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梓の稲荷神  作者: 花橘
【第一譚】
10/13

外法のもとに〈三〉

 キササゲの根を切り出して拵えた札。これに産土神の神力を込め、名を神符とする。また子を身籠る十月十日の間、総本家当主が通力を込め続けた一矢、これの名を神矢とする。秋月本家は長子の誕生を迎えると、神符を社より賜り、神矢は社に奉る。この儀式の意味するところは、生まれ落ちた赤子の息災祈願である。

 神符の霊験はあらゆる霊的危害から子を護ること。神矢は神符を賜るために産土神に捧げる代償であった。

 幼くも本家長子ともなれば通力の才は人並み外れているのが一族の常で、梓乃の場合も出生後すぐにこの神佑を受けた。神符の力によって通力を眠らせ、常人の子供と変わらぬ安全な環境で生育させることが目的だったのだ。


 結果、梓乃は健やかに育ち、次期当主候補として、世に魂が留まり一人前になるという歳七つまでを過ごす。

 そして無事役目を終え効力のなくなった神符は、社に返納する神佑断ちという通過儀礼で肌身から離れ、以降を神の加護なしに過ごさねばならなくなるのである。

 少女が七つの歳を数えた日。産土神の神佑を断ち切った日から事態は一変した。

 ひとえに通力の顕現だった。見えなかったものが見え、感じられなかったものが感じられる。草木の精霊、妖、霊体、そこから来る気配。人でもなし、犬猫などの動物でもなし、この世に在って無きものたち。


 梓乃の天賦の力を本人含め誰もが驚いたが、当初、間近で見た祖父らは一族安泰と大いに喜んでいたし、少女自身も然程人外に恐怖を抱かなかったことは幸いだったのかもしれない。

 あまりに楽観的だったのだ。

 願った平穏は長続きしなかった。本家は徐々に梓乃の通力がもたらす弊害を被りはじめる。

 少女が七歳になってからの半年間で失ったものは、最早数えきれない。対して得たものはなにもなかった。

 己を歪め、次第に自我を否定していった梓乃は、人ならざるものとの接触、才を期待する周囲、次期を望まれる立場、一族の生業も歴史も全て憎んだ。

 全て身の内にあるその力が少女を渦中へと引きずり込んだのだ。

 この力がなければ、何も起こらなかった筈だ。こんな力がある所為で。

 ――もう二度と、失うことの苦しみを味わいたくはない。それだけが、この星の下で生きる希求となっている。




◆◇◆◇◆  ◆◇◆◇◆



 


「――やってしまった。最悪だわ」


 奥座敷どころか母屋からも飛び出して、発した第一声はそれであった。

 隠れ蓑はいくらでもあると踏んで来た裏山の中で、梓乃はふと冷静に状況と背後を振り返り血の気を引かせる。

 けぶる視界の向こうに小さくなった母屋を望む、そこは山の中腹にある古木の下。湿った小袖で額や髪先に滴る水滴を拭いながら、腐りかけの幹に背をもたれ、何てことだと嘆いた。


「逃げてどうするのよ、あたし。取って食われるわけじゃないのに」


 自生する木々が少女の身一つすっぽりと匿い、頭上では広葉、細枝や蔦が絡みに絡んで雨を凌いでいる。己の愚行を悔いつつも今更誰かに見つかるのも見苦しく、物音を立てぬようそっと山岩に腰を下ろした梓乃は、脱力し、独白する。


「無様だわ・・・」


 何をやっているのだろう。

 歪なうろのある正面の巨木をぼうと眺め、己の浅慮ぶりに辟易とした。まったく厭になる。あそこから逃げるなんて、自ら好機を溝に捨ててしまったようなものだ。当主会が始まった頃の意気込みはどこへいったのか。追い詰められてあっさりと踵を返すような、こんな情けのないことをするとは。

 駄目だなあ。零した声が宙に溶ける。体のあちこちのほつれ、汚れに目をやり、獣道を進む途中で付着した枯葉を、濡れた指先で取り払う。さあさあと、山の腐葉土に降り続く雨は止む気配もない。


「おい、立て。ここは気の巡りが悪くていけ好かぬ」


 視界にひらり、蝶の舞うのが見えた気がした。顔を上げた梓乃が目にしたものは、けれども蝶ではなく、紅地に咲く金楓の柄をした薄い紗だった。白と紅のぼかしに金の染め楓。なんと美しい。蝶ではなくともそのひらりと風を帯びる動きに見とれた。裾から上へ上へ辿るように目線を上げてゆくと、その紗の被衣かずきをかぶる、銀の男。


