外法のもとに〈四〉
喜怒哀楽の一切を表さないことの恐ろしさを覚えた。こちらを散々皮肉り小馬鹿にしてきた男は、その表情ひとつで場を凍りつかせる。梓乃はこれまでの喧嘩交じりのやり取りを忘却し、男――産土神の絶対零度の視線も、突如漂う、かの周りのぞっとするような冷気にも戸惑った。今、感じているのは確かに“恐怖”である。
自分を目がけて飛んできた矢の存在よりも、和泉を取り巻く気配に冷や汗をかいた。夜叉や阿修羅と相対している気分になり、硬直から抜け出せない。
――なんなのこいつ。
と、梓乃が和泉の神霊らしからぬ――いや、むしろ、らしいのか――雰囲気に呑まれていると。
その金縛りを相手の一声が解いた。
「おい。次が来るぞ」
「え、――っ!」
びゅう!と再び空を切り裂く音が届く。足場の悪い山の斜面に立つ少女の、その死角から襲ってくる二撃目に隙はなく、背中から心臓を射抜かれると思われた。
が、梓乃は矢が我が身を貫くのを許さなかった。
飛来する矢が間合いに入るよりも前に、方角と距離を気取って瞬時に重心を低くとる。軸足に体重をかけ、雨で滑りやすくなった腐葉土を利用して素早く身を翻したのである。
振り上げた腕の動きに合わせて着物の袖が勢いよく靡くと、たちまちどっという音と共に矢はそこに刺さり、厚手の布が引き裂かれる。袖のほぼ中央を、柄が貫通して止まった。片袖を犠牲にして突然の襲撃に対応した梓乃は、緊張を解かず周囲に目を走らせた。小袖を引き裂いた矢をすっと抜き去り、近場にある太く丈夫な木の陰に身を隠す。
「・・・・・・見て、鏃に毒が仕込んである。附子かしら」
「さてな。少なくともそれを用立てする程度には周到に狙われているわけだ」
周到に狙われている?先端に何がしかを塗り付けてある矢を握り、梓乃は訝しげに和泉を見上げた。腰をかがめ、背の高い藪に這って移動すると、初撃と二撃目の放たれた方向を息を殺して注視する。武器を使っているところから襲撃者は人間だろうと想像はつくが、周到に狙われているとはどういうことだ。
「ここからじゃ障害物が多くてよく見えない。向こうの条件だって同じはずよ。雨まで降ってるのにあたしの心臓を寸分の狂いなく射抜こうとしてた。魂消たわ、どんな腕の持ち主?大体うちの縁戚でもあるまいし、そんな遠くから的確に狙えるはずが――・・・・・・て」
そこまで、口にして初めて気が付いた。
まさにたった今、然もありなんという境遇に立たされているではないか――ということに。
よもやそんな。彼らが自分を?いや、幾ら何でも考えすぎだ。
そう疑念を振り払えど、タイミングの良すぎる展開に理性は点と線を繋げる。
「無様に死ぬなよ、梓乃」
「うう、うるさいわよ!ちょっと!相手が当主会にいた誰かじゃないことを証明して!ありえないって言って!」
「いや驚いたな。本気で屠りに来やるとは。お前は相当一族から疎まれていたのだな」
「和泉!この、鬼!冷血漢!人でなし!」
泣きたいのか怒りたいのか、どっちつかずの複雑な面持ちで男を詰った。またもや大声で敵方に居場所を知らせた少女は三撃目、四撃目の矢を腹這いになって躱し、“人でなしは事実だからな、罵りになってないぞ”と暢気に答えている和泉を恨みがましく睨む。
「嘘よね?あたし皆に殺されかけてるの?本家の人間は何やってんのよ!お父さんもお母さんも、あのじじいも!孫娘の殺しを許したっての!?」
後を継がぬ意思を曲げなかったからか。それとも本当に霏霏のあの発言に唆されたからなのか。母は冷徹であるし祖父は感情的であるし、梓乃の教育に対する厳しさはこの上なかったが、“鳴かぬなら殺してしまえ”とばかりの極論を行使してくるとは想定外だ。まったくもって想定外だ。
霏霏の言いがかりを真に受けることはなかろうと思ったのは、読みが甘かったのだろうか。
――ああ、そういえばと思い出す。黒松の上で母と会話をしていた時だ。母乙和は“父も母も祖父も、皆お前の傍から離れると思いなさい”と後継辞退を固く主張する娘に釘を刺していた。あれは、この状況を指していたのだろうか。妙に辻褄が合うではないか。
