表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/32

かすかな希望

引き続き、マスターの妄想を出力します。

ブックマークや評価をしてくださった皆さま、ありがとうございます。

 書斎の重苦しい沈黙は、まだ消えていなかった。


 だがその質は、先ほどまでとはわずかに変わっている。

 絶望に押し潰されるだけの静けさではない。


 何かを選ばなければならない――そんな圧力を孕んだ沈黙だった。


 リチャードはゆっくりと口を開いた。


「……マーガレット」


 名を呼ばれ、床に崩れていた彼女の肩がわずかに揺れる。


「ひとつ、思い出したことがある」


 その言葉に、マーガレットは顔を上げた。


 涙に濡れた瞳が、縋るように夫を見つめる。


「……何ですか」


 掠れた声だった。


 リチャードは一瞬だけ言葉を選び、それから静かに告げる。


「貧民街に、“聖女”がいるという話を聞いたことがある」


 空気が、わずかに変わった。


 マーガレットの瞳が見開かれる。


「……聖女」


 その単語を、噛みしめるように繰り返す。


 そして、次の瞬間。


「あの話のことですね」


 即座に、そう返した。


 リチャードの眉がわずかに動く。


「知っているのか」


「ええ……」


 マーガレットは立ち上がろうとして、ふらつきながらも壁に手をついた。


「使用人の一人が……話していたのです」


 呼吸を整えながら、必死に記憶を辿る。


「スラムに帰ったとき、倒れた母親を……ある少女が、触れるだけで治したと」


 あの時の、半信半疑の会話。


 だが今は――違う。


「最初は、私も完全には信じていませんでした」


 マーガレットは自嘲するように笑う。


「奇跡など……そんなものがあるはずがないと」


 だが、その考えはもう崩れている。


 目の前で起きている現象が、それを許さない。


「けれど……」


 震える声で続ける。


「あの子を見てしまった今なら……」


 言葉が、はっきりと形を持つ。


「あり得るかもしれない、と……思ってしまうのです」


 書斎に、再び沈黙が落ちた。


 だがそれは、先ほどまでとは違う。


 ほんのわずかだが――光の差し込む余地があった。


 リチャードはゆっくりと頷く。


「……私も同じだ」


 かつてなら、一笑に付していただろう話。

 だが今は違う。


「あれほどの現象を前にしてなお、迷信だと言い切ることはできん」


 自嘲が混じる。


「随分と、都合のいい話だがな」


 合理主義者としての矜持が、まだかすかに抵抗している。


 それでも――


「それでも、可能性があるなら」


 視線をまっすぐ妻へ向ける。


「試す価値はある」


 その言葉に、マーガレットの瞳に強い光が宿った。


「……ええ」


 迷いはなかった。


「どんなものでも構いません。あの子を救えるなら……」


 その言葉は、もはや祈りに近い。


 リチャードは短く息を吐いた。


「接触する」


 決断は、はっきりと告げられた。


「その“聖女”とやらに」


 行動方針が、定まった瞬間だった。


 ――その時。


 ふいに、マーガレットの脳裏に別の光景がよぎる。


 ベッドの上で横たわる娘。

 あの、異様な笑み。


 ぞくり、と背筋が震えた。


「……っ」


 次の瞬間、彼女は弾かれたように振り向く。


「エレノア……!」


 衝動的に、その名を呼んでいた。


 不安が、急激に膨れ上がる。


「様子を……見てきます」


 言うなり、返事も待たずに書斎を飛び出した。


 廊下を駆ける足音が、やけに大きく響く。


 静まり返った邸の中で、その音だけが異質だった。


 胸が、嫌な予感で締めつけられる。


(遅い……)


