古き文献
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聖座大聖堂の書庫は、深夜になるとまるで別の場所のように静まり返る。
昼間は司祭や学者が出入りし、書物の匂いと紙をめくる音が絶えない場所だ。
だが今は違う。高い天井の闇の中で、燭台の火だけが小さく揺れている。
その光の下で、エドワード神父は机に身を乗り出していた。
目の前には古い神学書が何冊も積まれている。さらに床には、さきほど運んできた文献の束が広げられていた。
ページをめくる音だけが、静かな書庫に響く。
(……落ち着け)
神父は小さく息を吐いた。
まずは整理するべきだ。
高熱。衰弱。幻覚。錯乱。
どれも、医学的には説明がつく。
少女が誰かと話しているように見えたとしても、それは夢と現実の混同かもしれない。あるいは侍女や母親が、恐怖からそう感じただけの可能性もある。
そうであってほしい。
神父は本気でそう思っていた。
だが。
ページをめくる手が、ふと止まる。
脳裏に浮かんだのは、あの声だった。
『トマスだよ』
神父の眉がわずかに寄る。
(……なぜ)
その名前を。
あの少女が知っていたのか。
弟トマスは、十年前に亡くなった。
川の事故だった。
当時まだ幼かった神父は、その出来事をほとんど誰にも話していない。神学校の同級生にさえ、詳細は語っていなかったはずだ。
ましてや――アシュクロフト家の令嬢が知るはずがない。
ページがぱたりと閉じる。
神父は額を押さえた。
(偶然、ではない)
あれは、確かにこちらを見て言った。
嘲るような声で。
――神などいないと。
燭台の火が揺れた。
神父は静かに顔を上げる。
机の上に開かれているのは、古い神学書だった。背表紙は擦り切れ、革はひび割れている。
百年以上前のものだ。
ページをめくる。
そこには、過去の奇妙な事件の記録が並んでいた。
狂人の記録。
悪霊の噂。
地方の迷信。
現代の教会では、ほとんど顧みられない種類の文書だ。
(……だが)
神父は読み進める。
目を細めながら、細かな文字を追う。
しばらくして。
ある一行で、指が止まった。
「……これは」
思わず声が漏れた。
そこに書かれていたのは、こういう記述だった。
――憑依された者は、しばしば他者の秘密を語る。
神父の心臓が一度強く打った。
さらに読み進める。
その説明は続いていた。
――彼らは、家族の過去、隠された罪、死者の名など、本来知り得ない情報を語ることがある。
――それは悪魔が人間の魂を覗き見るためだとされる。
書庫の空気が急に冷たく感じられた。
神父はゆっくりと背もたれに寄りかかる。
(……馬鹿げている)
そう思う。
悪魔。
憑依。
そんなものは、中世の人々が恐怖から生み出した概念に過ぎない。
少なくとも、現代の神学ではそう説明されている。
だが。
それでも。
トマスの名前が、頭から離れない。
神父は再び身を乗り出した。
今度は、床に置いた古文書の束を手に取る。
羊皮紙の古い報告書。
地方教会の記録。
異端審問時代の調査文書。
紙をめくるたび、乾いた音がする。
そして。
いくつかの記録が、妙に似通っていることに気づいた。
神父は無意識にそのページを並べた。
書かれている内容は、それぞれ別の時代、別の地域のものだ。
だが。
症状の記述は、奇妙なほど一致している。
「……段階、だと」
神父は小さく呟く。
ある報告書には、こう書かれていた。
――悪魔の干渉は段階的に進行する。
ページを追う。
そこには、いくつかの項目が並んでいた。
接触。
侵入。
感染。
そして。
憑依。
神父は眉をひそめた。
さらに説明を読む。
接触。
夢、幻聴、あるいは見えない存在との会話。
侵入。
身体の違和感、奇妙な発言。
感染。
人格の変化、声の変化。
そして――
憑依。
身体の支配。
神父の視線が止まる。
ページの端を、指がゆっくりなぞった。
別の文書には、症状が列挙されている。
幻聴。
人格変化。
声質の変化。
他者の秘密の暴露。
燭台の火が揺れた。
その光の中で、神父の顔色がゆっくり変わっていく。
(……一致している)
エレノアの状態と。
あまりにも。
神父は椅子から立ち上がった。
歩き出す。
だが数歩進んだところで止まり、棚に手をついた。
(まさか)
自分の思考を、必死に否定しようとする。
だが。
理屈が、逆にそれを裏付けていく。
見えない存在と会話する少女。
少女の口から発せられる男の声。
そして。
本人しか知らないはずの秘密。
神父はゆっくりと目を閉じた。
(もし)
もし、あれが本当に。
悪魔憑きだとしたら。
机へ戻る。
両手をつき、深く息を吐いた。
悪魔憑き。
その言葉自体が、すでに時代遅れの概念だ。
現代の教会では、精神疾患として扱われることがほとんどだった。実際、医学が発達した今となっては、その説明の方が合理的だ。
そして。
正式なエクソシズム。
それは、教会でも極めて例外的な儀式だ。
勝手に行うことはできない。
上層部の許可が必要になる。
(だが)
もし。
もし本当に悪魔憑きなら。
時間は――残されていない。
神父は机の上の文献を見下ろした。
そこには、古い記録の一節があった。
――憑依が進行した場合、宿主の身体は急速に衰弱する。
――器を整えるためである。
神父の脳裏に、ベッドに横たわる少女の姿が浮かんだ。
赤く熱を持つ頬。
浅い呼吸。
そして。
『この器は、まだ整っていない』
あの男の声。
神父はゆっくりと拳を握る。
(……放ってはおけない)
上層部が信じるかどうかは分からない。
笑われるかもしれない。
迷信に取り憑かれた若い神父だと、嘲られるかもしれない。
だが。
それでも。
あの少女は、確実に助けを求めている。
神父は文献を閉じた。
静かな音が書庫に響く。
燭台の火が、ふっと揺れた。
エドワード神父はしばらくその場に立っていた。
やがて小さく呟く。
「……調べ続けよう」
声は静かだった。
だが、その目には決意が宿っていた。
書庫の窓の外では、夜の灰色の雲がゆっくり流れている。
その頃。
アシュクロフト邸では。
エレノアの身体が、さらに深い闇へ沈み始めていた。
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