待てない祈り
引き続き、マスターの妄想を出力します。
走り去っていく馬車の背を、リチャードは無言で見送っていた。
石畳を叩く車輪の音が、次第に遠ざかっていく。やがてそれすらも消え、辺りには不自然なほどの静寂が残った。
風は吹いている。だが音がない。
屋敷の前に広がる空気は、どこか“止まって”いるように感じられた。
――妙だ。
そう思った瞬間だった。
「伯爵」
背後から、落ち着いた声がかかる。
振り返ると、玄関前に一人の男が立っていた。
黒衣の神父――エドワードだった。
「令嬢のご様子が気がかりでして。お許しも得ずに参ってしまいました」
穏やかな口調。だが、その目にはわずかな緊張が滲んでいる。
リチャードは短く頷いた。
「……構わん」
それだけを返し、再び屋敷へと視線を向ける。
「それと――ガブリエル神父も、明日には到着する見込みです」
明日。
その言葉は、あまりにも遠かった。
「……そうか」
短く返した、その時。
――ぞわり、と。
屋敷の奥から、何かが“流れ出る”。
目に見えない“圧”が、空気を満たし、胸の奥を内側から押し潰す。
重い。
ただ立っているだけで、膝を折りたくなるような圧迫感。
「……っ」
エドワードが息を呑む。
その表情に、明確な動揺が走った。
初めてだった。
彼が“異常”を、感覚として受け取ったのは。
リチャードは何も言わない。ただ静かに踵を返し、屋敷の中へと歩み出す。
逃げるという選択肢は、最初から存在していなかった。
扉をくぐった瞬間、空気が変わる。
重さが一段、増した。
肺に入る空気が、粘りつくように重い。
廊下に並ぶ使用人たちは、誰もが青ざめていた。
「……旦那様……これ以上は……」
一人が声を震わせる。
その視線の先――エレノアの寝室へと続く廊下の奥。
そこだけが、異様に濃い。
まるで空間が沈んでいるかのように、光すら吸い込まれている。
廊下の奥からは得体のしれない囁き声が聞こえてくる。
リチャードは一歩踏み出す。
足が、重い。
前へ出すだけで、何かに押し返されるような感覚。
胸の奥に、得体の知れない恐怖が込み上げる。
だが。
止まらない。
一歩。
また一歩。
見えない圧に抗いながら、無理やり身体を前へ押し出す。
エドワードも続く。
額に汗が滲む。
呼吸が浅くなる。
それでも、退くことはできない。
近づくほどに、囁きが濃くなる。
複数の声が重なり、意味のない言葉を紡ぐ。
だがその音は、確かに“何か”を伝えようとしている。
理解できないだけで。
やがて、寝室の扉の前に辿り着く。
そこには、明確な“拒絶”があった。
目に見えない圧力が、侵入を拒んでいる。
だが。
リチャードは躊躇わない。
震える手で扉に触れ、押す。
重い。
まるで向こう側から押し返されているかのようだ。
それでも、力を込めて――開いた。
室内に足を踏み入れた瞬間、世界が断絶される。
音が消える。
空気が止まる。
そこは、屋敷の中でありながら、完全に別の空間だった。
中央のベッド。
エレノアが横たわっている。
静かに。
あまりにも静かに。
その“静けさ”が、逆に異様だった。
「……お父様」
声が、落ちた。
ゆっくりと目が開く。
青い瞳。
だが、その奥にあるものは、もはや娘のものではない。
「遅かったですね」
口元が歪む。
その瞬間。
――弾けた。
エレノアの身体が、跳ね上がる。
背が、不自然に反る。
骨の限界を無視した角度で。
腕が折れ曲がる。
関節の可動域を逸脱して。
骨が軋む音が、はっきりと響く。
同時に――
室内が震えた。
椅子が跳ねる。
棚が軋む。
窓が激しく鳴る。
空間そのものが、見えない力に掴まれたように揺れ始める。
「――ぁ、ああああああああ!!」
悲鳴。
エレノア自身の声。
「やめて……お母様……助けて……!」
確かに、そこにいる。
まだ、彼女は残っている。
だが――
「無駄だよ」
低く、別の声が重なる。
嘲るように。
楽しむように。
身体がさらに歪む。
操り人形のように、無理やり捻じられていく。
リチャードの顔色が変わる。
エドワードも、理解する。
このままでは――壊れる。
「……頼む」
リチャードが、絞り出すように言った。
「娘を、救ってくれ……!」
その声は、貴族の威厳を完全に捨てた、ただの父のものだった。
そして――語る。
決して口にしてはならなかった、一族の罪を。
「我がアシュクロフト家は……かつて、悪魔と契約を交わした」
静かに。
だが逃げることなく。
「繁栄と引き換えに――最も清らかな子を、捧げるという契約だ」
エドワードの表情が凍る。
リチャードは続ける。
「私は、それを迷信だと切り捨てた。過去の愚かな伝承だと……信じなかった」
拳を握る。
「だが違った。これは……現実だ」
視線が、娘へと向けられる。
「この子が、その“供物”だというのなら……!」
声が震える。
それでも言い切る。
「私が代わる! 命でも何でも差し出す! だから――娘だけは、助けてくれ……!」
懇願だった。
完全な。
エドワードは目を閉じる。
理解している。
本来ならば、ガブリエルを、待つべきだ。
だが――
間に合わない。
確信があった。
「……主よ」
祈りを紡ぐ。
「天に在します我らの父よ、願わくは御名を崇めさせ給え」
震える声。
だが止めない。
「御国を来たらせ給え。御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」
空間が軋む。
それでも続ける。
「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え――!」
リチャードも続く。
「どうか……どうか娘を……!」
その祈りに応じるように。
――笑った。
「遅いよ」
低く、はっきりと。
エレノアの口が、歪む。
同時に、揺れが激化する。
祈りが、押し潰される。
主導権は、完全に奪われた。
そして。
エレノアの目が、ゆっくりと見開かれる。
その奥に宿るものは。
もはや、人ではなかった。
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