【短編】恋の妙薬
恋というものは、もう少し複雑なものだと思っていた。
単に人と人との間で生まれる惹かれ合う感情ではなく、もっと……特別な感情なのだと思っていた。
そばにいるとなぜか胸がドキドキして、まともに立っていられないほどで。
遠くから何気なく眺めた景色の中に、もしかして君がいるんじゃないかと、目を凝らして。
いつも君のことを想いながら歩いていても、いざ君に会うと頭が真っ白になってしまう。そんなものだと思っていた。
そんないつまでも甘くて、ほろ苦い感情だと思っていた。
だけど。
「これが『恋の妙薬』ってやつだよ」
「恋の妙薬……ですか?」
「うん、この薬を飲んで、一番最初に目に入った人間と恋に落ちるんだってさ」
私の魔法の師匠であり、親しい姉でもあるミリュ姉さんは、そう言いながら小さな薬瓶を持ち上げた。
猫の獣人であるミリュ姉さんは、怒ったりあんな風に考え込んだりすると、耳がぴょこぴょこと動くんだ。
「それって、本当に可能なんですか?」
「さあ、私も詳しいことは何にも……。作るのも初めてだしね」
ミリュ姉さんは椅子を後ろに傾け、小さな薬瓶を天井の光に透かして見ながらそう言った。
「まったく……、またひっくり返りますよ」
私はミリュ姉さんに注意をしたけれど、ミリュ姉さんはそれを聞き流して話を続けた。
「シオンちゃん、恋したことある?」
「な……何ですか、藪から棒に……。そんなことできるわけないじゃないですか。こんな人里離れた場所で」
ミリュ姉さんに付いてここに来てからというもの、はや三年。
ここは人里から馬車に揺られて三日はかかる、人跡稀な深い森の中だ。
錬金術の材料になるものはそれだけたくさん見つかるけれど、それはつまり、話し相手が少ないという意味でもある。
いくら話し相手がいないからといって、木と恋をするわけにもいかないのだから。
「あたしも恋したことないわ」
「何ですか、いきなり……」
「一体、惚れ薬っていうのはどうやって作用するのかな?」
「そりゃ魔法なんですから、どうにかなるんじゃないですか?」
「でもね、魔法がいくら万能の奇跡を形にする術だといっても、論理や法則を無視して何かが起きることなんて、滅多にないのよ」
「どういう意味ですか?」
「記憶転送魔法を例に挙げてみるわね。記憶転送魔法は確かに便利な魔法だけど、欠点が一つあるの」
記憶転送魔法の欠点……? 私は少し悩んでから、自信なさげに口を開いた。
「あまりに高度な魔法だから、扱いが難しいところ……でしょうか?」
「ふふ、もちろんその部分もあるけれど、あたしが求める答えは『ない記憶は転送できない』ってことよ」
「えー、そんなの当たり前ですよ。ない知識をどうやって転送するんですか」
「じゃあ、この惚れ薬は? 愛という知識がないあたしたちにも、通用するのかな? もし通用するなら、ない知識を一瞬で作り出して、おまけにその知識を使って恋に落ちるように仕向けられるってこと?」
「あっ……。うーん……。それは……」
「ほら、分からないでしょう?」
「はい、確かに難しい問題ですね」
「他にもいろいろ疑問点は多いの。果たしてここで言う『愛』は、『慈愛』や『父性愛』、『母性愛』の概念を含むのかしら? それともプラトニックな愛? もしくは男女間の熱い愛?」
やっぱり一流の魔法使いは考えることが違うんだな……と、私は小さく感心した。
「じゃあ、一度試してみなきゃね。ほら、飲んでみて」
やっぱり一流の魔法使いは、考え方が常軌を逸して違うんだな……。私はもう一度、小さく納得した。
「いーやーでーす! なんでそれを私が飲まなきゃいけないんですか! ミリュ姉さんが自分で飲んでくださいよ!」
「えー、弟子入りする時に言ったじゃない。何でもするって」
「いやいやいや、それとは話が別ですよ! さっきどうやって作用するか自分でも分からないって言ったじゃないですか! そんな危険なもの、絶対に飲みたくないです!」
「危険なものじゃないわよ。本にもすごく安全だって書いてあるもの」
「とにかく! 飲みたいなら自分で飲んでください! 私は飲みません!」
「ちぇっ、ケチ」
ミリュ姉さんは本当に最高の師匠でありお姉さんだけれど、こういうところを見ると、その評価を再考すべきじゃないかって、真剣に考えちゃうな。
私は小さく溜息をつき、溜まっていた家事をし始めた。
♣♧♣
時間が経って日が暮れ、私は束の間の余裕ができて、どさっと椅子に座り込んだ。
「うう……疲れた。本当に、家事はやってもやっても終わりがないんだから」
「あ、お疲れ様。はい、コーヒー」
「ありがとうございます、ミリュ姉さん。えっと……その……」
「はいはい、わかってるわよ。ミルクと砂糖でしょ? 全く、お子様なんだから」
「だって苦いんですもんー」
私は文句を言いながら、机に置かれたミルクと砂糖をコーヒーに注ぎ、鼻歌を歌った。
「ふんふんふーん、猫の形にしようっと」
温かいミルクがコーヒーに流れ、形を変える。少し歪んだけれど、これくらいなら猫に見えるだろう。満足、満足!
