居を構える一族の本家がある。秋月といううじの古びた門札が掲げられている四脚門と、土塀、竹垣にぐるりと囲まれた、大きな屋敷の家だ。北東に母屋、南西に離れ家を置き、その土地における重大な役割を担っていた。


 誰が決めたのか、代々家督を継ぐのは男女問わず長子と定められており、律儀に決まりを守り続けて凡そ五百年。固いかたい不文律となって久しい。由緒正しき云々(うんぬん)、歴史と伝統の然々(しかじか)。翁の説教が始まると二言目にはそんな陳腐な言い回しが飛び出してくる。

 とはいえ先祖がやんごとなき身分であったとか、武勲を立てた武将であったとかいう謂れではない。そうであったならば、十八代現当主の一人娘にして当主見習いの少女、秋月梓乃がこれほどに家督を継ぐことを嫌がっただろうか。家督を継ぐこと即ち、家業を継ぐこと。それも一族の頂に立ち、自らが家を切り盛りしていかねばならないのだ。


「風は鬼門に吹いている。皮肉なのか厭味なのか、お稲荷様は背中を押してくれているのかしら」


 少女が縁側の沓石に揃えられていた雪駄を履き、飛び石の上を歩くと、南東の方角から吹く風が前栽を撫でていく。椿や紅葉などの庭木が音を奏で、蹲と池の水面は美しく波を立てていた。背の低い躑躅つつじと大小の庭石の間を縫うように進み、東屋あずまやを通り過ぎると裏手に繋がる小路が見える。庭との仕切りで取り付けられている観音開きの庭木戸が開かれ、矢筒を担ぐ道着姿の背中は奥に吸い込まれていった。


 キササゲの大木が屋敷の裏手には根を張っている。一族本家と日々を共にしてきた樹齢五百年の老樹だ。秋浅いので、まだ落葉の兆しは窺えない。青々と葉を茂らせ、朝稽古にやってきた梓乃を見下ろしていた。

 梓乃は無感動に木の天辺を眺め、そして正面を向く。弓道場の静謐とした空気が身を包んだ。年季の入った、けれども丁寧に手入れされたそこで弓術の稽古をするのが、梓乃の、ひいては当主見習いとしての日課である。後継ぎに関しては断固拒否の姿勢を持つ少女も、身になるものについては拒む理由がない。秋月の者は概して弓に造詣が深く、負けん気の強い梓乃は単純に、家族に――中でも祖父に――武術や作法で劣りたくないが為に、当主見習いの修行をこなしていた。動機は不純であれど、翁の小言を減らすことにもなる。


「精神統一、精神統一」


 邪念よ去れ。

 射場に立ち、呼吸を落ち着け弓を構えた。矢道の先にある的を狙って、そのまま静かに両拳を打起す。肩と肘で大きく引き、きんと細く張りつめた感覚を定めて、矢を放った。

 矢が的を射る音と、深い呼吸音、キササゲがざわつく葉擦れの音だけが耳を打っていた。一人そこに佇んでいると微かな不安が胸に去来してくる。厭わしくて、集中を削がぬように次の矢を構え、自身の背よりも遥かに大きな長弓を引き撓らせた。


「精が出るな」


 ふと。

 別の音が梓乃の鼓膜を振るわせる。同時に若竹のほのか甘く、爽涼な香りが鼻腔に届いた。

 祖父ではない若い男の声に、梓乃は驚き振り向く。本座の隅で、板壁に凭れ掛かりこちらを傍観している人の影が、視界に収まった。


「ほう、俺が見えるか。見え聞こえ、ならば触れることも可能だろうか。お前の母は叶わなかったことだが」


 からん、と矢が床に落ちる。梓乃は無言だった。一文字に引き結ばれていた口が、半開きになって、けれど声はひとつも出せなかった。緊張の糸が千切れ、数瞬、体が弛緩して、強張る。こんな姿、稽古中にあるまじき醜態だときっと翁は憤るだろう。まさか、と漸く零れた言葉は数歩先にいる者の耳にも拾われず。


 男は、愉快げに紅唇の端を持ち上げた。


「どうした、人外が屋敷に入り込んでおるのだ。怒りもせんのか。次代は肝が小さいとみえるな。妖嫌いの後継がずが、聞いて呆れるぞ」


 嘲笑と挑発がぶつけられる――その刹那、梓乃は動いていた。

 矢羽を足の爪先に引っ掛け、落とした矢を拾い上げる。そして目にも止まらぬ素早さで弓を構え、男の左胸目がけて寸分の狂いなく放った。心臓を貫いた。そう思った。鏃は直衣を纏う男に吸い込まれるように突き刺さり、布を引き裂く音も聞こえた。だから、仕留めたと思った。

