スラムの聖女
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夕刻のスラムは、昼間の喧騒をわずかに残しながらも、どこか沈んだ色を帯びていた。
空を覆う煤煙が光を濁らせ、すべてを灰色に染めている。
その中で、エリスの診療所だけは例外だった。
「次の方、どうぞ」
簡素な木製のベッドの傍らで、エリスは静かに声をかける。
疲労に顔を歪めた労働者が恐る恐る腰を下ろし、差し出した腕に彼女がそっと触れた。
触れた瞬間、男の表情が緩む。
痛みが引いていくのが分かるのだろう。周囲で見守っていた者たちが、安堵と期待を混ぜた視線を向けていた。
(はい今日も無免許医フル稼働中っと……)
内心で軽口を叩きつつ、エリスは次の患者へと手を伸ばす。
いつも通りの光景。
いつも通りの流れ。
――のはずだった。
「……おい、エリス」
低い声で呼ばれ、エリスは顔を上げた。
診療所の入口近くに立つジャックが、珍しく落ち着かない様子で周囲を見回している。いつもなら人の流れや危険に敏感な彼だが、その視線は明らかに“何か”を探していた。
「どうしたの?」
「……変だ」
短く、だがはっきりと告げる。
「人の動きが、いつもと違う」
言われてみれば、ざわつきがある。
列を作っていた住民たちの視線が、診療所ではなく別の方向へと向いている。遠くの方で人が避けるように動き、空気がじわじわと張り詰めていく。
その時、誰かが小声で言った。
「……来たらしい」
別の誰かが応じる。
「本当に……?」
「入口の方だ。馬車が……」
ざわめきが、波のように広がる。
(馬車? こんなとこに?)
スラムに馬車が来ること自体は珍しくない。だが、その声音には明らかな違和感が混じっていた。
やがて、はっきりとした言葉が落ちる。
「……貴族だ」
その一言で、空気が凍りついた。
人々が無意識に距離を取り、道を空け始める。視線には恐れと警戒、そして諦めにも似た色が浮かんでいた。
ジャックが舌打ちする。
「チッ……面倒なのが来たな」
「貴族って、そんなにまずいの?」
「まずいどころじゃねぇよ」
低く吐き捨てる。
「ここに来るってことは、ろくな用じゃねぇ」
その目が細くなる。
「関わるな。あいつらは、平気で全部持ってく」
(いや偏見強すぎない?)
とは思うものの、この街で育った彼の言葉には現実味があった。
そして――
その“異物”は、すぐに姿を現した。
煤と泥にまみれた道を、黒塗りの高級馬車がゆっくりと進んでくる。場違いなほどに磨かれた車体が、灰色の世界の中で異様な存在感を放っていた。
人々が自然と道を開ける。
誰も、近づこうとしない。
馬車はそのまま診療所の前で止まった。
静寂が落ちる。
御者が扉を開き、そして――
一人の女性が降り立った。
整えられた金の髪。上質な衣服。だがその表情は、貴族のそれとはかけ離れていた。
焦燥と、切迫。
そして――決意。
マーガレットは一瞬、周囲の空気に押されるように足を止めた。だがすぐに顔を上げ、まっすぐ前を見据える。
その視線の先に、診療所。
そして――エリスがいる。
ジャックが一歩前に出た。
「用はなんだ」
鋭く、牽制する。
マーガレットは一瞬だけ彼を見るが、すぐに首を振る。
「……聖女を、探しています」
その一言に、空気が揺れた。
視線が一斉にエリスへ向く。
(うわ、完全にオレ指名じゃん……)
エリスは小さく息を吐き、静かに前へ出た。
「……そのように呼ばれている者なら、私です」
落ち着いた声で、しかし控えめに答える。
マーガレットの視線が、彼女に向く。
そして――
止まった。
言葉を失ったように、ただ見つめる。
銀の髪。淡い蒼の瞳。煤煙の中でも曇らないその存在感は、まるでこの場所に属していないかのようだった。
わずかに、息が震える。
「……ああ」
掠れた声が漏れる。
確信だった。
理屈ではない。だが、理解してしまう。
この少女なら――
次の瞬間。
マーガレットは深く頭を下げた。
「娘を……助けてください」
その声は、祈りそのものだった。
診療所の中に通されると、空気が一変する。外のざわめきは遠ざかり、代わりに張り詰めた静寂が満ちていた。
簡素な椅子に座るマーガレットは、手を強く握りしめている。
「娘が……おかしいのです」
ぽつりと、語り始めた。
「最初は、ただの体調不良だと思っていました。ですが……」
言葉が途切れる。
思い出すだけで、恐怖が蘇るのだろう。
「医者にも診せました。ですが、原因は分からないと……」
呼吸が浅くなる。
「それどころか……あの子は」
震える声。
「知らないはずのことを知っているのです。人の心を読むように……」
沈黙。
(あー……)
エリスは内心で腕を組んだ。
(重症だなこれ)
症状だけ聞けば完全にアウトだ。精神系か、あるいは脳の異常か。
(いやでもこれ、ブラックジャック案件では?)