「・・・・・・もう!なんてことなの!もし本当に下手人が当主会の奴だったら、説教じゃ済まないわよ!死んでも死にきれるものですか!!」
吸い込んだ泥水で重さを増してゆく小袖を、襷掛けで纏め、再度木の幹の裏に隠れると、梓乃はぐっと胸に手を当てた。柔らかなそこの奥で暴れる心臓を抑え込み、落ち着け、冷静になれと深呼吸して動揺を鎮める。
ここでショックを受けていたって埒が明かないのだ。そうして強引に動揺を振り払う。何より火急の事態は現在襲撃されているということだと。
「あんたの言うとおりね、和泉。これは母屋に戻る云々の話ではなさそう。取り敢えずここから離れなきゃ。こっちは着の身着のまま、反撃もできやしないし」
山を下りたら格好の標的にされる。敵方の正体もはっきりと掴めぬまま、むざむざ矢の的にされて堪るものか。秋月の人間が弓を射られ失命するなど臍で茶が沸いてしまう話だ。
止まぬ毒矢の雨を掻い潜り、藪と秋雨に紛れて斜面を登ろうとする梓乃は、着物の裾を捲り上げて膝下を露にした。そこを絞ればぼたぼたと滴る濁り水。片や被衣の下で何故か雨露一滴たりとも浴びていない傍らの男である。人外というのはつくづく恨めしい。
「あんたはさっさと社に戻ったらどうなの、産土様。小娘の逃走劇に付き合いたいわけではないでしょう。こちとら選ぶも何も、命の危機の真っただ中なのよ」
「お前こそこの山を登ってどうする。逃げるだけで勝算はあるまい。このまま山登りをしたとしても、“鬼門の臭い”を身に染み付かせるばかりだぞ」
梓乃はぐ、と言葉を呑み込んで押し黙った。男の言は尤も至極、少女の反論できぬところを突くものだ。ここはとにかく身を守ることが先決で、刻下勝算などありはしないし、上へ登れば結果的に追い詰められるだけかもしれないとは十二分に自覚している。身を隠すためにこの山に入ったが、相手がもし秋月の者なら自分に地の利があるとは決して言えないのだ。
そこに畳みかけるように厄介であるのは、男の言う“鬼門の臭い”だった。本家母屋が位置する場所は村の丑寅――すなわち鬼門という名の方角である。鬼門とは良くも悪くも気の流動が発生し、また一口に鬼と称される様々な妖異が出入りする一帯であるので、そういった方角の穢れを祓い、不浄を村に雪崩れ込ませぬように母屋自体を堰として普請しているのだ。
その裏手にあるこの山は、いわば母屋によって堰き止められた“気”の混沌とした吹き溜まり。鬱蒼とした木々が日の光を遮り、あちこちに陰りと冷気を孕んで嫌な気配を充満させている。況して今は雲が秋の空を覆い、数多の雨雫に陰鬱とした様相が増長している状態なのである。短時間なら足を踏み入れても害があるわけではないし、退治屋の脅威があって有象無象の妖はあまり姿を現さないが、この天候で着の身着のまま長居してよいものかどうか。妖嫌いの梓乃は尚更、ここの臭いが染み付くことをよく思っていない。
「なにせお前は、人外に殊更懐かれる」
からかい混じりの和泉の指摘を、梓乃は鋭い一瞥を送り黙殺した。言外に、長居すればお前の気に中てられて“よからぬもの”が湧いてくるぞ、とのたまわれ、逡巡せざるを得なくなる。
しかし致し方ないではないか。ここで退かねば前方には正体不明の襲撃者。矢の飛んできた方向からして、それは単独犯の攻撃ではなさそうだった。敵の数も知れぬ山裾に下りることは得策たりえないのだ。遠距離から殺傷できる弓矢相手に、武器を持たぬ少女は太刀打ちする術がない。
「――いいえ、ここを登るわ。山伝いに鬼門から出ても追手は恐らく迫って来るだけ。だったらいっそこの裏山の瘴気を逆手にとって、弓の手が届かない奥まで行ってやる。山頂付近は空間が歪んでいるから、あっちの目を欺けば何とか・・・・・・」
苦渋の面持ちで陰惨たる上方の木々を眺めた。己の言葉が希望的観測に過ぎないことは百も承知である。苦肉の策を捻りだした梓乃に、和泉は嫌味たらしく声をかける。
