何かが来る
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エレノアの瞳が、細められた。
それまで愉悦に満ちていた視線が、まるで獲物ではない何かを見つけた獣のように鋭く変わる。
宙に浮いた身体が微かに揺れ、その周囲に満ちていた圧力が一瞬だけ不安定に波打った。
「……何かが来る」
低く、押し殺した声だった。
先ほどまでの余裕はない。むしろ、聞き慣れない種類の警戒が滲んでいる。
リチャードは壁に押し付けられたまま、その変化に息を呑んだ。
悪魔が、警戒している。
あり得ないはずの光景だった。ここは完全に支配された領域。
祈りすら届かず、外界から隔絶された閉鎖空間。その支配者が、外に何かを感じ取っている。
エレノアの視線は、閉ざされた扉の向こうへ固定されていた。
まるで壁も扉も存在しないかのように、そのさらに外側――領域の境界を越えた何かを見据えている。
エドワードもまた、動けないままその視線を追った。
祈りが通じない空間で、神に縋ることすら許されないまま、ただ「それ」を見ているしかない。
喉の奥に残る祈りの残滓は、すでに言葉の形を失い、ただ冷たい塊となって沈んでいた。
それでも、目だけは逸らせない。
「……ふざけるな」
ぽつりと漏れたその言葉は、明らかに独り言だった。
「この領域は閉じている。干渉は不可能だ。内も外も、すべては私の掌の上にあるはずだ!」
自分に言い聞かせるように呟きながら、その声がわずかに歪む。
次の瞬間、ぎろりとリチャードを睨みつけた。
「お前、一体何を呼んだ!」
怒声だった。
先ほどまでの余裕は消え、剥き出しの苛立ちが叩きつけられる。
だがその声音には、先ほどまでの絶対的な支配者の余裕がなかった。むしろ、苛立ちの奥に焦燥が混じっている。
エレノアの指先が、空中でぴくりと動く。
空間がきしむ。
未知なる存在の到来を拒絶するために力を練り上げたのだ。
領域そのものを締め上げるように、見えない圧力がさらに強まった。
壁が軋み、床が沈み、空気が粘つく。
扉を固く封印し、ナニかの侵入を拒む。
外から来る何かを、押し潰そうとしている。
だが――
ぎぃ、と。
鈍い音が、部屋の奥から響いた。
リチャードの視線が、わずかに動く。
閉じられていたはずの扉。
外界と断絶したはずの唯一の境界が、ゆっくりと、ほんのわずかに開いていた。
あり得ない。
この空間は閉じている。鍵など意味を持たない。悪しき力の支配下にあるはずだ。
それなのに。
ぎ、ぎぃ、と。
扉はまるで何事もないかのように、少しずつ開いていく。
「止まれ⋯⋯!」
エレノアの声が低く落ちた。
空間が、さらに圧縮される。
見えない力が扉に押し付けられ、侵入を拒絶する。だが――
それでも扉は止まらない。
きしむ音を立てながら、確実に開いていく。
「……馬鹿な」
初めて、その声に動揺が混じった。
支配が効かない。
否。
効いているはずの支配を、まるで存在しないかのように無視している。
やがて、扉の隙間から空気が流れ込んだ。
冷たい夜気。
微かに香る煤と鉄の匂い。
現実の匂いだった。
異界に閉じ込められていたはずの空間へ、外の世界が入り込んでくる。
リチャードは息を呑む。
エドワードもまた、わずかに目を見開いた。
肺に流れ込んだ空気は、先ほどまでの重苦しいものとは違う。
確かに外界のものだ。祈りが届かぬこの場所に、別の何かが侵入している。
それが何かは分からない。
だが――閉まっていたはずの扉が、動いた。
その事実だけが、かすかな震えとなって胸の奥に広がる。
そして。
扉の向こうに、影が立った。
小柄な影。
だがその輪郭は、闇の力に覆われたこの場所にはあまりにも不釣り合いだった。
銀の光が、わずかに揺れる。
長い髪。
淡い色の瞳。
人間離れした整った輪郭。
まるで宗教画から抜け出してきたような、現実感の薄い存在。
エドワードの視界が、その姿に釘付けになる。
言葉は出ない。
祈りも出ない。
ただ、その存在を認識した瞬間、胸の奥で何かがわずかに揺れた。
信仰とも、確信ともつかない、曖昧な何かが。
「……なんだ」
エレノアの唇が、かすかに動く。
「お前は……なんだ」
それは問いであり、同時に本能的な拒絶だった。
理解できない。
認識できない。
それでも確かに、そこに“いる”。
少女は、静かに一歩を踏み出した。
床を踏む、かすかな音。
それだけで、空間が揺れた。
そして、訪れし少女⋯⋯エリスは、
(リ、リアルすぎる悪魔っ子……!?)
内心で大いに慄いていた。
(いやいやいや、聞いてない! こんなガチなやつ出てくるの!? もっとこう、テンプレの悪魔っ子って可愛い感じじゃないの!?)
目の前の光景は、完全にホラーだった。
宙に浮く令嬢。歪んだ関節。重なり合う声。空間そのものが軋む異様な気配。
(ようやく出てきたファンタジー要素が邪悪すぎる……!)
だが。
外面は、一切揺れない。
淡い蒼の瞳は静かに状況を見据え、呼吸も乱さず、ただ一歩ずつ進む。
まるで恐怖など存在しないかのように。
部屋の中へ。
異界の中心へ。
完全に足を踏み入れた、その瞬間。
ぴしり、と。
何かが軋んだ。
見えないはずの“支配”に、微細なひびが入る。
エレノアの身体が、わずかに揺れた。
「……っ」
初めて、明確な警戒がその顔に浮かぶ。
距離を測るように、ほんのわずかに高度を上げる。
リチャードは言葉を失った。
エドワードもまた、同じように。
ただ、見ている。
銀髪の少女を。
この絶望の中へ、何事もなく踏み込んできた異質な存在を。
空気が、変わった。
支配はまだそこにある。
圧倒的な力も、絶望も、何一つ消えてはいない。
それでも。
ほんのわずかに。
確かに。
何かが、揺らいだ。
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