 ぐ、と左胸に沈む矢を男が掴む。眉根を寄せ、苦痛の表情を滲ませながら、前のめりになる躰。だが殺気立つ梓乃が更に矢を構えていると、男の顔に苦しみは消え、笑みが浮かんだ。掴んだ矢が、ぱんっと弾けた。


「俺に幼き巫女の神矢など効くものか。梓乃、お前はまだ半人前だな。男と女の逢瀬というものが分かっとらん。お前と違い、若かりし頃の乙和おとわは思慮深く、なかなかにして当主の器であったぞ」


 風は南東から吹いていた。強く、不吉な報せを運ぶかのように少女を煽いで。遠くとおくまで始まりの到来を告げていた。

 今日この日、梓乃に何が訪れるのか。男は知っていたのだろうか。驚き戸惑う少女を見定め、艶めいた微笑みを湛えていた。




◆◇◆◇◆  ◆◇◆◇◆




 ひとつ、神職を家業とする本家は、表向きには、村の南東にある稲荷神社の管理をしていることになっている。家長、つまり秋月の当主は代々神社の宮司を務め、以下職称に応じて必要な能力を有した者たちが役職に就いているのである。

 日々やっていることといえば、境内の清掃をしたり、祝詞をあげたり、形式的な厄払いに様々な祭儀、諸々の業務などを出向いておこなったりと、一口には語れない。さりとて地方の村の平均的な神社であるから、威張るほどのことでもなく、どこの神職の人間もやっていることだ。

 梓乃が後継を格別拒む理由は、そこにはなく、そんな家の者たちが神社の管理傍らに、人知れず奔走している、もうひとつの家業にある。


 “人の世にひろく触れ回るべからず。陰に動き、名は憚るべし”という金科玉条に基づき、滅多に他言できない商売。彼らは自らを退治屋と呼び、妖・物の怪など天魔波旬てんまはじゅんの駆逐を請け負う集団であった。

 そしてそれを知り、少女を取り巻く環境が変化していったのは、ちょうど十年前の今日。ほんの七つ、年の数を増やした頃だ。


「おい梓乃。どこへ行く。弓の鍛錬はもう仕舞いか?俺が思うに、まだまだ修行が足らんぞ。千影ちかげへの反抗は一丁前だが、餓鬼臭さがまるで抜けきっていない」


 道着姿はそのまま、梓乃は屋敷を出て、村の真ん中を足早に歩いていた。人とすれ違うのは避けたいところだったが、今はそうも言っていられない。しつこく後を付いてくるこの男に害意はないようで幸いである。姦しく喋り続けており、いちいち腹の立つことをのたまっている点では、ある意味害意を持っているのかもしれないけれども。


 男の話には一切耳を貸さず、ひたすら梓乃は歩いた。問答している暇もない。ちんたらと相手をしていて家の者に見つかりでもしたら全て水の泡だ。さっさと消えるかと思えば金魚の糞のごとく追い掛け回すので、業を煮やして母屋を飛び出したのである。

 切羽詰まっていた。昼を過ぎれば分家の者が来てしまう。当主会が始まってしまう。屋敷に易々と侵入され、弓道場でこの男を殺めることが不可能と知った時点で、残された方法はただ一つ。


「ふん、梓乃。見習いの分際で、お前はこの俺をここに幽閉しようというのか」


 村の中で母屋と対極の位置にある離れ家へ辿り着くと、漆喰と板張り仕上げの土蔵の前で立ち止まった。普段は単なる物置として用いられているその中身には、所謂いわく憑きの品々が多く眠っている。蔵そのものが“封”の媒体となって、危険物を押し込めているのだ。当主の許可なく無闇に手を触れることは許されていない、開かずの間である。


