自由になれた気がした厨二の夜
引き続き、マスターの妄想を出力します。
夜の孤児院は、昼とはまるで別の場所のようだった。
古びた建物は静まり返り、廊下に並ぶ粗末な寝台からは子供たちの寝息だけが聞こえてくる。
窓の外では、遠くで蒸気機関の汽笛がかすかに響いていた。
エリスは足音を忍ばせながら裏口へ向かう。
冷たい床板の感触が伝わる。ほんの少しの軋みがやけに大きく聞こえて、彼女は何度も足を止めた。
(いやいやいや……このスニーキング感、完全に脱出イベントだろ)
内心でそんなことを考えながら、扉に手をかける。
ギィ、と古い蝶番がわずかに鳴いた。
エリスは息を止めた。
だが、誰も起きない。
静寂。
ゆっくりと外へ出る。
夜気が肌を撫でた。冷たいが、どこか油の匂いを含んだ空気だった。孤児院の裏庭には、月明かりが淡く落ちている。
扉を静かに閉めると、エリスは振り返った。
古びた孤児院の建物が、闇の中に黒い塊のように立っている。
ほんの少し前まで、そこが自分の寝床だった。
だが胸の奥に、未練のようなものはほとんど浮かばない。
(……まあ、戻る場所じゃないよな)
あの院長の顔を思い出す。
血走った目。意味不明の言葉。見えない何かと会話する姿。
ぞっとする。
(病んでる経営者が運営する孤児院に留まるほど、俺のメンタル強くないからな)
エリスは小さく息を吐くと、背を向けた。
石畳の道を歩き出す。
やがて孤児院の敷地を離れると、街の光が広がってきた。
煙突。
巨大な工場の影。
空を覆う煤煙。
夜だというのに、街は眠っていない。
蒸気の噴き出す音があちこちで響き、鉄の軋みと機械の唸りが低く街を満たしている。遠くでは列車の汽笛も聞こえた。
石畳の通りにはまだ人がいる。
煤で黒ずんだ顔の労働者たちが、肩を落として歩いていた。
酒場の扉が開く。
中から笑い声と罵声が混じった喧騒が流れ出る。
酔客がふらつきながら通りへ出てきた。
誰かが怒鳴る。
誰かが笑う。
鉄と煙と酒の匂い。
エリスはその光景をしばらく見上げていた。
(……うわ)
短い感想。
(想像以上に工業革命ど真ん中だな)
煙突から吐き出される黒煙が、夜空に重く漂っている。
月はかすみ、空は灰色だった。
グレイヘイヴン。
灰の港。
その名の通りの街だった。
(孤児院脱出イベント完了)
エリスは内心で呟く。
(で、ここからどうすんだ俺……)
十二歳の少女の身体。
金なし、家なし、保護者なし。
条件はなかなかハードだ。
(スラム生活スタートとか難易度高すぎだろ)
だが、立ち止まっても何も始まらない。エリスは街の奥へ歩き出した。
通りを進むにつれて、街の様子が少しずつ変わっていく。
工場が増えた。
巨大な鉄骨の建物。
窓から漏れる黄色い灯り。
中ではまだ機械が動いているのか、低い振動が地面から伝わってくる。
蒸気が噴き出した。
シューッという音と共に、白い霧が夜の空気へ広がる。
油の匂い。
煤。
鉄。
エリスは鼻をひくつかせた。
(くっさ)
思わず内心で言う。
通りを歩く人々の顔は疲れきっていた。
煤に汚れた服。油で黒ずんだ手。
誰もが無言で歩いている。
その中で、怒鳴り声が上がった。
「ふざけんな!」
通りの端で男二人が掴み合いになっている。
酒臭い息を吐きながら殴り合いを始めた。
周囲の人間は止めない。
ちらりと見るだけで、誰も関わらず通り過ぎていく。
拳が顔にめり込む。
血が飛ぶ。
それでも誰も止めない。
エリスは小さく眉をひそめた。
(完全にディストピアだろこの街)
工業文明。
蒸気機関。
鉄道。
それなのに治安は最悪だ。
(近代文明なのに治安が中世レベルじゃねぇか)
通りをさらに進む。
やがて街灯の数が減り始めた。
石造りの建物は崩れ、壁は黒く汚れている。
窓ガラスの割れた家も目立つ。
道も狭くなった。
路地が増える。
暗い。
さっきまで聞こえていた工場の音も遠くなり、代わりに別の音が聞こえてくる。
咳。
子供の泣き声。
遠くの怒鳴り声。
エリスは足を止めた。
目の前の通りは、もう完全に雰囲気が違う。
灯りがほとんどない。
建物は崩れ、木の板で塞がれた窓が並んでいる。
地面にはゴミが散乱していた。
どこかで猫が鳴く。
(……ここが)
エリスは静かに呟いた。
(スラムか)
誰に聞いたわけでもない。
だが直感でわかった。
ここから先は、街の裏側だ。
路地へ足を踏み入れる。
空気が変わった。
湿っている。
腐臭が混じっている。
エリスが歩くと、暗闇の奥で人影が動いた。
男が壁にもたれて座っている。
顔は見えない。
こちらをじっと見ている。
別の路地の奥では、子供が二人しゃがみ込んで何かを分けていた。パンの欠片かもしれない。
視線。
警戒。
エリスはその視線を感じながら歩いた。
(完全にアウェー)
新参者は目立つ。
特にこの見た目だ。
煤と泥の街の中で、エリスの銀髪と白い顔はやたらと浮いている。
(いや、この外見でスラム突入とか難易度高すぎだろ)
だが戻るわけにもいかない。
路地の奥へ進む。
壊れた家が並んでいる。
屋根の落ちた建物。
壁の崩れた建物。
そして。
人が住んでいない家も多い。
エリスは足を止めた。
廃屋だ。
窓が板で塞がれている。
扉も半分壊れている。
だが屋根は残っている。
(……なるほど)
エリスは少し考えた。
(つまりここ)
視線をぐるりと回す。
同じような家が何軒もある。
(空き家ガチャし放題ってことか?)
内心でそう呟いた。
(ホームレス生活よりはマシだな)
エリスはゆっくりとその廃屋へ近づいた。
扉は簡単に開いた。
中は暗い。
だが月明かりが窓から差し込んでいる。
埃。
壊れた椅子。
床に散らばる木片。
だが、雨は防げそうだった。
エリスは部屋の中央で立ち止まる。
耳を澄ます。
人の気配はない。
しばらく待つ。
静かだ。
(……いけるな)
エリスは部屋の中を歩き回った。
奥に小さな部屋がある。
そこなら通りから見えない。
彼女は外へ出て、周囲を探した。
壊れた木箱。
布切れ。
それを抱えて戻る。
床の隅に布を敷く。
木箱を横に置く。
即席の寝床。
粗末だが、屋根はある。
雨は防げる。壁もある。
エリスはその上に腰を下ろした。
小さく息を吐く。
(拠点確保イベント成功)
内心でそう呟く。
そして天井を見上げた。
壊れた屋根の隙間から、灰色の空が見える。
遠くで蒸気機関の音が鳴った。
(……さて)
エリスは横になった。
布は硬い。
だが孤児院のベッドと大差ない。
(次は食料クエストだな……)
目を閉じる。
疲れが一気に押し寄せた。
夜は深い。
スラムのどこかで怒鳴り声が響く。
そして。
やがて夜が明ける。
薄暗い路地の向こうから――
怒号が聞こえた。
「このクソガキ!」
鈍い音。
拳が肉を打つ音。
誰かが殴られている。
エリスは目を開いた。
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