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第一話 耳のないエルフ

第一話 耳のないエルフ

 冷たく容赦のない風が、見えない刃のように森を切り裂いていた。

 古木のねじれた枝の間を吹き抜ける風は、まるで悲しみの囁きのような音を響かせる。かつて生命に満ちていた葉は、今では静かな嘆きのように垂れ下がっていた。

 森そのものが病に侵された民を憂い、涙を流しているかのようだった。

 灰色の空を背に、一人のエルフが森を駆ける。

 その細身の姿は風のように軽やかだったが、その肩には世界の重みがのしかかっていた。

 深い緑色の瞳は、遥か前方だけを見つめている。

 アルサーは王の兵士たちを置き去りにし、黄金の大扉へと駆け寄った。

 迷うことなく扉を開く。

 部屋の中央に置かれた寝台には、エルフの王妃リナラが横たわっていた。

 数日前から原因不明の病が彼女を蝕み、その姿は見る影もなかった。

 かつて自信に満ちた笑顔で弓の扱いを教えてくれた母。

 初めて狩りへ連れて行ってくれた日のことを、アルサーは思い出す。

 木の根につまずいた彼を見て、彼女は森中に響くほど楽しそうに笑った。

『森を信じなさい、アルサー』

 あの日、母はそう言った。

『森は私を守ってくれたように、あなたも守ってくれるわ』

 だが今、その森でさえ彼女を救うことはできなかった。


宰相エランドールは影の中からアルサーを見守っていた。

 一日中彼を観察していた彼は、若き王子の様子に不穏なものを感じ取っていた。まるで胸の内に嵐を閉じ込めているかのようだった。

 そして夜が訪れた時、エランドールはエルフの森の門付近で怪しい動きを見つける。

 影のように静かに、彼は王子の後を追った。

 アルサーは迷いなく歩みを進める。

 門を越えた先の一歩一歩が、自らの運命へ挑戦する行為のように思えた。

 だが、エルフの領域を出た直後だった。

 不意に誰かの手が彼のフードを掴み、強引に引き止めた。

「どこへ行くつもりだ?」

 エランドールの低い声が、夜の静寂を切り裂く。

 アルサーは振り返った。

 その瞳には怒りと決意が宿っている。

 目の前には厳しい表情の宰相が立っていた。

 まるで越えることのできない城壁のように。

「エランドール……あなたは何百年も父に仕えてきた」

 アルサーは震える声で言った。

「父の結婚も見ただろう。俺が生まれた時も……」

 拳を握り締める。

「そして今、母が死ぬのを黙って見ているつもりなのか!」

「人間の国へ行っても治療法は見つからない」

 エランドールは重く答えた。

「見つかるのは欲望と死だけだ」

「それでも試さなければならない」

「ならば王を説得しろ。王が許可すれば行ける」

 エランドールはフードをさらに強く掴んだ。

 だが次の瞬間、アルサーは身をひるがえし、マントを脱ぎ捨てる。

 残された布だけが宰相の手に残った。

 アルサーは森の奥へと駆け出した。

 振り返ることはない。

 冷たく湿った土を蹴り上げながら、道なき道を進む。

 その先に待つ何かを信じて。

 だが突然、足元の地面が崩れた。

「っ!」

 アルサーは斜面を転げ落ちる。

 岩に打たれ、枝に引き裂かれながら、ようやく止まった。

 美しかった衣服は泥と血に染まっている。

 荒い息を吐きながら立ち上がる。

 立ち止まる時間はなかった。

 この歪んだ沼地を越えれば、人間の街へ辿り着ける。

 その時だった。

 前方に巨大な洞窟が口を開けているのが見えた。

 まるで異世界への入口のように。

 中へ足を踏み入れた瞬間、冷気が背筋を走る。

 闇の中で無数の光が揺れた。

 それは獣の目だった。

 アルサーは息を呑む。

 背中から黄金の弓を取り出し、小さく呪文を唱えた。

 放たれた矢は炎をまとい、洞窟の奥を照らし出す。

 そこにいたのは――

 数十体ものゴブリンだった。

 岩の上に群がり、飢えた笑みを浮かべている。

 甲高い叫び声が響いた。

 次の瞬間、洞窟は戦場へと変わる。

 アルサーは走った。

 しかし進めば進むほど、闇の中から新たなゴブリンが現れる。

 彼は剣を抜いた。

 銀色の刃が一瞬だけ光る。

 そして敵の群れへ飛び込んだ。

 激しい戦いだった。

 牙と爪が四方から襲いかかる。

 アルサーの剣は正確に敵を斬り伏せていく。

 しかし――

 どんな武器にも限界はある。

 乾いた音が響いた。

 ゴブリンの牙を受けた瞬間、剣が砕け散る。

 アルサーは後退し、今度は弓を棍棒のように振り回した。

 疲労。

 痛み。

 そして決意。

 その全てを力に変えて戦う。

 やがて彼の目に出口の光が映った。

「うおおおっ!」

 最後の力を振り絞り、アルサーは洞窟を駆け抜ける。

 朝日が彼を包み込んだ。

 温かな光だった。

 振り返る。

 追ってくるはずのゴブリンたちは、洞窟の闇へと後退していた。

 まるで太陽そのものを恐れているかのように。

 アルサーは荒い息を吐きながら顔の泥を拭う。

 疲れ果てていた。

 それでも生きている。

 彼は遥かな地平線を見つめた。

 旅はまだ始まったばかりだった。

「待っていてください、母上……」

 そう呟き、再び歩き出した。


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