「この蔵を開くことは禁忌。いくらお前が次期当主を拒み、しきたりを拒んではいても、善悪の分別はつくはずなのだが」


 男は梓乃の横顔を見やり、冷たく言い放った。なぜこうも素性を知られているのか苛立ちつつ、梓乃は押し黙って蔵の脇を進む。挑発に乗ってはならない。

 周囲に人がいないことを確かめ、閂を外した。ぎいと蝶番の軋む音が響く。埃を巻き込んだ黴の臭いが辺りに立ち込め顔を顰めた。


 男が、渋面を作る。


「おい梓――」

「五月蠅い。物の怪」


 蔵の隣にこじんまりと建てられた納屋の扉を開け、やっと発した少女の第一声は、酷く敵意に満ちていた。男に二の句を継げさせぬ声色と、刺すような視線で振り返る。


「あんたが何処のどいつで、どうしてうちの屋敷に入ることができたか知らないけど、秋月の結界の中をうろつけば問答無用で降伏されて当然。でも殺せないと分かれば話は別だわ。屋敷と、あたしの周りをうろちょろするのは今すぐやめて、棲み処に逃げ帰りなさい。それから知った風な口を利くな。――でなければ、今すぐこの納屋に放り投げて、この先五百年を農具と共に明け暮らすことになるわよ」


 鋭く睨み付け、梓乃は言った。とりわけ今は、この者に付き纏われては困るのだ。しかし男はそんな梓乃の焦りと思惑をも見透かしているのか、渋い表情をしつつも口角をあげている。


「その薄汚れた小屋に俺を?せっかくの申し出だが願い下げだ。お前ごときが俺を封ずるなど笑止。・・・――いや。そうだな」


 思案げに顎に手を当てる男の、もったいぶった態度に少女の不機嫌さは増すばかりだ。


「例えばお前が今日の当主会に出席し、“あやつらの裏で糸を引くもの”に気付けたとしたら・・・・・・一族にひた隠している秘事は明かさずにおいてやろう。というのは、どうだ?」

「なに・・・・・・?」


 梓乃が瞠目する。男はその反応に喜んだようだった。


「少しは興をひかれたか。俺は知っているぞ。お前が千影や乙和を含む親族皆を欺いている事実。ゆえに俺のような人外が傍に居ることを嫌うのだ。皆に露見したが最後、お前は益々一族に縛られることとなるからな」

「・・・・・・物の怪!あんた、何者なの!どうしてそこまであたしのことを知っている!」


 噛み付く声が思わず大きくなってしまった。梓乃ははっとして口を噤み、垣根の外を見る。往来には誰もおらず、しんと静まり返っていた。


「・・・何が目的なの。あたしは人ではないものと仲良くお喋りするつもりはないわ。あやつらとは、糸を引くものとは一体なに。なぜあたしに付き纏うの」

「教えるも教えぬも俺の自由。お前に権利はない。思い違うなよ、お前の秘事であろうと先行きであろうと、全ては俺の掌の上にある」


 細く白い指が梓乃に伸びた。造りのよい絹の直衣を、さらさらと風がそよいでいる。男からは、ほの甘く涼やかな若竹の香りがしていた。

 背筋を駆ける不可思議な畏怖に、梓乃は咄嗟に飛び退いた。少女の額に触れる寸前で距離をとられた男の指先は、そっと下ろされる。


「狐狸精の悪戯では済まないわよ。物の怪風情が、あたしに喧嘩を売るつもり?」

「俺を野辺の狐狸の類と混同するか。ふむ――――よかろう!その威勢の良さに免じて、甚だしい無知蒙昧ぶりには目を瞑ってやる」

「んな!言わせておけば・・・このっ」


 怒りが畏怖を超えて、今度は梓乃自ら手を伸ばした。とっ捕まえて納屋に放り込もうとした少女の腕から、ひらりと男は半身翻す。


「故あって、俺は今日の当主会に立ち会わねばならん。そしてお前の選択を見届けるつもりでもある。だが当主見習い殿の思惑通りに事は運ばんぞ。まあ、先に述べたように、当主会に潜む真実へ辿り着けば、お前の“秘中の秘”を俺も口外せん。ひとつ賭けだ」

「何を勝手なこと・・・・・・!」

「俺の名は和泉いずみ!遥かいにしえの時代よりこの土地の守護を司ってきた、産土神である。棲み家に逃げ帰れと言ったな。今はお前の母――現当主秋月乙和が宮司を務める社が、俺の家だ。物の怪などと戯れ言を申すなよ。直々に稲荷神が馳せ参じてやったのだ。平伏して恩に着ろ。妖退治の一族の出でありながら、人ならざるものを毛嫌いする秋月の寵姫、梓乃よ!」


 秋へ移ろう空の下、男、和泉の声は高々と響いた。美しいかんばせ。紫紺の瞳。そして細い細い絹の如き長髪、直衣はしろがね。人と似ても似つかぬ、人ならざるもの。


 惚けたように梓乃は見上げていた。

 今にも顎を外さんばかりの、大層間抜けな面をしていたぞと、この男に大笑いされるのは、この日これから起こる騒動の決着が、ついてからだった。





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