継がない
“――死にたくなければ、殺すしかないの。そんなの、どちらも選べないわ”
そう恐れ臆し、自責から目を背ける。
これを弱さと言わず何と言おう。確かに娘は弱かった。これが答えか。待ち続けて幾星霜、娘の性根だけを思えば期待外れでしかなかった。俺に全て託し、あの世へ逝った女を怨みさえした。
選べぬ未来からも、身に余る力からも逃れたかったのだろう。脆い心を守ろうと頑なになるあまり、恐怖を憎しみへとすり替えるような娘だ。敵は数多だった。
だが俺も役目を放るつもりなどない。泣き言ばかり漏らしている猶予もまたない。
幼すぎるこの娘に、俺は無慈悲な生を与えなければならなかった。
放たれた矢が真っ直ぐ娘の腹を貫いた。
血に染まる肌。急追される娘を見やり、俺は瞳を恍惚の色に濡らしていた。そら、逃げるばかりでは命尽きるぞ。高みから唆す。迎え撃て、迎え撃てと。
娘は痛みよりも悔しさに顔を歪め、忍び寄る影の数を数えた。数えて、歯噛みして。
逃げられぬ。手放したくて堪らない力にこれほど雁字搦めにされているのだと、諦念にも似た絶望が過ぎったに違いない。
己の命よりも重いものなど背負う気はなかったのだろう。弱き心が、躊躇わぬわけがあるまい。恐れぬわけがあるまい。
潔く死ぬか、全てを賭して闘うか。二つに一つを、今此処で選ばねばならぬ。
「――案ずるな。思う存分に生き抜いて見せろ。お前の命、俺が請け負ってやる」
俺はふとそう言ってやった。
後に騙された。裏切られたと、そう言って娘が詰る日はいずれ来る。
しかし今ではないのだ。まだ、娘を死なせるわけにはいかなかった。
時の猶予も心の静寂も得られぬ窮地で、選んだ道は果てしなく続く茨のそれ。
娘の決断を、傍らの俺は眇めた眼で見守る。
従容として娘は微笑んだ。腹を貫く矢の痛みは、もはや失せていたようだ。後でじじいにどやされるわね、と本来のじゃじゃ馬らしい軽口もぽつりと零していた。
傾き始めた太陽を遠くに見据え、今日まで逃げるばかりだった足を、一歩、しっかりと娘は前に踏み出したのだった。
◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆
「さて」
年老いた男は、とん、と閉じた扇子で畳を叩いた。そうして、生きた年月の長さなど思わせぬ真っ直ぐな背筋を僅かに崩し、正面に座している少女を睨め付ける。
「稲には、何が実るか」
「米です」
「では蛙の子は何か」
「蛙」
「ふむ。・・・・・・ではこの、退治屋を生業とする由緒正しき秋月家の、当主代理の孫娘が継ぐものとは何じゃ」
「何も糞も、あいにくと私は家業を継がないので」
すこん!と丸出しだった少女の額に、投げられた扇子の角が直撃した。あいてっ!少女は打って変わって情けない悲鳴をあげ、涙目で睨み返す。
・・・・・・くそう。
敢えて“この”忌まわしき痣めがけて投げつけたのは、嫌がらせか当てつけか。
対峙するは、この家で最も権力を有している老翁だ。ゆえに些かこちらの分が悪い。だがしかし。
「じじい!女の顔めがけて飛び道具使うたあ、どういう了見だ!あたしは力技にゃ屈しないわよ!いい加減鬱陶しいのよ、そのスッポンみたいな執念深さ!」
裾を捌いて片膝をついた少女の啖呵は、広々とした居室と、障子の開け放たれた先へ続く前栽に突き抜けた。音量の大きさに驚いて、庭木にとまっていた百舌鳥が飛び去り、ばさりと枝葉が揺れる。
半眼で相手の主張を受け止め、ちらりと転がる扇子を見やった翁が、今度は大袈裟に眉尻を下げた。次いでおもむろに懐から取り出した手拭いで目元を隠し、これ見よがしにさめざめと泣きはじめる。
「よよよ、なんと嘆かわしいことか。いったいどこを育て間違えたのやら、可愛い孫は今日も今日とて強情極まりなし。代々先人より受け継いできた血と誇りを容易く捨てよる。土壇場にもなれば或いは大人しくなるかと期待しておったのに……ああまったく、この糞娘がこの糞娘が」
「てえいっ!」
「あいたっ!」