「そこまで思い悩むくらいならば、俺に助けを求めたらどうだ」
「・・・・・・はあ?」
「ここでこの土地の主である俺に膝をつき、助けてくれと一言乞うだけでよい。然らばお前は逃げ道を得るも、潜む弓の手の者を一掃するも自由だ。悪い話ではなかろう」
「・・・・・・」
胡乱な眼を向け、見下ろす産土神を梓乃は見つめ返した。いきなり何を言い出すかと思えば、である。助けを求めろだ、膝をつけだ、言うに事欠いて男は進退窮まる少女を試すかのような意地の悪さを発揮したのだ。
「誰があんたなんかに。会ったばかりの胡散臭い男を、あたしが頼って縋るとでも?何が狙いなのか知らないけれど、妙な情けは要らないわ。いいから放っといて頂戴」
当然の如く吐き捨てて梓乃は姿勢を低くしたまま斜面を登り始める。盛り上がった木の根に雪駄を引っ掛け、滑らぬように慎重に、且つ周りの草木を揺らさぬよう静かに上へ身を乗り出した。罠ともしれぬ男のくだらない誘いに乗る暇があれば、少しでも奥へ上がらねば。強くなりだした雨脚に矢の追随は途切れても、いつ再び毒の鏃が来襲するとも限らない。
こんなところで何者かも分からぬ相手に命をくれてやる義理はないのだ。死ねと言われてはいそうですかと殺されるわけにはいかなかった。下手人が万が一、一族の人間でも、たとえ推察したとおりの、彼らが梓乃を邪魔に思った末の結論でも、どうぞ殺してくださいなどとしおらしい態度はとれはせぬ。寧ろいい迷惑だ。
「馬鹿馬鹿しい。絶対死んでなんかやらないから・・・・・・!」
梓乃は脳裏に祖父や母の顔を思い浮かべては悪態をついた。視界を曇らせるほどに濡れた目元を手の甲で拭いやり、木の幹の裏を縫うように伝っていく。幸いというべきか、体力は同じ年頃の娘よりも自信があった。見た目は細く華奢な足腰も相当に鍛えてあるし、反射神経の鋭さは矢を防いだ先程の身のこなしにも明らかである。物理的な痛みを負うことに対する恐怖は然程感じていない。本家長子だからとはいっても温室育ちではないし、泥水塗れになって山登りをすることも大した問題ではなかった。
うねる木の根と苔むした山岩が互いに互いを飲みこむように入り組んで、その上を腐った木の葉が覆い被さる。踏み締めた足場が思いの外悪かったことに気付き、あ、と声を漏らした瞬間に体重をかけたそこが崩れた。がらがらと大小の石と土と苔が小さな傾れを起こし、重力に従った体は背中を引っ張られる。手近な植物を慌てて掴み、落ちかけた寸でのところを押し留まった。
肝を冷やした梓乃がふうと吐息を吐き、上を向いた直後だった。斜め後方から、がさり、藪を揺らす音が雨に紛れ聞こえたのである。ぴたと動きを止めた梓乃は、呼吸をも同時に止め、警戒心露わに首を背後に捻る。忍ぶでもなくがさがさと大胆に藪を揺らし続け、徐々にこちらへ接近する何か。大きさは人のそれではなし、草の丈にすっぽり隠れている様子から野兎の類かと思ったが、そうではなかった。
草間から覗いた色はくすんだ赤。濡れた額に生えていたものは体毛ではなく短い角だった。梓乃と同じく、だが比較すればずっと小ぶりの掌で必死に掻き分けて、そこからひょこっと出てきたのは。
「――付いてきたの?なんで・・・」
奥座敷で霏霏が傀儡に憑かせていた槐の子鬼だった。少女が膝の上から突き飛ばし、図らずも痛い思いをさせてしまった鬼の童だ。金色の双眸にとうに敵意はない。人間に触れたことが余程嬉しかったのか、離れた場所から梓乃に手を伸ばし、早く早くと急かしているふうであった。どうしてよいのか分からず、梓乃は子鬼を見下ろしたまま固まる。こちらから体を傾け、手を差し伸べればぎりぎり届くかもしれない、という程度の距離だ。
「・・・・・・おい」
「何よ」
魑魅を忌避する思いとは裏腹に、目の前の邪気のない赤い手を無下にできない思いもどこかあり、梓乃が自身の状況も失念して躊躇っていると、更に下方から和泉の短い呼びかけがあった。
こちらもまた短く応え、そして、直ぐにはっとする。