「・・・・・・和泉」


 梓乃は名前を口にした。不思議と驚かずに名を呼べた。


「言っただろう。当主見習い殿の思惑通りに事は運ばんと」


 被衣の奥からそう言ってからかう和泉を、怒るでもなく瞳に映し問いかける。雨露でしっとりとした唇が静かに開かれた。


「あんただって・・・当主会に立ち会うと言っておいてどこにも居なかったじゃない」

「居たさ。お前に姿を見せるとは一度も言っていない」

「――じゃあ、あの霏霏とかいう男の話は聞いていたわよね」

「ああ」

「和泉、あんた。離れであたしと悶着起こしていた時、あの男が近くにいること気付いていたでしょう」


 訊くと、和泉はにやり、色の薄い口端を吊り上げた。何のことだ。問い返す返事は見え透いた嘘。梓乃は首を垂れて大息をついた。走ったせいで乱れた髪の後れ毛を、そ、と耳に掛ける。


「嘘つき。仮にも産土様が人を謀るなんて」

「人聞きの悪いことを申すな。空言ならばお前の方が十八番ではないか」

「な、うるさいっ。あいつ・・・霏霏のせいで、こっちはえらい目に遭ってるのよ!?」

「だろうなあ。俺は実に愉快だが」

「・・・・・・――し、しっしっ」


 信じられない!

 あんぐりとした梓乃の口を、和泉は鼻で笑った。拳が丸々収まりそうだな、顎が外れるぞ。そんな軽口に、少女は片頬を引き攣らせる。肩を戦慄わななかせる。


「この・・・っクサレ稲荷!あんたなんか、この手で成敗してくれるわ!」

「お前の矢では俺は死なん」

「今朝は突然すぎて手元が狂ったのよ!言ってなさい、あたしをただのはねっかえりだと思って油断してると今に痛い目に遭うんだから!」

「ほう、それは見物だ」


 何を言っても変わらぬ居丈高な態度の和泉に梓乃は歯軋りする。悔しい。こいつさえ目の前に現れなければ今日は上手くいっていたかもしれないのに。その可能性はまだあっただろうに。

 そう自分の逃避を棚に上げて八つ当たりしたくなる。――と思って、いや、違うと内心で否定した。

 既に半分は八つ当たりだ。情けなく母屋を出てきた自身に対する不甲斐なさに、今は最も怒りを覚えているのだから。みっともない八つ当たりだ。

 そもそも、こんな所で口喧嘩などしていても何一つ進展しない。愉快がられようと自分の撒いた種なのだ。


「大声を出していると見つかるぞ。曲がりなりにも隠れているのだろう」

「・・・・・・五月蠅い。分かってるわよそんなの」


 梓乃は短く返した。

 ひとたび省みると怒りは惨めさに裏返る。

 自分の厄難を誰かや何かのせいにしてばかりだいうことは理解していた。理解していながら、自分ではない他の存在に理由をつけなければならないほど脆い精神こころを持っていることが忌々しいのだ。

 ほら、やはりこんな出来損ないに次の当主など勤まるものか。梓乃は面に出さず自嘲した。感情の均衡を保つことは難しい。本当に、難しい。


 母屋の方を窺えば、傘を差した幾人かの人影がちらほら出てきていた。恐らく自分を追いかけてのことだろう。今はまだ見つかることはないかもしれぬが、直に彼らは衝動のままに飛び出してきた小娘など見つけてしまうに違いない。通力を用いた呪法には、“そういう”使い道もある。

 どうしよう。揺らめく灯火のような迷いが心の隙に付け入ろうとする。選択肢は数えるほどもない。引くか進むかのどちらかだ。

 皆のもとへ戻るか?戻ってどうする。霏霏は後継反対に留まらず得体の知れない発言をしていた。闇に屠れと、まさしく梓乃の暗殺を促すかのような。まさか皆が皆真に受けるとは思っていないが、霏霏の提言も強ち間違いではなかった。

 “貴女は妖を厭うているのではなく、妖を傷つけることを厭うている。”

 “いつ寝返って一族の仇となるか!”

 男の言葉の一端が脳裏に蘇った。一族に嘘をついてきた梓乃に、疑惑をかけられる余地は確かにあるのだ。今更霏霏の言いがかりに清廉潔白を訴えても、まるで狼少年だろう。祖父や両親が信じても、分家の人間はどうだか知れぬ。後継辞退が叶っても、今度は疑われ縛られの生活になりました、では困るのだ。

 ならば逃げるか。見つかるまで逃げ続けるのか。梓乃は馬鹿馬鹿しくなって口角が上がってしまう。戻らねば解決するものでもないのに、弱い精神はいつも逃げ道を探す。楽な方へと行きたがる。

 逃げた先に自由が待っていると一縷でも縋っていたくて。邪魔をされるなら誰であろうと何であろうと反感を抱いてしまう。窮鼠が小さな牙を剥くように。


「――――“己”に敵をつくるな、梓乃」

「え・・・・・・?」


 和泉の不意の言葉に梓乃は反応した。被衣と雨に遮られてはっきりとは判別できぬ妖美なかんばせが、真っ直ぐこちらへ向けられている。婉曲に過ぎる言い回しは咄嗟に呑み込めない。