そうやってコーヒーに描かれた猫を眺めて満足している最中、視線を感じてそっと顔を向けると、ミリュ姉さんがニヤニヤしながら私を見つめていた。
うう……そんなに見られると何だか恥ずかしいな……。
なんだか子供っぽいことしてるみたいじゃない……。
私は恥ずかしさのあまり顔を背け、コーヒーを一口啜った。
猫の顔が半分消えていた。
うう……私の猫が……。
「あ、そうだ。今日の夕飯は……」
再び顔を向けてミリュ姉さんを見ると、彼女は相変わらずニヤニヤしながら私を見つめていた。
「……」
「……」
ニヤニヤ、ニヤニヤ。
いや、あれはどうも微笑んでいるのではなく、笑いを堪えているように見えるのだが。
「……」
「ぷっ」
「何が『ぷっ』なんですか! もう! ここに何か入れましたね!」
「いいえ、何も入れてないわよー?」
「そんなニヤニヤしながら言われても、何の説得力もありませんよ! 本当に! さっきの惚れ薬入れたんでしょう! そうでしょ!」
「違うってばー。ちょっとこっち見て。こっちー」
「あ、見ませんよ! 薬の効果が切れるまで、目隠しして過ごしてやるんだから!」
「えー、でもせっかく飲んだんだから、一度くらいこっち見なさいよ」
「うう……もう!」
「もしかしたら、本当に何も起こらないかもしれないわよ。さっきも言ったけど、愛っていう感情をよく知らないんだから」
「ほ……本当ですか?」
「うんうん! だからだから! 一回だけこっち見てみて!」
「う……うう……」
私はミリュ姉さんの口車に乗せられ、おずおずと目を開けた。
すると、すぐ目の前にミリュ姉さんが飛び込んできた。
ぴょこぴょこ動く耳。さらさらと柔らかそうな髪筋。
光が反射して星のように輝く瞳。そして、ぷっくりとした唇……。
私はドクン……ドクン……。
「……」
「どうしたの? 惚れちゃった?」
「あ……あの……」
「ん? どうしたの?」
「何ともないんですけど」
「えっ?」
「何ともないんですけど……?」
本当に何ともなかった。いつものいたずら好きなミリュ姉さんだった。
ミリュ姉さんはかなりガッカリしたのか、ふーっと溜息をついた。
「うう……シオンちゃんがあたしにしがみついて、ドキドキする感情を抑えきれずに顔を真っ赤に染めながら、『は……恥ずかしいです……』なんてセリフが聞きたかったのに」
「あー! もう、そんなことを期待してたんですか? さっきの惚れ薬の疑問点だの何だのは、全部嘘だったんですか?」
「まあ……ある程度は、そんな気持ちもあったような……なかったような……」
「ひどい!」
ああ、相変わらず困った人だな、ミリュ姉さんは。
♣♧♣
食事を終えてしばらくしたとき、ミリュ姉さんは皿洗いをする私の後ろにぴったり張り付いて、尻尾をゆらゆら揺らしていた。
「本当に何ともないの?」
「はい、本当に何ともありません」
「おかしいな……。確かに本には効果があるって書いてあったのに」
「ふふん。なくて本当に良かったです. だから、もう離れてください。後ろから抱きつかれてると皿洗いしにくいんですから」
「いや、もしかしたらこうすればドキドキするんじゃないかと思って」
「ドキドキしませんから離れてください」
「ひいん……」
ミリュ姉さんは本当にガッカリしたのか、尻尾をぐったりと垂らしたまま、とぼとぼと歩いていった。
「まったく。あんなところさえなければ尊敬できるのに……」
けれど、その瞬間。
『ドクン』
心臓が跳ねた。
「え……あれ? 急に?」
「ん? どうしたの? 急にドキドキした?」
「そ……そんなわけないじゃないですか! 早く研究に戻ってください!」
私はミリュ姉さんに怒鳴るようにして、無理やり話を逸らした。
「ひいん……」
気のせいだろう。私は首を横に振り、今の感情を無理やり振り払おうとした。
「あ……あの、この薬は薬効がどのくらい持続するんですか?」
「ん? 長くても一日? 初めて作るのだからそんなに持続時間は長くないはずよ。……何か気になることでも?」
「ほ……他に誰かに会うかもしれないじゃないですか。それが気になっただけです」
「ひいん……なんであたしには効果がないんだろう」
ミリュ姉さんはそう言ったけれど、私はどうしてもあのドキドキが気になって仕方がなかった。
あれ以来、ときめくような感情は特になかったけれど、「もしや」という気持ちが私の心を捉えていた。
どうしてだろ……。
そばにいても胸がドキドキすることはない。
遠くからふと眺めた景色に、もしかしてあなたがいるのではないかと期待することもない。
