悪魔を知る者
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小さな礼拝堂だった。
石造りの壁は古く、色の褪せた聖画がいくつも掛けられている。高い窓から差し込む夕暮れの光が細い帯となって床を照らし、祭壇の前に長い影を落としていた。
その影の中で、一人の男が膝をついて祈っている。
ガブリエル・ローデン。
かつて聖務局で悪魔祓いを担当していた祓魔師であり、今は地方の小さな教会で静かな日々を送っている男だった。
祈りは静かだった。
だがその背中には、どこか疲れた影がある。
やがて祈りを終え、ゆっくり立ち上がる。
その瞬間、右足に鈍い痛みが走った。
「……」
ガブリエルはわずかに顔をしかめ、近くに立てかけてあった杖へ手を伸ばす。
乾いた音が石床に響いた。
この足は、もう元には戻らない。
悪魔祓いの現場で負った傷だ。
神は癒さなかった。
(……神、か)
ガブリエルは祭壇の十字架を見上げる。
その眼差しにあるのは、信仰というより、どこか苦い感情だった。
「あなたは本当に……見ておられるのですか」
小さく呟いた、その時だった。
礼拝堂の扉が控えめに叩かれる。
「失礼します、ローデン神父」
若い修道士が顔を覗かせた。
「教区から使いが来ています。枢機卿からのお手紙です」
差し出された封書には、教区枢機卿の封蝋が押されている。
ガブリエルはそれを受け取り、ゆっくり封を切った。
短い依頼書だった。
目を通す。
そして小さく息を吐く。
「……アシュクロフト伯爵家」
低く呟く。
紙には、こう書かれていた。
――悪魔憑きの疑いあり。
ただし本件は正式審査を経ていない。
枢機卿としてではなく、私個人の要請として調査を頼みたい。
至急対応されたし。
ガブリエルは数秒、紙を見つめていた。
正式な悪魔祓いには、調査委員会と審査が必要だ。
枢機卿がそれを飛ばして依頼するなど、本来あり得ない。
つまりこれは――
教会の命令ではない。
枢機卿個人の頼み事だった。
ガブリエルはゆっくり椅子へ腰を下ろす。
そして呟く。
「……まだ、私を呼ぶのですか」
封書に向けた言葉ではなかった。
ガブリエルは顔を上げ、祭壇の十字架を見つめる。
「……神よ」
礼拝堂は静まり返っていた。
◇◆◇◆◇◆
封書は机の上に置かれていた。
ガブリエルは再び祭壇の前に立つ。
祈るためだった。
だが――祈りの言葉は出てこない。
脳裏に、ある光景が蘇る。
数年前の苦い記憶。
忘れようとしても、決して消えない光景。
荒れた教会。
崩れた長椅子。
血の匂い。
そして。
少年。
十二、三歳ほどの少年だった。
身体を縄で拘束され、祭壇の前に座らされている。
その周囲を数人の神父が取り囲んでいた。
「主の御名において命ずる」
ガブリエルが祈祷書を掲げる。
「汝、穢れし霊よ――」
その時だった。
少年の首が、不自然に傾いた。
骨が鳴る。
嫌な音だった。
そして少年がゆっくり顔を上げる。
目は濁っている。
だが口元は笑っていた。
「ガブリエル」
低い声だった。
子供の声ではない。
濁った別の声。
「お前の母は死ぬ前、神に祈っていたな」
ガブリエルの呼吸が止まる。
「だが神は助けなかった」
周囲の神父たちがざわめく。
少年は楽しそうに続けた。
「この神父は賭博好きだ」
「そっちは娼婦通い」
次々と、神父たちの秘密を言い当てる。
礼拝堂の空気が凍りつく。
ガブリエルは歯を食いしばり、叫んだ。
「神に背きし者よ! 名を名乗れ!」
少年の笑みが深くなる。
「神なんぞいない」
その瞬間だった。
少年の身体が、あり得ない角度に折れ曲がる。
骨が砕ける音。
肉が裂ける音。
そして――
爆発するような力。
ガブリエルの身体が宙を舞った。
背中から壁に叩きつけられる。
視界が白く弾けた。
遠くで、少年の笑い声が響く。
「神なんぞいない」
◇◆◇◆◇◆
過去の記憶から回帰する。
窓の外はすでに夜へ沈みかけていた。
ガブリエルは杖を握る手を見下ろした。
わずかに震えている。
机の上には依頼書。
アシュクロフト伯爵家。
悪魔憑き。
ガブリエルはそれを手に取る。
紙がかすかに軋む。
そして再び祭壇の前へ戻った。
十字架を見上げる。
長い沈黙。
やがて静かに口を開いた。
「もし」
低い声だった。
「もし、あなたが本当におられるのなら」
礼拝堂は静まり返っている。
答えはない。
それでもガブリエルは続けた。
「……兆しをお示しください」
それは祈りというより、ほとんど呟きだった。
沈黙が落ちる。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
やがてガブリエルは小さく息を吐き、立ち上がった。
「……馬鹿な願いだ」
自嘲するように呟く。
そして振り返る。
外套を手に取り、杖を握る。
神がいようと、いまいと。
やることは同じだ。
扉へ向かって歩き出す。
その背後で礼拝堂の鐘が小さく鳴った。
遠く離れた灰の港――
グレイヘイヴンへ向かう旅が、今、始まろうとしていた。
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