「なに。どういう、意味」

「そのままだ。弓を引かねば見出せることもあろう」

「誰にも手を上げるなってこと?」

「違う、心構えの喩えを言っている。俺は血生臭い話は一等の好物だが、お前の胸に巣食う物病みを血で洗おうとは思っていない」

「・・・・・・?ちょっと意味が、」

「分からぬか?一方を護ることと他方を憎むこととが必ずしも等しくはないのだ。追い込むな。軽んじるな、見いだせ。退くにも幾通りの道筋があり、進むにも幾通りの道筋があることを」


 深く静かな声が、諭すように少女に降りかかった。梓乃は和泉の言葉に潜む意味を探ろうと眉根を寄せる。さっきまで人をからかっていた奴が何を言っているのだと笑い飛ばすこともできただろうが、言い終わって被衣から顔を出した男の眼差しが妙に底知れぬ。鉛玉が水中を落ちるかのごとき感覚だった。ずしりと重いものが、胸に沈む。


 ――そんなのは、詭弁だ。欺瞞だ。自分には貫けない節理だ。

 幾通りもの道筋があれば苦労などしない。それがないから、窮しているのに。


「・・・・・・参考にさせていただくわ。貴重なご意見どうも有難う」


 つんとすまして梓乃はそっぽを向いた。和泉の苦笑する気配が感じられ、思わずむっとする。殊勝な態度がなりを潜めると、何か腹立たしいわね、と思わず声に出た。


「ていうか、いい加減どこかへ行ってくれない?妖は嫌いなのよ、関わりたくないわ」

「物覚えが悪いな。俺は妖ではないと、」

「産土様でも同じよ。信用したわけじゃないけど、なら社の御霊代にさっさと帰って。何が楽しくてこんな時にあんたなんかとお喋りしなきゃならないのよ」


 梓乃が神社の方角を指差し促す。うっかり話し込んでしまったが、目の前の男とて少女にとって問題なのだ。大前提として人ではない。この点だけでも嫌悪の対象なのに、付き纏ってくるわ人のことを揶揄するわで腹立たしさ倍増である。無才の嘘が皆に知られたとはいえ、和泉と一緒にいるところを本家の者に見られるのも厄介であるし、分家の者に至っては霏霏の文言を真に受けて梓乃を疑ってくるかもしれぬ。万一にもこの土地の産土神を誑し込んだ、などと邪推されては堪ったものではない。朝から迷惑しているのはこっちなのだ。さりとて梓乃の信用は現時点で地に落ちていると想像できるし、弁解が通じる可能性は低かろう。

 少女の力になってやろうという様子でもなし、和泉と行動を共にする利点は皆無だ。


「あたしの嘘がばれたんだから、“駆け”のことはチャラでしょう。こんな逃げ隠れする当主見習いにもう用はないはずよ」

「戯けたことを。お前の選択を見届けるつもりだと言ったことは忘れたか?お前はまだ何一つとして選んでいないぞ」


 紫紺の瞳が矢のように梓乃のそれを射抜く。選べ、と迫りくる産土神の視線だ。

 触発されたのか、少女は堪えられなくなった。


「~~ああそう!選ぶわ、選んでやるわよ!こうなったらやけくそだわ、今すぐ母屋に戻って仕切り直ししてやろうじゃないの!あたしは当主なんかならないもの!あの男のくだらない言いがかりには負けないわ!殺したかったら殺してみなさいってのよ!――何よ・・・・・・!懐かれたくて妖に懐かれてるんじゃないのよ!傷つけたくないって思うことの何がいけないの!こっちは必死で憎んで嫌おうとしてるってのに――・・・・・・!!」


 矢庭に感情が弾け飛ぶ。歯痒く狂おしい思いを梓乃は和泉にぶつけた。押さえていた傷口から溢れる涙は赤い悲鳴をあげて臓腑を濡らしているのだ。この苦しみは誰にもわかるまい。誰がわかるものか。しとどに流れ出て手足を染める血の涙を、誰がわかるものか。

 そうして呼吸荒く、吐き出し足りぬ胸の内を更に曝け出そうと少女は息を吸う。


「あたしは――」


 だが刹那、自身の呼吸音ではない、ひゅ、という音を耳が拾った。


「っ!!」


 風を切り近づく殺気に気付いて、脳髄が警鐘を鳴らす。気取った瞬間の反射で身体を捻り、古木の幹から半歩飛び退いた。


 それと同時であった。

 梓乃がいた場所の樹皮に鋭く突き刺さる、一本の矢。鏃が、枯死した木の表面を生々しく抉っている。刺さってなお殺気を放つそれを、梓乃は言葉無く呆然と見つめた。


「・・・・・・な」

「そら見つかった。お前が大声ばかりを出すからだ。これは俺の助言だが、今母屋に戻るのは得策ではないな。標的がのこのこ現れることほど、間抜けなことはない」


 和泉は軽い調子でそんなことを言った。梓乃が被衣の中を振り返り、ぞくりと背筋を凍らせる。

 産土神の男は、底冷えのする冷酷な表情でひたと矢を見据えていたのだった。


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