事案ですよ?
引き続き、マスターの妄想を出力します。
その夜の食堂は、まるで葬式のように静まり返っていた。
子供たちは長いテーブルに並んで座っている。だが、誰も喋らない。スプーンが皿に触れる小さな音だけが、やけに大きく響いていた。
原因は分かりきっている。
部屋の奥、院長用の椅子。
そこに座る男。
孤児院の院長だ。
机の上には酒瓶。中身は半分以上減っている。いや、すでに二本目かもしれない。鼻を刺すような強い匂いが食堂まで流れ込んでいた。
「……ちっ」
院長が舌打ちした。
それだけで、数人の子供がびくりと肩を跳ねさせる。
(うわ、完全に地雷原だなこれ)
エリスはスープを口に運びながら、視線だけをそっと向けた。
院長の顔は真っ赤だった。目は濁り、焦点が合っていない。だが、ただ酔っているという感じではない。
妙に落ち着きがなかった。
院長は誰もいない空間を睨んでいる。
「……うるさい」
ぼそりと呟いた。
子供たちは顔を上げない。だが、何人かの肩が震えた。
院長はさらに眉をしかめる。
「黙れって言ってるだろ……」
今度ははっきり聞こえる声だった。
しかし。
食堂には院長に話しかけている者など誰もいない。
(……誰と喋ってんだ)
エリスはスプーンを止めた。
院長は空中を睨んでいる。
まるでそこに誰かがいるみたいに。
「違う……俺じゃない……」
ぶつぶつと呟く。
その声は震えていた。
「黙れ……!」
突然、院長が机を叩いた。
ドン、と鈍い音。
皿が揺れ、スープがこぼれる。
子供たちはびくりと肩をすくめた。
(いや何それ怖い)
院長は額を押さえている。
「聞こえるんだよ……」
掠れた声。
「やめろ……やめろって……」
酒のせいだけではない。
何かがおかしい。
院長の目が、ぎらりと光った。
そして。
視線がゆっくりと動いた。
食堂を舐めるように見渡す。
子供たちは目を伏せている。
誰も視線を合わせない。
その中で――。
エリスと、目が合った。
(あ)
完全に。
院長の目が細くなる。
じっと見つめてくる。
やがて、院長の口元が歪んだ。
「……ああ」
何かに納得したような声。
「そうか」
院長はゆっくり立ち上がった。
ふらつく足取り。
だが、その目はエリスから離れない。
「お前か」
低い声。
子供たちの空気が凍った。
「おい」
院長が指を上げる。
まっすぐエリスを指した。
「お前」
にやり、と歪んだ笑み。
「……あとで来い」
食堂の空気がさらに冷えた。
子供たちの視線が一斉にエリスへ集まる。
誰も何も言わない。
ただ、皆、分かっている顔をしていた。
(いや絶対ろくな用事じゃないだろこれ……)
エリスはスープを飲み込む。
(フラグ立ってる気しかしないんだが)
院長は満足したように酒瓶をあおった。
だが、エリスの食欲は完全に消えていた。
◆◇◆
夜。
院長室の扉の前で、エリスは立ち止まっていた。
廊下は暗い。古いランプがぼんやり灯っているだけだ。壁の向こうからは、酒瓶が転がる音と、何かをぶつける音が聞こえてくる。
それに混じって――。
「違う……俺じゃない……」
院長の声。
「やめろ……来るな……」
何かに怯えるような声だった。
(帰りたい)
率直な感想だった。
(いや、ここ家だけどさ)
前世でも嫌な上司の部屋に呼び出されることはあったが、ここまで嫌な予感がすることはなかった。
(うわ最悪のパターン来た!)
扉の向こうから声がした。
「……来たのか」
低い声。
逃げ道はない。
(この世界、治安終わってない?)
エリスは小さく息を吐き、扉を押した。
ギィ、と軋む音。
院長室の空気はむっとするほど酒臭かった。床には空き瓶。机の上も散らかり放題だ。
そして。
椅子の前で立っている院長。
その目。
おかしかった。
焦点が合っていない。だが同時に、何かを睨んでいる。
エリスではない。
その――後ろを。
「……そこにいるんだろ」
院長が呟いた。
誰もいない壁を見つめながら。
「黙れ……!」
突然、怒鳴る。
そして。
ゆっくり、エリスを見る。
「……ああ」
口元が歪む。
「お前だ」
一歩。
院長が近づく。
「お前が連れてきたんだろ」
意味不明な言葉だった。
エリスは警戒して距離を取る。
(いや知らんが)
院長の顔が近づく。
「なんか、隠してるだろ」
酒臭い息。
「……いい顔してるじゃねぇか」
手が伸びる。
そして。
ガシッ。
腕を掴まれた。
「っ!」
力が強い。
子供の腕など簡単に拘束される。
院長の目は狂気に染まっていた。
「お前を……」
掠れた声。
「お前を……」
(うわあああああ)
頭の中で警報が鳴る。
(最悪のパターン来た!)
◆◇◆
恐怖。
身体が凍る。
院長の手が肩へ伸びる。
その瞬間。
エリスの中で何かが弾けた。
(やめろ)
思考より先に、感情が動いた。
(来るな)
そして――。
(イマジナリー・フォース!!)
桃色の光が、ぶわりと生まれた。
エリスの掌から、強い輝きが満ち溢れる。
院長の胸を強く押す。
その瞬間。
バシュン!
院長の体がビクリと震えた。
「……っ?」
ピタリと止まる。
次の瞬間。
「……は?」
院長の目の焦点が戻った。
ぎらつきが消える。
代わりに浮かんだのは――困惑だった。
「な、何を……」
院長は自分の手を見る。
エリスの腕を掴んでいることに気付く。
顔が青ざめた。
「俺は……」
手が離れる。
「何をしていた……?」
狼狽。
本気の混乱だった。
エリスは数歩後ろへ下がる。
(え、止まった?)
さっきまでの狂気は完全に消えていた。
院長は頭を抱えている。
「なんだ……今の……」
震える声。
(いやでも今の絶対オレのチート関係ないだろ……?)
エリスの脳内では、未だに結論が出ていなかった。
◆◇◆
エリスは院長室を飛び出した。
廊下を走る。
心臓がうるさい。
(……無理だ)
結論は早かった。
(ここにはもういられない)
院長の顔が頭に浮かぶ。
さっき正気に戻ったとはいえ、安心できるとは思えない。
むしろ。
(次はもっと最悪なパターンありそう)
(詰んだ……完全に詰んだ)
遠くで蒸気機関の汽笛が鳴る。
(孤児院ルート、強制終了のお知らせ。次はどこで生き延びればいいんだよ……)
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