憑依の真実
アシュクロフト邸の寝室は、厚いカーテンに閉ざされ、昼であるはずの時間でも薄暗かった。
外の曇天の光がわずかに布地を透かし、灰色の気配だけが部屋の奥へ滲んでいる。
ベッドの傍らで、マーガレット・アシュクロフトは静かに娘の手を握っていた。
エレノアの身体は、まるで人形のように動かない。
胸はかすかに上下しているが、その眠りはあまりにも深く、呼びかけに反応することは一度もなかった。
「エレノア……」
母はそっと娘の頬に触れる。
その指先が止まった。
頬に、薄い傷がある。
昨日まではなかったはずのものだ。さらに視線を落とすと、腕や首元にも細かな痣が増えている。
まるで――誰かが、夜の間に傷つけたかのように。
「どうして……」
震える声が漏れた。
その瞬間だった。
「――娘を助けたいのか」
低い男の声が、部屋の静寂を裂いた。
マーガレットの身体が凍りつく。
ゆっくりと視線を上げる。
ベッドの上。
昏睡したままのエレノアの唇が、わずかに動いていた。
「そなたの願いはよく分かる」
少女の顔のまま、娘ではない声が続く。
「母の愛というものだな。実に美しい」
「……やめて」
かすれた声で、マーガレットは呟いた。
震える手で娘の肩を揺さぶる。
「エレノア、目を覚まして。お願い……」
だが、少女の瞼は閉じたままだ。
代わりに、口元がゆっくりと歪んだ。
眠ったままの顔で――笑った。
「哀れな母親だ」
マーガレットは息を呑んだ。
「理解できぬか」
エレノアの口が、静かに動く。
「これは契約だ」
部屋の空気が凍る。
「アシュクロフト家との契約だ」
マーガレットの思考が止まった。
意味が、理解できない。
理解したくない。
「……嘘」
声が震える。
「そんなもの、あるはずが……」
彼女はベッドへ身を乗り出し、娘の身体を強く抱きしめた。
「エレノアは誰にも渡さない……!」
震える声で祈りの言葉を紡ぐ。
「神よ、どうかこの子を――」
くつくつと、低い笑い声がエレノアの喉から漏れた。
「祈るのか」
その声には、露骨な嘲りが混じっている。
「今さら神に?」
マーガレットの腕の中で、少女の唇が動き続ける。
「お前たちの一族は、とうに選んでいる」
静かな声が語る。
「繁栄の代価として、最も清らかな子を差し出す」
マーガレットの背筋に、冷たいものが走った。
「それが契約だ」
「……やめて」
「歴代の当主はそれを知っていた」
少女の口が淡々と語る。
「血と共に受け継がれる約束だ」
マーガレットの視界が揺れた。
そんなことがあるはずがない。
この家は名誉ある貴族だ。
神に仕え、王に忠誠を誓う家系だ。
なのに。
「そして今……」
エレノアの唇が動く。
「この娘が選ばれた」
母の腕の中で、少女の身体は微動だにしない。
「器として」
その言葉が、部屋の空気を完全に凍らせた。
次の瞬間。
エレノアの喉から、低い哄笑が溢れた。
少女の身体から発せられているとは思えない、不気味な笑い声だった。
マーガレットは耐えきれず、娘を離した。
後ずさる。
頭が真っ白になる。
「……そんな……」
笑い声が背後から追いかけてくる。
母は逃げ出した。
扉を開け放ち、廊下へ飛び出す。
邸の廊下は静まり返っていた。
厚い絨毯が足音を吸い込み、広い空間に自分の荒い呼吸だけが響く。
壁に手をつき、マーガレットは肩で息をした。
涙が頬を伝う。
「どうして……」
娘を守れなかった。
あの子はあんな場所で、あんなものに――
胸の奥から、怒りが湧き上がる。
そして、ある疑問が浮かんだ。
「……リチャード」
震える声で呟く。
「あなたは……知っていたの?」
足が自然と動いた。
廊下の奥。
書斎の扉の前に立つ。
そして――
強く叩いた。
重い音が邸に響く。
「リチャード!」
もう一度叩く。
「開けてください!」
しばらくして、扉が開いた。
現れたリチャード・アシュクロフトは、突然の来訪に眉をひそめていた。
「マーガレット? どうした――」
言葉が止まる。
妻の顔は涙で濡れ、恐怖と怒りに歪んでいた。
マーガレットは震える声で言った。
「あなた……」
拳を握りしめる。
「この家は……、アシュクロフト家は……、悪魔と契約したの?」
沈黙が落ちた。
リチャードは言葉を失った。
その表情が、すべてを物語っていた。