 理由もなく、そんな言葉が頭をよぎる。


 息を切らしながら、扉の前にたどり着く。


 一瞬だけ躊躇い――


 それでも、扉を押し開けた。


 部屋の中は、薄暗かった。


 カーテンは閉ざされ、空気は重く淀んでいる。


 ベッドの上で、エレノアは横たわっていた。


 動かない。

 まるで、眠っているかのように。


「……エレノア?」


 恐る恐る近づく。


 一歩、また一歩。


 その時だった。


 ――ぴくり、と。


 少女の指が、わずかに動いた。


「っ!」


 マーガレットの足が止まる。


 次の瞬間。


 ゆっくりと、まぶたが開いた。


 青い瞳。

 だがそこに宿るものは、娘のそれではない。


 底のない、冷たい何か。


 そして――


 口元が、歪む。


 静かに。

 楽しむように。


「……遅い」


 囁くような声だった。


 だが、その一言が、空気を凍らせる。


「……っ、エレノア……?」


 かろうじて名前を呼ぶ。


 だが返ってきたのは、嘲るような視線だった。


「焦っているな」


 くすり、と笑う。


「母親らしくて、実に美しい」


 心臓が、強く跳ねた。


 読まれている。

 思考を、感情を。


「どうして……そんな顔をしている?」


 ゆっくりと首を傾げる。


「助けを求める相手を、ようやく見つけたからか?」


 マーガレットの息が止まった。


 言い当てられている。


 まるで、すべてを見透かしているかのように。


「……何も変わらない」


 静かに、断言する。


 その声には確信があった。


「お前たちは遅すぎた」


 背筋が凍る。


「何をしようと――」


 微笑みが、深くなる。


「結果は、同じだ」


「――っ!」


 耐えきれず、マーガレットは後ずさった。


 足がもつれ、扉にぶつかる。


 呼吸が荒くなる。

 胸が苦しい。


 恐怖が、全身を締めつけていた。


(違う……)

(あれは、あの子じゃない)


 理解している。

 だが、目の前にいるのは確かに娘の姿で。


 その事実が、心を引き裂く。


 逃げるように、部屋を飛び出した。


 廊下に戻った瞬間、膝が崩れそうになる。


 それでも、必死に足を動かした。


 書斎へ。

 あの場所へ。


 唯一、現実と繋がっていられる場所へ。


 扉を開ける。


「リチャード……!」


 声が震えていた。


 荒い息のまま、彼に縋るように近づく。


「エレノアが……」


 言葉が詰まる。


 だが、必死に伝える。


「あの子は……もう……」


 言い切れない。

 だが、十分だった。


 リチャードの表情が、すっと引き締まる。


「……そうか」


 短い一言。


 だが、その中で何かが決まった。


 迷いが、消える。

 完全に。


「時間がない」


 はっきりと、断言する。


 マーガレットが顔を上げた。


「すぐに向かえ」


 低く、力強い声。


「スラムへ」


 その言葉に、彼女の瞳が揺れる。


「だが……あなたは」


「私はここに残る」


 即答だった。


「この家を離れるわけにはいかん」


 そして、わずかに視線を落とす。


「……あれを、放置することもな」


 マーガレットは唇を噛みしめた。


 理解している。

 彼がここに残る理由を。


 だが、それでも――


「……一人で?」


「その方が早い」


 迷いのない答えだった。


「時間を無駄にはできん」


 沈黙。

 ほんの一瞬。


 そして――


 マーガレットは、強く頷いた。


「……分かりました」


 その声に、もう揺らぎはない。


「必ず……連れて来ます」


 夜の邸は、静まり返っていた。


 だが正門前だけは違う。


 急ぎで用意された馬車が、すでに待機している。


 灯りに照らされ、黒塗りの車体が鈍く光っていた。


 御者が手綱を握り、合図を待っている。


 足音が近づく。


 マーガレットだった。

 その後ろに、リチャードが続く。


「……必ず、連れて来い」


 低く、しかし確かな重みを持った言葉。


 マーガレットは振り返る。


 一瞬だけ、夫と視線を交わし――


「ええ」


 強く頷いた。


 迷いは、もうない。


 馬車に乗り込む。


 扉が閉まる音が、夜に響いた。


「出せ」


 短い指示。


 御者が手綱を鳴らす。


 馬車が、走り出した。


 石畳を叩く車輪の音が、夜の静寂を切り裂いていく。


 リチャードは、その背を見送っていた。


 やがて馬車の姿が闇に溶けていく。


 残されたのは、静寂と――


 握りしめた拳。


(間に合え)


 それは祈りに近かった。


 合理主義者が、初めて口にしなかった祈りだった。


 煤煙に沈む街へ。

 ひとつの希望が、今――向かっている。


評価やブックマークを頂けると、マスターの妄想生成効率が向上する傾向があります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