むしろ燃える。
高難易度。
希少ケース。
そして――
(たぶん高額案件)
ジャックが横から低く言う。
「やめとけ」
短いが、はっきりした拒否。
「絶対まともな話じゃねぇ」
エリスはちらりと彼を見る。
確かに危険な匂いはする。だが――
「大丈夫。診るだけなら」
静かに答える。
その声は、揺らがない。
マーガレットが顔を上げた。
「本当……ですか?」
「ええ」
頷く。
「まずは、状況を確認します」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の表情が崩れた。
安堵と焦燥が混じる。
「すぐに……来ていただけますか」
間髪入れずに、そう続ける。
「時間が……ありません」
その一言に、空気が重く沈んだ。
(時間制限ありか……)
エリスは一瞬だけ考える。
だが、答えはすぐに出た。
「分かりました」
立ち上がる。
その瞬間、ジャックが舌打ちした。
「……チッ」
苛立ちを隠さない声。
「行く気かよ、本気で」
「うん」
あっさりと答える。
ジャックは数秒、エリスを睨むように見た。
やがて、大きく息を吐く。
「……一人で行かせるわけねぇだろ」
ぶっきらぼうに言い捨てた。
「どう見てもヤバい話だ。お前だけで行くとか、ありえねぇ」
その目は真剣だった。
エリスは一瞬だけきょとんとし、それから小さく笑う。
(あ、これ完全に保護者モード入ってるな)
「ありがとう」
素直にそう言うと、ジャックは不機嫌そうに顔を逸らした。
「礼とかいらねぇよ」
外に出ると、馬車がすぐに目に入った。
煤に覆われた街の中で、それはやはり異質だった。
エリスとジャックは乗り込み、扉が閉まる。
すぐに、馬車が動き出した。
車輪の音が、石畳を叩く。
スラムの風景が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
粗末な家々、煤けた人々、灰色の空。
それが少しずつ、変わっていく。
マーガレットは向かいに座り、再び口を開いた。
「娘は……エレノアといいます」
静かな声。
「最近になって、急に様子がおかしくなり……」
語られる内容は、どれも異常だった。
言動の変化。
知るはずのない知識。
そして――
「……悪魔に、取り憑かれているのではないかと」
その言葉に、エリスは一瞬だけ目を瞬かせた。
(いやいやいや)
即座に、内心で否定する。
(悪魔とかないない)
そんなもの、現実にあるはずがない。
――ただし。
(……でも症状はヤバいなこれ)
否定しきれない何かも、確かにあった。
それでも。
(まあ、なんとかなるでしょ)
楽観は崩れない。
むしろ、燃える。
難しいほど、面白い。
ジャックは無言で窓の外を見ていた。
その表情は硬い。
スラムが遠ざかり、街の様子が変わっていくのを、ただ黙って見つめている。
灰の街は続く。
だがその先には、別の世界がある。
そして――
その先で待つものは。
(……なんかイベント始まったなこれ)
エリスは小さく息を吐いた。
まだ知らない。
それが、ただの医療案件ではないことを。
ただ一つだけ、確かなのは――
時間が、残されていないということだった。
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