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顕現せし悪魔

引き続き、マスターの妄想を出力します。

ブックマークや評価をしてくださった皆さま、ありがとうございます。

 エドワードの祈りは、確かに言葉としては紡がれていた。


 だがそれは天へ昇る前に、寝室を満たす重苦しい闇へ沈み込み、泥に落ちた石のように跡形もなく呑まれていく。


「主よ、どうか――」


 再び声を張ろうとした彼の喉が、そこで不自然に詰まった。


 空気が重い。いや、重いというより、祈りだけを狙って押し潰している。

 そんな悪意じみた感触があった。


 ベッドの上のエレノアが、くつくつと喉を鳴らす。


「それで届くと思っているのか」


 少女の声帯から出ているはずなのに、その響きは低く濁り、ひとつの声に聞こえなかった。

 男とも女ともつかない音が幾重にも重なり、部屋の壁からも床からも同じ嘲笑が返ってくる。


 リチャードは歯を食いしばり、震える唇で祈りの文句を追った。


 信じてこなかった神に、いまさら縋る。滑稽だと自分でも分かっている。それでも、娘のためなら貴族の矜持も理性も、もう何一つ惜しくなかった。


「神よ……どうか、エレノアを……」


 その瞬間、空気が沈んだ。


 部屋全体が一拍遅れて水底に沈み込んだように、耳が詰まり、肺の中の息が急に冷たくなる。

 エドワードの祈りの後半は言葉にならず、ぐにゃりと歪んで消えた。


 エレノアの身体が、音もなくわずかに浮いた。


 シーツがふわりと離れ、華奢な身体が数インチ、現実から切り離される。

 長い金髪が重力を忘れたように浮き上がり、その口元だけがにたりと持ち上がった。


 神父の背筋を、冷たいものが走る。


 祈りが効いていない。そんな段階ではもうない。祈りそのものが、この空間では拒絶されている。


「……っ、負けるものか」


 エドワードは半ば自分に言い聞かせるように、胸元の十字を握りしめた。

 額から汗が落ちる。視界の端で燭台の炎が細く揺れ、まるで見えない呼気に怯えるように縮こまる。


「主は我らを――」


「見捨てません、とでも言うつもりか?」


 悪魔は優しく遮った。その声色だけは妙に穏やかで、余計にぞっとする。


「弟を失ったお前の母も、そう願ったのではなかったか。祈りは届かずにお前の母は自ら命を絶った。あの時、お前は何歳だった?」


 エドワードの顔色が変わった。


 喉がひゅっと鳴る。祈りの続きが出ない。出せない。


 リチャードが息を呑む。そんなことは、この屋敷の誰も知らない。教会の記録にすら残っていないはずの、神父個人の傷だ。


「やめろ……!」


 絞り出すような叫びと同時に、エドワードの集中が切れた。


 祈りが、完全に途切れる。


 その一瞬を待っていたかのように、エレノアの瞳の奥で何かが愉快そうに揺れた。


「そうだ、それでいい。祈りは人間が自分を騙すための儀式にすぎない」


 次いで、その視線がリチャードへ向く。


 灰色の瞳と、青い瞳がぶつかる。

 いや、見られたと思った瞬間にはもう遅かった。

 頭蓋の内側をぬるりと撫でられるような感触が走り、リチャードは思わず奥歯を噛みしめた。


「なるほど。まだ希望があると考えているのか。スラムの聖女⋯⋯」


 悪魔は楽しげに囁く。


「新たな贄だ」


「違う……!」


 叫びは、途中で途切れた。


 見えない何かに胸を殴られたような衝撃が走り、次の瞬間、リチャードの身体は横へ吹き飛んでいた。


 背中から壁へ叩きつけられ、鈍い音が寝室に響く。


 遅れてエドワードも反対側の壁へ縫い留められ、肺の空気をすべて吐き出した。


「が……っ!」


 腕が上がらない。喉に圧がかかり、呼吸のたびに肋が軋む。

 何かに押さえつけられているというより、部屋そのものが二人を壁へ押し込んでいる。


 ベッドの上で、エレノアの身体がさらに高く浮き上がった。


 足先が垂れ、指先が小さく痙攣する。関節が嫌な角度に曲がり、首がかくりと横へ傾く。


 その姿は令嬢のものではなく、壊れかけた人形に別の何かが無理やり入っているようだった。


 悪魔は宙に浮いたまま、二人を見下ろした。


「ガブリエルが間に合わなくて残念だったな?」


 その名に、エドワードがびくりと震える。


「……なぜ、それを」


「知っているさ。お前たちの願いも、希望も、無駄な算段も。ここではすべて聞こえる」


 エレノアの唇が裂けるように笑う。


「奴が見るのは祓魔の成功ではない。お前たちの死体だ」


 宣告は静かで、だからこそ残酷だった。


 リチャードは壁に押しつけられたまま、娘の名を呼ぼうとした。


 だが声にならない。視線の先でエレノアの瞳が一瞬だけ揺れる。


 助けを求めるような、かすかな色。まだ中に娘がいる。だからこそ、余計に地獄だった。


 部屋が、軋み始めた。


 天井の装飾がびりびりと振動し、窓硝子に白い亀裂が走る。


 床板は沈み、壁紙の模様がどろりと溶けるように歪む。

 寝室だったはずの空間が、少しずつ別の法則に塗り替えられていく。


 外の音は、もう何も聞こえない。


 屋敷の中にいるはずなのに、世界から切り離された孤島みたいだ。

 いや、孤島というより檻だろう。しかも鍵を持っているのは向こう側だ。最悪すぎる。


 リチャードは血のにじむほど拳を握った。


「私を……私を代償にしろ!」


 喉が潰れそうな圧の中で、それでも叫ぶ。


「エレノアではなく、私を持っていけ! この家の罪を背負うのは私だ!」


 悪魔は一瞬、愉悦に目を細めた。


「美しい父性愛だ。感動的ですらある」


 その口調に、心底ぞっとする。


「だが無意味だ。契約は既に履行中だ」


 その一言が、刃のように落ちた。


「供物は定められた。清らかで、柔らかく、壊しがいのある器。お前ではない」


 リチャードの顔から血の気が引く。


 不可逆。もう差し替えも、取引も、懇願も通じない。その事実が、言葉より先に絶望として胃の底へ落ちた。


 ぎぃ、と重い音がした。


 寝室の扉が、誰も触れていないのにゆっくりと閉じていく。廊下から漏れていた細い光が、線になり、針になり、最後には完全に消えた。


 閉ざされた。


 外界との断絶が、これ以上ないほど明確になる。


 エドワードは唇を震わせながら、それでも掠れた声で祈ろうとした。

 だが聖句はもう言葉の形を保てず、口からこぼれた瞬間に黒い水へ落ちるように沈んでいく。


 悪魔はその様子を飽きもせず眺め、ふと顔を上げた。


 笑みが止まる。


 初めて、何かを聞き逃さぬように耳を澄ます獣のような気配を発した。


「……何だ?」


 その一言に、部屋の空気がわずかに揺れる。


 リチャードもエドワードも動けないまま、ただ悪魔の視線を追った。閉ざされた扉の向こう。領域の外。ここではないどこかから、確かに何かが近づいてくる。


 悪魔の顔に、ほんの一滴だけだが、動揺が落ちた。


「何だ……この気配は?」

評価やブックマークを頂けると、マスターの妄想生成効率が向上する傾向があります。

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