止まっていた襲撃が再びはじまったのだった。ひゅう、と耳を高く劈く音が、一つ二つ。和泉に続きそれらを察知した梓乃は、地に伏せて難なく敵の攻撃を往なそうとした。――――が、どうも矢の飛ぶ軌道が先程と異なることに気付き、後方に視線をやる。自分を貫きにくると思ったその殺気の塊は、しかし微かに少女の位置より斜め左を目指していたのである。
「――――、」
違う。こっちじゃない。
矢の対象が自身ではなく子鬼になっていることを悟った瞬間、梓乃は登ったばかりの斜面を滑り下りていた。いや、滑り下りるというよりは、上から下へ飛び降りたと表現した方が近いだろう。
別に護らなければ、とか子供だから、とか考えたわけではなかった。人外は人外であるから、厭わしいという気持ちは全く変わらないし、あちらが狙われたのは藪をめいっぱい揺らして居場所を知らせた、子鬼自身の自業自得というものでもあるから。
ただ、その揺れた藪に潜むものを、梓乃だと見做して射手は矢を放ったのだろう。とは簡単に推測できた。だから、子鬼が毒矢を浴びれば、それはつまり子鬼が梓乃の身代わりになるということなのだ。
助けたかったわけじゃない。決して。何故なら梓乃は、人ならざるものが大嫌いなのだから。
けれども彼女が一切の尻込みなしに飛び降りて、子鬼の上に覆い被さった背中で毒矢を食らったのは、ただ、本当にただ、自分の身代わりになられても夢見が悪い、という身勝手な理由から。取るに足らぬ鬼童に死なれて、怨まれでもしたら面倒だから。そんな自己中心的な都合でしかなかった。
「――ぅ、あ!・・・・・・っ!」
一つは腕を掠り、一つは背中の右を、衝撃が走った。容赦ない威力に、肩が大きく跳ねる。ぎゅうと目を瞑り、歯を食いしばり、身体の下で混乱しているであろう童をも潰しかねないほど腕が強張った。以前、祖父が教えてくれたことがある。矢が胴を貫いたときの感覚を。なるほど、と身をもって体験した梓乃は口角を引き攣りあげた。痛みではない。雷のような衝撃と、そして真っ赤な焼き鏝を当てられたかのような灼熱。
これは流石に応える。肺腑が傷ついたのだろうか、ぜい、と喘鳴が出た。次いで震える全身から、あわや少女の身代わりになりかけたものを解放する。槐の童は、それはそれは驚きと混乱を金色の眼に浮かべて梓乃を凝視していた。
なによ、庇ってやったのにありがとうの一言もないわけ?そう言おうとして開いた口が咳込み、胸元に赤い飛沫を散らす。まるで現実感のない一連の事態を、梓乃は霞がかった視界にぼんやり映していた。
そうして。遅れてずきり、と今まで感じたこともないような激痛が背中と言わず体中を駆け巡り、掠れた声が呻きをあげる。ああもう最悪だ最悪だ。脱力した四肢が横に倒れ、この世のありとあらゆるものに恨み言をぶちまけたい気分で、だらりと投げ出された自らの腕を眺めた。傾斜のある地面は滑りやすく、ぐちぐちと心中不満ばかりの少女に罰が当たったのか、苦労して登った山であるというのに、裾野を目指して体が滑ってゆく。これ以上の状況悪化は堪らないとばかりに、必死に手を草木に引っ掛けるのだが体重を支えられず。早くも毒が効きだしたのか痺れさえ感じ始めて。
もうどうにでもなってしまえ。と、破れかぶれの台詞を吐いた、かもしれない。
かもしれない、というのも、既に意識が曖昧だったせいで、後日の梓乃の記憶は定かではないのだ。
だがそのまま一気に滑って下山かと思われた少女の体は、実際は大して落ちていってはおらず、途中で一対の優しい腕に抱きあげられた。
朦朧としつつも薄く開いた瞼の先では、こんな時でもまったく嫌味なほどに美しい男の顔が、文字通りの嫌味な笑みでこちらを見つめていたのである。
加えて、手負いの少女に言った言葉がまた嫌味に極まって。
「おい梓乃。俺に助けを求める気になったか?今なら膝をつかずとも、一言願えば聞いてやらんでもないぞ」
などと滅法腹の立つ物言いをするものだから。
「・・・・・・ぜ、たぃ。嫌・・・・・・!」
と気絶寸前の体力を振り絞って、愚にもつかない拒絶の返事をする羽目になったのであった。