身のうちに潜む者2
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朝になっても、アシュクロフト邸の空気は重いままだった。
曇天の光が差す寝室で、エレノアは高熱に浮かされていた。汗で髪が額に張りつき、呼吸は浅い。昨夜の痙攣の名残か、指先だけがときおり震える。
そのたびに、ベッド脇のマーガレットの肩も揺れた。
「お水を……少しだけでも」
侍女が唇を湿らせようとしたが、エレノアは眠ったまま喉を鳴らしただけだった。
リチャードは窓辺に立ち、腕を組んだまま娘を見ていた。いつもの厳格な顔つきだが、目の下には昨夜の疲れが残っている。
不意に、エレノアの唇が動く。
「……さむい」
か細い少女の声だった。マーガレットが身を乗り出す。
「エレノア? お母様よ、分かるの?」
だが次の瞬間、その声は濁った。
「いいや、熱い。内側が焼けるようだ」
低い男の声。
侍女が息を呑み、使用人たちも一斉に身をこわばらせる。昨夜と同じだった。もう誰も見間違いとは思っていない。
マーガレットは娘の冷たい手を握り締めた。
「神父様をお呼びしなければなりません」
震えを滲ませながら夫を振り返る。
「もう迷っている場合ではありません。昨夜のあれを見たでしょう」
リチャードはすぐには答えなかった。やがて低く言う。
「熱による神経症状だ」
「症状が異常であることは認める。だが、だからといって迷信に飛びつくのは愚かだ。外部に話が漏れれば、アシュクロフト家の名は傷つく」
「名誉の話をしている場合ではありません!」
マーガレットの声が鋭く響く。
「娘があの子ではないものに侵されているのです。それを病気と言い張って何になるのです!」
「医師が来る。必要ならもっと高名な医師も呼ぼう」
「医師が何かできましたか?」
リチャードの眉がぴくりと動く。これまで呼んだ医者は皆、原因不明と言うだけだった。
エレノアの口元が歪んだ。
「医者、医者、医者……」
低い声がくつくつと笑う。
「薬瓶を増やしてどうする。器の中身までは診られまいに」
侍女の一人が膝をつき、若い女中も顔を青くする。使用人たちの間では、恐怖がもう隠しきれなかった。
悪魔憑き。
誰も口にしたくないその言葉が、部屋中に満ちている。
マーガレットは静かに言った。
「私は神父様を呼びます」
「駄目だ」
リチャードが即座に返す。
「屋敷の者にも徹底させろ。この件を外で口にすることを禁ずる。娘は重い熱病だ。それ以外の噂は一切認めない」
使用人たちは怯えたまま一礼した。だが納得していないのは明らかだった。
マーガレットは夫を見つめる。
「あなたはまだ、あの子の口から聞いた声を忘れたふりをなさるのですか」
リチャードの瞳が揺れる。
橋の下。箱。鋳造所の事故。
誰にも話していないことを、あれは口にした。
それでも彼は言う。
「……人は、異常な状況では説明のつかない反応を示す。私は事実に基づいて判断する」
張り詰めた空気の中、執事が慎重に頭を下げた。
「旦那様、奥様。お嬢様をお休みさせるためにも、場所を移されては」
リチャードは無言で踵を返す。マーガレットは娘の額に口づけし、手を握ってから立ち上がった。
扉が閉まる直前、エレノアの喉から声が落ちた。
「行くのか、母よ」
マーガレットの足が止まる。
けれど振り返ったときには、娘はまた静かに眠っているだけだった。
書斎に入ると、リチャードは机のそばに立った。整然としたこの部屋だけが、まだ理解できる世界のようだった。
マーガレットは扉の前で夫を見つめる。
「エドワード神父をお呼びします」
今度の声は揺れなかった。
リチャードは深く息を吐く。
「君は冷静さを失っている」
「失っているのはあなたの方です」
「娘は病人だ。適切な施設で保護するべきだ」
マーガレットは一拍置いて意味を理解した。
「……適切な施設?」
「専門の病院だ。精神を病んだ者を預かる施設がある。医師の監督下に置けば、屋敷で手に負えない事態にも対応できる」
マーガレットの顔から血の気が引く。
「病院……あの子を、精神病院へ入れると仰るのですか」
「必要ならば」
「正気ですの!?」
声が震えながら跳ねた。
「あの子は苦しんでいるのです! 怯えて、壊れて、助けを待っているのです! それを閉じ込めれば済む話だと?」
「閉じ込めるのではない、治療だ」
「治療? 昨夜、あなたの秘密まで言い当てたあれを、医者がどう治すのです!」
リチャードの口元が強張る。
「それでも私は、理解できる方法を選ぶ。祈祷師や迷信ではなく」
「エドワード神父は祈祷師ではありません。教会の方です!」
「教会が何をした。最初に相談したとき、何もできなかっただろう」
痛烈な一言だった。マーガレットは一瞬怯む。だが今は違う。エドワードもまた、何かを掴みかけているはずだ。
そう言い返そうとした瞬間。
扉の向こうから声が響いた。
「病院へ入れるのか、父よ」
低く、ねっとりとした男の声。
書斎の二人は同時に凍りついた。
「娘を遠ざけ、鍵をかけ、見えないところで壊してしまえば安心か」
マーガレットが口元を押さえる。閉じた扉の向こうから聞こえるのに、耳元で囁かれているように鮮明だった。
リチャードの手が椅子の背を強く掴む。
「誰だ」
問いはかすれていた。
