あれは確かに存在していた
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馬車はゆっくりと街道を進んでいた。
石畳を外れた道はところどころ土が露出し、車輪が小さく軋む。
曇り空の下、灰色の雲が低く垂れこめ、遠くの丘陵まで同じ色に染めていた。
ガブリエル・ローデンは、揺れる座席に深く腰を預けている。
外套の裾を整え、杖を膝の横に立てかけたまま、無言で窓の外を見ていた。
グレイヘイヴンへ向かう街道。
旅はまだ始まったばかりだ。
「旦那、グレイヘイヴンへ行くのは初めてですか?」
御者が振り返らずに声をかけてきた。年季の入った声だった。
馬の手綱を握りながら、いかにも道中の退屈を紛らわせたい様子である。
ガブリエルは短く答えた。
「いいえ。昔、少し」
「ほう」
御者は感心したように唸る。
「最近のグレイヘイヴンは、なかなか妙な街でしてね」
馬車が大きく揺れた。
車輪が小石を踏み、乾いた音が街道に響く。
「妙な街、ですか」
「ええ。工場がどんどん増えてましてな。煙突が空を真っ黒にしちまう。港も鉄道も広がるばかりで、働き口は増えましたが――」
御者は肩をすくめる。
「その分、貧乏人も増えました」
窓の外には丘と森が続いている。
だが御者の語る街の姿は、すでに別の世界のようだった。
「貧民街はどんどん広がるし、最近は病気も流行っているそうで」
「……」
ガブリエルは黙って聞いていた。
こうした話は珍しくない。
工業都市の発展は、必ず同じ影を生む。
煙。
貧困。
病気。
人間の世界は昔からそういうものだ。
御者は続けた。
「で、最近は妙な噂もありましてね」
少し声を潜める。
「スラムに、奇跡を起こす少女がいるとか」
ガブリエルの眉が、ほんのわずかに動いた。
だがそれだけだった。
「奇跡、ですか」
「ええ。触れるだけで病が治るとか」
御者は笑う。
「まあ、与太話でしょうが」
ガブリエルは静かに答える。
「それは医者でしょう」
「いやぁ、それが違うらしいんです」
御者は手綱を操りながら首を振った。
「医者でも薬でもない。手を触れるだけで治るって話でして」
「……」
「しかも、天使みたいな子だとか」
ガブリエルは窓の外へ視線を向けた。
丘の向こうに、雲の影がゆっくりと流れている。
奇跡。
そんなものは、まず存在しない。
ガブリエルはそれをよく知っている。
悪魔はいる。
だが――奇跡は滅多に起きない。
人は奇跡という言葉を、あまりに軽く使う。
馬車はしばらく無言のまま進んだ。
◇◆◇◆◇◆
その日の夕方。
ガブリエルは宿場町の小さな宿に泊まっていた。
粗末だが清潔な食堂で、簡単な夕食を取っている。
パンと煮込み。
それから薄い葡萄酒。
質素な旅人の食事だった。
食事の合間、ガブリエルは依頼書を取り出す。
紙は何度も折り直され、すでに端が少し擦れていた。
アシュクロフト伯爵家。
悪魔憑きの疑い。
正式審査なし。
枢機卿個人の依頼。
ガブリエルは紙を静かに読み返す。
こうした依頼の多くは、実際には悪魔とは関係がない。
精神の病。
家庭の問題。
あるいは単なる迷信。
祓魔師として働いていた頃、そういう事例は数えきれないほど見てきた。
祈祷を行い、聖水を振り、
そして結局は――医者に任せる。
それが大半だった。
だが、ごく稀に例外に遭遇する。
ガブリエルの視線が下がる。
右足。
杖の横に置かれた脚は、微かに硬く動きが鈍い。
この傷は嘘ではない。
あの日の少年も。
あの声も。
あれは確かに存在していた。
悪魔はいる。
それだけは否定できない。
だが。
(奇跡など……)
ガブリエルは葡萄酒を一口飲んだ。
(まず起きない)
◇◆◇◆◇◆
数日後。
馬車は再び長い街道を進んでいた。
丘陵と森が続く退屈な道。
雲は相変わらず低く、空は鈍い灰色をしている。
御者が振り返らずに言った。
「グレイヘイヴンまでは、あと数日ですな」
ガブリエルは短く頷く。
「そうですか」
都市はまだ見えない。
だが確実に近づいている。
煙の街。
灰の港。
グレイヘイヴン。
ガブリエルは外套を少し深く引き寄せ、背を預けた。
目を閉じる。
(奇跡など、まず起きない)
それでも。
ほんのわずかだけ。
もし。
もしも。
神がまだ世界を見ているのなら――
ガブリエルは何も言わなかった。
馬車の車輪が街道を軋ませながら回り続ける。
旅は、少しずつ、終わりに近づいていた。
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