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重病人を癒せ!

 引き続き、マスターの妄想を出力します。

 スラムの奥へ進むほど、空気は重く、湿り気を帯びていった。


 石炭の煤と腐った水の匂いが混ざり合い、鼻の奥にへばりつくような臭気を残す。


 瓦礫の積もる細い路地を抜け、ジャックは迷いのない足取りで一軒の傾いた家の前に立ち止まった。


「ここだ」


 そう言って、彼は壊れかけた木の扉を押し開ける。


 中は暗かった。


 窓は布で塞がれ、昼だというのに部屋は薄闇に沈んでいる。


 湿気を含んだ空気の中に、かすかな血と薬草の匂いが混じっていた。


 部屋の奥には粗末なベッドがあり、その上に一人の女性が横たわっている。


 骨の浮いた頬。色を失った唇。胸は浅く、苦しそうに上下していた。


 ジャックが駆け寄る。


「母さん……!」


 女性はゆっくりと目を開けた。焦点の定まらない瞳が、息子の姿を探すように揺れる。


「ジャック……?」


「俺だよ、母さん。ほら、起きなくていい」


 声をかけるジャックの顔には、必死に押し殺した恐怖が滲んでいた。


 エリスはその様子を横目に見ながら、ベッドへと近づく。


 女性の呼吸は浅い。胸の奥からひゅうひゅうと掠れた音が漏れている。

 体温は低く、手首は紙のように軽かった。


 そのときだった。


 女性が急に体を折るようにして咳き込んだ。


「ごほっ……ごほっ……!」


 激しい咳だ。喉の奥から絞り出されるような苦しげな音。彼女は慌てて口元を押さえた。


 だが。


 指の隙間から、赤いものが滲み出した。


 ぽたり、と。


 床に落ちた血は、やけに鮮やかな色をしていた。


(うわ、血……喀血じゃん)


 エリスの背筋がぞわりと震える。


 女性の手のひらには、真紅の血が広がっていた。布にも、指にも、濃い赤が染み込んでいく。


(これ完全に結核イベントじゃないか……)


 前世の知識が嫌でも浮かび上がる。


 肺結核。労咳。慢性的な衰弱、咳、そして喀血。


(いやいやいや、この世界抗生物質ないだろ!?)


 ジャックが震える声で叫んだ。


「母さん……やめろよ……!」


 女性は弱々しく首を振る。


「ごめんね……ジャック……」


 その声はあまりにか細く、今にも消えてしまいそうだった。


 ジャックは振り返る。必死な目でエリスを見た。


「頼む……!」


 声が掠れている。


「頼む……母さんを助けてくれ……!」


 エリスは黙ってその視線を受け止めた。


 助けられるか。


 分からない。


 だが、試さない理由はなかった。


 彼女はベッドの傍に腰を下ろす。


「大丈夫」


 静かに言った。


「少し診せてください」


 そっと、女性の額に手を当てる。


 その瞬間、胸の奥にある何かが静かに震えた。


 祝福。


 魂の奥に刻まれた、あの力。


 目を閉じ、意識を集中する。


 すると、暖かな感覚が掌から溢れ出した。見えない水が流れるように、柔らかな力が女性の身体へと染み込んでいく。


 荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


 ひゅうひゅうという音が、消えていく。


 痙攣のようだった咳も、ぴたりと止まった。


 女性の胸が、ゆっくりと、穏やかに上下する。


 血の気のなかった頬に、うっすらと色が戻っていった。


(ちょっと待て回復量バグってない?)


 エリスは内心で叫んだ。


(これ完全に病気治癒スキルじゃん)


 結核だぞ。前世の世界でも抗生物質が必要なレベルの感染症だ。それが、こんな数秒で?


(無免許医どころか奇跡枠なんだが!?)


 手のひらの温もりが、ゆっくりと消えていく。


 静寂。


 そして。


 女性のまぶたが、かすかに震えた。


 ゆっくりと、目が開く。


「……ジャック?」


 その声は、さっきまでとは別人のように落ち着いていた。


 ジャックは一瞬、呆然とした。


 次の瞬間、彼はベッドに飛びついた。


「母さん!!」


 細い身体にしがみつく。


「母さん……母さん……!」


 子どもが嗚咽を漏らす。

 女性は戸惑ったように息子を見つめた。


「どうして……?」


 咳は出ない。呼吸も穏やかだ。身体の痛みも、ほとんど消えている。


 理解できないという顔だった。


 ジャックが振り返る。


 そして、エリスを指差した。


「この子が助けてくれたんだ」


 女性の視線がエリスへ向く。


 少女は、少し気まずそうに立っていた。


(いやこれ完全に奇跡扱いされるやつだろ)


 間違いない。

 普通の医療じゃない。


(スラムで噂立ったら絶対面倒なことになるぞ……)


 宗教騒ぎとか、教会とか、怪しい人たちとか。

 絶対ろくなことにならない。


 エリスはそっと咳払いをした。


「しばらく安静にしてください」


 できるだけ落ち着いた声で言う。


「体力はまだ戻っていませんから」


 女性はまだ状況を飲み込めていない様子だったが、小さく頷いた。

 ジャックは母の手を何度も握りしめている。


 その様子を見届けてから、エリスは静かに家を出た。


 外の空気は冷たかった。

 路地には誰もいない。遠くで犬が吠える声だけが響いている。


 しばらくして、扉が開いた。


 ジャックが出てくる。

 彼はエリスの前で立ち止まり、深く頭を下げた。


「ありがとう……」


 声が震えている。

 それから顔を上げた。


「俺……天使を見た」


 エリスは思わず目を瞬いた。


「天使ではありませんよ」


「でも俺は見たんだ」


 ジャックの目は真剣だった。


「母さんが死ぬと思った」


 拳を握る。


「でもあんたが来て……治した」


 少し間を置き、彼は言った。


「だから俺はあんたについていく」


 エリスは眉を上げる。


「……ついてくる?」


「俺、この辺の道は全部知ってる」


 ジャックは胸を張った。


「危ない場所も、誰が仕切ってるかも、全部だ」


 少し照れくさそうに付け加える。


「案内くらいならできる」


(天使は盛りすぎだろ!?)


 エリスは心の中で突っ込んだ。


(でもスラムのナビ役は正直めちゃ助かる)


 この街の地理はまだほとんど分からない。情報もない。

 案内役がいるのは大きい。


 エリスは小さく息をついた。


「……分かりました」


 ジャックの顔がぱっと明るくなる。


「本当か!?」


「ただし」


 エリスは指を一本立てた。


「危ないことはしません」


「……ああ」


「それから」


 少しだけ微笑む。


「あなたの母親を心配させることも」


 ジャックは一瞬黙った。


 そして小さく頷いた。


「……分かった」


 二人は並んで歩き出す。


 灰色の街の、さらに奥へ。


 その頃。


 スラムの片隅では、小さな噂が生まれ始めていた。


 労咳の女が治った。


 死にかけていたはずの女が、突然起き上がった。


 そして。


 そこにいたのは、一人の少女だったと。


 まだ誰も知らない。

 その噂が、やがてこの街でこう呼ばれることを。


 ――貧民街の聖女。


 評価やブックマークをして頂けると、本作品のネタであるマスターの妄想がはかどる傾向にあります。

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