声は答えず、愉快げに笑う。
「母は神父を、父は病院を。なるほど、愛し方も様々だ」
今この部屋で交わされたばかりの会話だった。
マーガレットは後ずさり、壁に手をつく。リチャードもまた、言葉を失った。
書斎の中に緊張した沈黙が満ちる。しかし、それ以降、声が聞こえる様子はなかった。
やがてマーガレットが言う。
「これでもまだ……病気だと仰るのですか」
リチャードはすぐには答えられない。ようやく絞り出した声は小さかった。
「……誰かの悪戯かもしれない」
その痛々しい強弁に、マーガレットの瞳には涙だけでなく怒りも浮かぶ。
「あなたは娘を見ないためなら、どこまででも目を閉じるのですね」
言い捨てて、彼女は書斎を飛び出した。
リチャードは追わなかった。重い静寂の中に残され、やがて指先の震えに気づいて拳を握り込む。
昼過ぎ、使用人通路では小さな囁きが交わされていた。
「今朝も、あのお声が……」
「聞こえたわ。わたし、階段のところで」
「もう病気じゃないでしょう、あんなの……」
女中が青い顔で呟き、年かさの侍女が周囲を見回す。
「声を落としなさい。旦那様の耳に入ったらどうなるか」
「でも、お嬢様が……」
皆、主人の命令にも寝室の異常にも怯えていた。
一人が恐る恐る言う。
「そう言えば、スラムに……奇跡を起こす少女がいるって」
「聖女、って噂の?」
「貧民街の聖女らしいです」
その時、靴音が近づいた。
使用人たちは背筋を伸ばす。角を曲がって現れたのはリチャードだった。
「何の話だ」
低い声に、空気が凍る。
口を開いた使用人が、強張った顔で頭を下げた。
「も、申し訳ございません。少し……噂話を」
「どんな噂だ」
「その……スラムに、人を癒す少女がいると……」
言い切る前に、リチャードは鼻で笑った。
「迷信だ」
切って捨てるような一言だった。
「こんな時だからこそ、愚かな話に縋りたくなる気持ちは分かる。だが、アシュクロフト家の者がそんな与太話を口にするな」
使用人たちは一斉に頭を下げる。
「申し訳ございません」
リチャードはそれ以上咎めず、通り過ぎた。
だが、貧民街の聖女という言葉だけは耳に残った。くだらないはずなのに、今の屋敷では迷信の方が現実に近い顔をしている。その事実が、彼をひどく苛立たせた。
深夜。
屋敷が寝静まった後、マーガレットは一人でエレノアの寝室を訪れた。
薄暗い室内で、寝台の白だけがぼんやり浮かぶ。昼よりさらにやつれた娘の顔を見て、胸が締めつけられた。
「エレノア……」
椅子に腰掛け、そっと髪を撫でる。熱はまだ高い。だがそれは、生きている温もりというより、内側から何かに焼かれているような熱だった。
「明日の朝、使いを出します。必ず神父様をお呼びしますからね」
そう囁いた、そのとき。
エレノアの唇が、ゆっくりと持ち上がった。
目は閉じたままなのに、それは明らかに微笑みだった。
「祈るのか、母よ」
低い男の声が、闇の底から滲む。
マーガレットの背筋が凍る。
「誰を呼ぶ?」
囁きは柔らかいのに、不気味だった。
「若い神父か。あの信仰だけは立派な坊やか。来れば何かできると思うか?」
ランプの火が不意に大きく揺れた。
壁に落ちた影が伸びる。天井の隅やカーテンのひだ、家具の脚元の暗がりが、ゆっくりと蠢いた。
黒い。
ただの影ではなかった。そこにある闇が、確かにこちらを見ている。
マーガレットは息を呑んだまま動けない。
「器は整いつつある」
声が言う。
天井近くの影が揺れ、壁を這うように形を変えた。不自然な黒だった。
「よく耐えている。清らかな魂ほど、壊し甲斐がある」
「やめて……」
絞り出した声は小さい。
「この子に触れないで」
「もう触れている」
くつくつと笑う気配がした。
「毎夜、少しずつ。少しずつだ。母よ、お前は祈るだけで何もできない。父は否定するだけで何もできない。誰もこの娘を救えない」
マーガレットの膝が震える。涙が滲む。だが目は逸らさなかった。
「……いいえ」
かすれた声で、それでも彼女は言う。
「私は救います」
影が揺れる。
「どうやって?」
「何を捨てても、誰に縋っても、必ず」
その言葉だけは、はっきり出た。
「明日の朝、エドワード神父をお呼びします。あなたが何であろうと、あの子を渡しはしない」
しばし、部屋は静まった。
やがて影は面白がるようにさざめく。
「よい」
男の声が囁く。
「呼べばいい。誰を呼んでも同じことだ」
ランプの火がまた揺れ、次の瞬間には、壁を這っていた黒がすっと薄れた。気配だけが残り、それもやがて闇に溶けていく。
寝台の上では、エレノアが何事もなかったかのように眠っていた。けれど頬に触れたマーガレットの指先は、さっきよりもさらに冷たいものを感じ取ってしまう。
静まり返った寝室で、彼女は娘の手を握った。
「待っていて、エレノア」
もう涙声ではなかった。
「お母様が、必ず助けるから」
その夜、マーガレットの中で何かが決定的に変わった。翌朝、何を言われようと、夫がどう反対しようと、彼女は使いを出す。エドワード神父を呼び戻す。
そしてその頃、眠るエレノアの身体の奥では、見えない侵食がまた一歩、静かに深まっていた。
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