そもそも、一日中ミリュ姉さんのことばかり考えているわけでもない。
何か、私が考えていた愛とは少し違う感情だった。
私は胸に手を当てて鼓動を感じてみようとしたが、それほど激しい拍動があるようには感じられなかった。
「うーん……一体何だろう?」
首を傾げて考えてみても、結局、全く見当がつかなかった。
一流の魔法使いであるミリュ姉さんなら、何か分かるだろうか。
いっそこの薬はミリュ姉さんが飲んだ方が良かったのかもしれない。
私は顔を向けて、ミリュ姉さんをじっと見つめた。
一生懸命に、真剣に研究に打ち込む姿が、ひどく格好良く見えた。
「まったく、毎日研究だけしてればいいのに」
「一生懸命な姿に免じて、おやつでも準備してあげようか」
私はふふっと微笑みを浮かべながら、とてとてと食器棚の方へ歩いていった。
「うーん……クッキーを盛り付けるのに、ちょうどいいお皿が……」
背が届かず、下の小さな踏み台に乗って皿を探す。
「うう……見えない……」
背が低いために、戸棚の上の方は爪先立ちをして見上げてもよく見えない。
皿の位置は全部覚えているから……いつもなら手探りですぐに見つけ出すはずだったけれど、今日はなぜか目当ての皿が手に触れなかった。
意識がドキドキすることに集中しているせいだろうか……。
「うう……これ、全部ミリュ姉さんのせいなんだから」
「ん? あたしがどうかしたの?」
「ミ……ミリュ姉さん!?」
瞬間、聞こえるはずのない声に私は飛び上がらんばかりに驚き、勢いよく後ろを振り返った。
それと同時に中心が崩れ、足を踏み外してしまった。
「あ、お……落ちる……っ!」
ガッシャン! 派手な音を立てて崩れる視界。お皿と一緒に、私の体はふわりと宙に浮き上がったような感覚に襲われた。
「う……うう……! あ……あれ? 痛くない……」
「おっと。気をつけなきゃ」
恐る恐る目を開けると、ミリュ姉さんが目に入った。
どうやらミリュ姉さんが、落ちる私を受け止めてくれたようだった。
「今のは、急に声をかけたミリュ姉さんが悪いんですよ」
「えっ? あたしのせいなの?」
ミリュ姉さんは私を抱きかかえたまま、『心外だわ』と言わんばかりの視線を向けてきたが、私は唇を尖らせてむうっと唸った。
ミリュ姉さんが飲ませた惚れ薬さえなければ……。
「でも……」
そしてその瞬間。
「怪我しなくて、本当によかった」
ミリュ姉さんが私を見て、ぱあっと明るく微笑んだその瞬間。
私は愛が何なのか、分かったような気がした。
あ……そういうことか……。
そばにいるとドキドキして動けなくなって。
いつも目であなたを追いかけて。
あなたに会うと頭が真っ白になる。
それが愛の全てではないんだ。
そばにいると安心できて。
いつも目で追いかけなくても、ずっと隣にいてくれると信じられて。
あなたのそばにいられて幸せな。
こういうのが……愛……。
「あら? 顔、赤くなってる」
「は……恥ずかしいです……見ないでください」
「えっ? こ……これ、惚れ薬の効果?」
「う……うう! もう、離してください!」
「嫌よ! このままこの表情撮って、写真で保存しておくんだから!」
「ううう! ダメです! 本当に嫌いになりますよ! 撮ったら承知しませんからね!!」
「あはは、本当、シオンちゃんはめちゃくちゃ可愛いわね、ふふふ」
「あー! もう本当に~~~~!」
♣♧♣
一頻り騒動が過ぎ去った後。私は火照る顔を手で覆いながらミリュ姉さんに言った。
「早く解毒剤をください。本当に。ひどすぎるんだから」
「あはは、ごめん。こんなシオンちゃんの表情は初めて見るから、つい興奮しちゃったわ」
ミリュ姉さんはすっかり上機嫌になったのか、尻尾をゆらゆらと揺らし、耳までぴょこんと立てていた。
「解毒剤も多分この本に載ってるわよ。ちょっとコーヒー飲みながら待ってなさい」
「ふん、早くしてください」
「そんなに拗ねないでよ。あ、あった。惚れ薬、その注意事項と解毒する方法」
「『注意事項一、薬の効能には制限時間があることを念頭に置いて使用してください』」
「『注意事項二、薬を使用する際は相互同意の下で使用してください』」
「く……くふふん……」
「ミリュ姉さん? どうしたんですか? 何か問題でも?」
「な……何でもないよ!」
「『注意事項三、本薬は獣人を対象とした処方です。他種族が使用した場合、効果が薄れる、あるいは発揮されない可能性があります。』」
「…………」
あれ?
「なろう」での初投稿です! 至らぬ点も多いかと思いますが、よろしくお願いします!




