母の決意
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夜が明ける。
朝の光は差しているのに、アシュクロフト邸の空気は夜よりも重かった。
マーガレットはほとんど眠れないまま、娘の寝室の扉を押し開けた。胸の奥に重石を抱えたような感覚が消えない。昨夜の影、あの声――思い出すだけで背筋が冷える。
ベッドの上では、エレノアが眠っていた。
だがそれは、穏やかな眠りとは言えない。頬は青白く、唇の色も薄い。呼吸は浅く、胸がかすかに上下するたびに、今にも途切れてしまいそうだった。
「……エレノア」
マーガレットはそっと呼びかける。
反応はない。
指先で娘の頬に触れると、冷たかった。高熱のはずなのに、皮膚の奥が冷えきっているような奇妙な感触だった。
後ろに控えていた使用人の一人が、怯えた声で言う。
「お嬢様は……夜の間も、ずっとこのままで……」
マーガレットは小さく頷いた。
娘の手を取る。力は入っていない。だが――。
その口元が、ゆっくりと歪んだ。
眠ったままの顔なのに、微笑んでいる。
マーガレットの背筋を、氷のようなものが走った。
そして。
エレノアの唇が、ゆっくりと開く。
「母親とは……実に愚かなものだ」
低い男の声だった。
寝室の空気が一瞬で凍りつく。
使用人の一人が小さく悲鳴を漏らし、別の者はその場で膝をついた。
マーガレットだけは動かなかった。娘の手を握ったまま、必死に息を整える。
「……あなたは、誰です」
震える声で問う。
答えはすぐに返ってきた。
「なんだと思う?」
くつくつ、と喉の奥で笑う気配。
「神よ……どうか」
だが祈りは途中で止まる。
エレノアの口元の笑みが、さらに深くなったからだ。
その笑みを見た瞬間、マーガレットの胸に絶望が浮かぶ。
これは娘ではない。
――娘の身体を使っている、何かだ。
エレノアの寝室を出たあと、マーガレットは廊下で立ち止まった。
足が震えている。
遠くで、エレノアの寝室の扉が軋む音がした。
振り返れない。
振り返ったら、何かがこちらを見ている気がした。
長い沈黙のあと、近くに控えていた使用人に言う。
「……馬車を出しなさい」
使用人が戸惑った。
「ですが、旦那様が……」
マーガレットは首を振る。
「夫には知らせなくていい」
そして、はっきり告げた。
「エドワード神父をお呼びしなさい」
声は震えていた。
けれど決意は揺れていない。
◇◆◇◆◇◆
聖座教会の一角。
あの日からエドワード神父は蔵書室に籠りきりだった。
太陽の昇る時間になっても、部屋は暗く、ランプの小さな炎だけが揺れていた。
エドワードは机に身を乗り出し、古い革装丁の書物をめくり続けている。
積み上がった文献はすでに十冊を超えていた。
埃をかぶった神学書、古い報告書、修道院の記録写本――どれも普段ならほとんど開かれることのないものばかりだ。
それでも彼は、ページを止めることができなかった。
紙の擦れる音だけが、静かな部屋に響く。
やがて一行の記述を見つけ、彼の手が止まった。
「……人格の変質」
小さく読み上げる。
指先で文章をなぞる。
『憑依の初期段階において、宿主の人格はしばしば交替する。
声質の変化、異なる言語、あるいは異性の声を発する例が多い』
エドワードは無意識に息を呑んだ。
エレノアの声。
眠ったまま発せられた、あの低い男の声。
ページをめくる。
『中期段階に至ると、宿主は周囲の秘密や出来事を言い当てる場合がある。
これは悪霊が人間の精神や環境を観察する能力を持つためとされる』
神父の背中を冷たい汗が流れた。
屋敷の会話を言い当てたという、マーガレットの話。
それもまた一致している。
偶然だろうか。
思い込みではないのか。
そう自分に言い聞かせながら、さらに読み進める。
そして次の記述にたどり着いた。
『憑依が進行すると、宿主は周囲の人間の秘密を暴露し、恐怖を煽る。
人格は完全に入れ替わり、悪霊が身体を仮の住処として扱う』
ページの文字が、まるで浮き上がって見えた。
エドワードの喉が乾く。
ゆっくりと椅子にもたれ、天井を見上げた。
「……まさか」
だが否定の言葉は、続かなかった。
これまで信じていなかった。
いや、信じる必要がなかった。
悪魔憑きなど、古い迷信だと。
だが。
もしも。
もし本当に――。
神父は顔を伏せ、両手を組む。
「主よ……」
祈りの言葉が、静かな書斎に落ちた。
「私は……どうすればよいのですか」
答えは、もちろん返ってこない。
それでも彼はもう一度、文献へ視線を戻した。
確かめるしかない。
この恐ろしい一致が、本当に意味するものを。
◇◆◇◆◇◆
アシュクロフト邸の廊下では、重い空気が張り詰めていた。
「エドワード神父をお呼びしなさい」
マーガレットは震える声で言った。
近くに控えていた使用人が、緊張した表情で頷く。
「は、はい……エドワード神父に――」
「待て」
低い声が割り込んだ。
振り向くと、リチャードが立っていた。
その灰色の瞳には、明らかな怒りが宿っている。
「今の話は何だ」
静かな声だった。
だが屋敷の使用人たちは一斉に顔を伏せた。
マーガレットは夫をまっすぐ見返す。
「神父をお呼びします」
「許可した覚えはない」
「許可を求めた覚えもありません」
ぴしり、と空気が割れた。
リチャードの眉が険しくなる。
「エレノアの件なら医師に任せるべきだ」
「医師は原因が分からないと言いました」
「だからこそ専門施設だ」
彼は一歩近づき、はっきり言った。
「精神病院に入れる」
使用人の一人が息を呑んだ。
マーガレットの瞳が燃える。
「娘は病気ではありません」
「では何だ」
「……悪魔です」
その言葉に、部屋の空気が凍った。
リチャードは短く息を吐く。
「馬鹿げている」
「現実です!」
マーガレットの声が震える。
「あなたも聞いたでしょう、あの声を!」
沈黙。
短い沈黙だった。
だがそれだけで、答えは十分だった。
リチャードは視線を逸らし、低く言う。
「……だからこそ、隔離する」
「逃げているだけです」
「現実的な判断だ」
「違います!」
マーガレットは首を振った。
「娘は助けを求めているのです」
そして使用人へ向き直る。
「使いを出しなさい」
「マーガレット!」
夫の声が響く。
だが彼女は止まらない。
「エドワード神父をお呼びします」
静かだが、揺るがない声だった。
マーガレットが決意を告げると同時に、寝室に眠るエレノアの瞼が、ゆっくりと開いた。
焦点の合わない瞳。
だが口元だけが、歪んだ笑みを作る。
「……愚かな人間どもだ」
エレノアの口から低い男の声が紡ぎ出され、扉を無視するかのように廊下に響いた。
扉の外で、両親の気配が凍りつく。
だが少女の身体はそれ以上動かない。
目は再び閉じる。
それでも唇だけが、微笑んでいた。
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