少女は扇子を手に取り、勢いよく躊躇いなく、翁の生え際の後退した額に投げた。泣き真似もどこへやら、この孫にしてこの爺あり、な声をあげて額を押さえる男である。
「こんの、爺不幸者が!当主代理に向かってなんちゅう狼藉!悪いのは口癖だけでなく手癖まで!今日で十七にもなるというのに、ちっとは成長せんのかっ」
「人のこと言えた義理じゃないでしょうがっ!──とにかく、あたしは何と言われようとも首は縦に振りません。今日の当主会は必要ないと、分家の方々におっしゃって。お帰りになっていただいて!」
立ち上がり小紋の裾を整えると、少女は最後にきっと眼に力を込めて言った。口を開きかけた翁が何かを言い返す前に踵を返し、敷居を跨ぎ居室を出る。板敷が耳障りに軋むのも気にせず、どすどすと怒りに任せ濡れ縁を歩いていった。
「・・・・・・ま、待たんか馬鹿者!この・・・・・・っ、梓乃っ!!」
無論、名を呼ばれようと、とどまる足でもない。
◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆
命あるものもないものも、名を与えられた瞬間に他から支配を受ける。言霊の力は侮れないものだ。
他者から自分の名を呼ばれると、まるで目に見えぬ檻に閉じ込められているかのよう。最も嫌う、“家”という概念を捨てきれない。続かなくてもいいものを、だらだらと続いてきてしまった、一族の歴史の、根源の人をこの名が髣髴とさせる。名親は祖父だったという。あの頑固で融通の利かない爺らしい、無粋なことをしてくれた。
梓乃、梓乃、梓乃。
七つの歳を数えてからずっと、そう呼ばれる度に培われてきた反骨精神は、今や収めどころのない自分の鉾であり、楯でもある。
この名が嫌い。
家の皆が畏む人の、言い伝えを汲んだ、こんな名なんて。まるで人生すべて、自分の全てを家に縛り付けられたかのような気になる。
残念だが、自分は束縛されて喜ぶ性質でもない。もがいて暴れて、徹底抗戦する性質である。自由に、己の幸福を見出す性質である。
だから逆らう。何が何でも、継がぬものは継がないのだ。
しゅるりと腰紐を解き、梓乃は溜め息をついた。脱いだ肌襦袢を衣桁の上に放り投げて、纏めていた髪をほどく。
気持ちよく開かれた障子の外から、少しずつ秋らしくなってきた柔らかい日の光が差し込んで、藺草の香り漂う畳を温めていた。申し訳程度に目隠しの格子衝立を置いただけの開放感のある私室で、あられもない姿になっていると、もし祖父が知った日にはどんな雷が落ちるだろう。
「・・・・・・」
想像しただけで梓乃はげんなりしてしまう。苛々とする気持ちを鎮めるように肺の空気を入れ替えて、どうせ今この家には祖父と自分と住み込みの女使用人、あと犬一匹しかいないのだからと、隠す素振りもなく衝立の奥からひょっこり現れた。
「さてと。じじいにはああ言ったものの、分家の人間がそうそう納得する筈もない。またあたしも空けではない。だが何としても評議は中止させる。敵は手強い支流当主の面々で、是が非でもあたしを次期当主にするつもりだろうけど、そうは問屋が卸さないわ。要は次期当主、その資格なしと判断されればいいのよ。つまり当主会の前に、改めてあたしが何の能力もないと見なされれば」
万事解決である。その意気や良しと梓乃は自身を鼓舞し、箪笥の引出しから道着を引っ張り出す。当主代理、もとい祖父より本日は朝稽古なし、当主会に備え正装すべしとのお達しであったが、てきぱきとした動きに躊躇はない。道衣を纏い、帯を締め、袴の後紐をきゅっと結んで気を引き締める。姿見の前に立つと衿元を摘んで整え、ついと顎を上げた。背に流れる髪を高い位置で纏め直し、左右に振って見せる。名の如く、動く様は馬の尾だ。
「──よし」
姿見を睨む。心なしか今日は、額の痣が色濃く浮かんでいるようだった。くすんだ赤が醜く広がっていて、見るだに気分が悪くなる。
「あたしは、絶対、この家を継がない」
梓乃は口にして、覚悟を決めた。十七になって初めての朝だった。