身のうちに潜む者1
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アシュクロフト邸の夜は、ひどく重かった。
高熱で寝込むエレノアの寝室には、母マーガレット、父リチャード、侍女、使用人たちが集まっていた。
天蓋付きのベッドで眠る少女は、頬だけが熱に赤く、唇は青白い。
呼吸は浅く、まるで身体の中身だけが少しずつ別のものに置き換わっていくみたいだった。
マーガレットは娘の手を握り、必死に呼びかける。
「エレノア……お母様です。目を開けてちょうだい」
その時、少女のまぶたがぴくりと震えた。
目は開いた。だが母を見ない。焦点の合わない瞳が、ただ天井を見つめている。
「……まだ整っていない」
掠れた声に、侍女が息を呑んだ。
「器は未完成だ。もっと馴染ませねば」
熱に浮かされた戯言にしては、言葉が不気味すぎた。
リチャードは顔をしかめて「高熱による譫妄だ」と言うが、その声にも余裕はない。
だが次の言葉で、彼の顔色は変わった。
「灰色の川。橋の下。誰も見つけなかった箱」
それはリチャードだけが知る過去だった。若い頃、家の不名誉を隠すため、証拠書類を川へ沈めたことがある。
誰にも話していない。妻にも知られていない。
「誰からそんな話を聞いた」
問いかけても、エレノアの目は天井から動かない。
「隠したつもりでも、魂は忘れない」
少女の口から出るには、あまりにも老いた声色だった。
部屋の空気が目に見えて冷える。使用人の一人が後ずさりし、靴音が響いた。
マーガレットは娘の頬に触れ、震える声で呼びかける。
「エレノア、お願い……こちらを見て」
「今は無理だ。これは眠っている」
“これ”という呼び方に、マーガレットの背筋が凍った。
侍女がたまらず「神父様をお呼びした方が」と漏らすが、リチャードが鋭く黙らせる。だが、その直後だった。
エレノアの喉が、ごぼり、と不気味に鳴った。
身体が反り返り、指がシーツを掴む。マーガレットが悲鳴を呑み込み、リチャードが踏み出す。
そして娘の口から、もう娘ではない声が響いた。
「順調だ」
低い男の声だった。
その場の全員が凍りつく。侍女の手から水差しが落ち、絨毯の上で転がった。
「器は順調に整っている。この娘はよい器だ。清く、柔らかく、壊れやすい」
「やめて!」
マーガレットが娘を庇うように身を寄せる。だが声は平然と続く。
「母親か。毎晩祈っているな。助けてくれと。だが祈りは届かない」
その言葉に、使用人の一人がすすり泣いた。
リチャードはかろうじて立っていたが、表情は強張っている。
「何者だ」
低く問うと、男の声は愉快そうに笑った。
「合理を愛する男らしい言葉だ、リチャード・アシュクロフト」
名を呼ばれただけで、家族のものではないと分かる。続く言葉はさらに容赦がなかった。
「十五年前、南工業区の鋳造所の事故を揉み消したな」
リチャードの目が見開かれる。
「死者は三人。記録では一人。金で黙らせ、脅し、消した」
「やめろ!」
叫んだ瞬間、部屋の誰もが悟った。それは否定ではなく、認めた声だった。
男の声は楽しげに、使用人たちの秘密まで言い当てていく。
銀器を売ったこと。香水を盗んだこと。主家の金を横流ししたこと。名指しされた侍女がその場に崩れ落ちた。
「な、なぜ……」
誰かが小さく呟く。
「悪魔……」
その一言で、部屋の恐怖は完全に形を持った。
マーガレットはもう理性で耐えられず、娘を抱きしめようとする。
「返して……娘を返して!」
その瞬間、エレノアの身体が激しく痙攣した。
全身が跳ね、頭が揺れ、歯が鳴る。侍女たちが駆け寄り、誰かが神父を呼べと叫んだ。
部屋が混乱に包まれる中、男の声はふっと途切れる。
やがて痙攣は収まり、エレノアは再び浅い呼吸のまま動かなくなった。
だが、誰も夢だとは思えなかった。
リチャードはしばらく沈黙した後、硬い声で言う。
「……全員、口外するな。娘は高熱で苦しんでいる。それ以上でも以下でもない」
使用人たちは頷いたが、納得していないのは明らかだった。
マーガレットは涙に濡れた顔で夫を見る。
「今のを見ても、まだそう仰るの」
「あれは異常な高熱による錯乱だ」
「普通の病気ではありません!」
きっぱりと返す声に怒りが混じる。
「あの子の中で、あの子ではないものが喋っていました」
リチャードは反論しようとして、言葉を失った。
執事が場を収めるように「お嬢様を休ませましょう」と進み出て、ようやく一同は寝室を出る。だが廊下へ出ても、空気の重さは少しも消えなかった。
マーガレットは振り返り、夫へ告げる。
「神父様を、もう一度お呼びします。今すぐに」
リチャードは眉間を押さえた。
「深夜だ。これ以上騒ぎを大きくするな」
「問題なのは体面ではありません。エレノアの命です」
「私は娘の命を軽んじていない」
「でしたら、あれを何だと思うのです!」
返答は一拍遅れた。その遅れだけで、マーガレットには十分だった。夫もまた、説明不能な異常を見てしまっている。
それでもリチャードは首を振る。
「高熱による神経症状だ。医師の見解を優先すべきだろう」
「娘の口から男の声が出たのに?」
「人は極度の衰弱で何を起こすか分からない」
苦しい理屈だった。
その間にも、使用人たちが廊下の端で小声を交わす。
「……悪魔憑きでは」
「口にするな」
「でも、あれは……」
その囁きが、屋敷の空気をさらに冷やした。
マーガレットは静かに言う。
「もう誰も、ただの病だとは思っていません」
「恐怖に引きずられているだけだ」
「私は違います。母として見たのです」
その言葉に、リチャードはついに答えられなくなった。
結局、その場で結論は出なかった。
マーガレットは神父を呼ぶ決意を固め、リチャードはなおも理性に縋ろうとする。
屋敷の中には、恐怖と疑念だけが静かに広がっていった。
深夜。
完全に静まり返った寝室で、エレノアはひとり眠っていた。ランプの火が小さく揺れる中、少女の唇がかすかに動く。
「……順調だ」
低い男の声。
「器は整いつつある」
月明かりの差す床に、黒い影が立っていた。人の形に似ているが、輪郭は曖昧で、闇そのものが滲んでいるように見える。
「あと少しだ」
影は眠るエレノアを見下ろす。熱に蝕まれた身体は、なおも“器”として整えられていた。
「よい器だ。よく馴染む」
囁きを残し、黒い影は壁の闇へ溶けていく。
屋敷の夜は、さらに深く沈んだ。
そして次に始まるのは看病ではない。
娘をどうするかを巡る、夫婦の決定的な対立だった。
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