神などいない
引き続き、マスターの妄想を出力します。
アシュクロフト邸の寝室は、昼だというのに重苦しい静けさに包まれていた。
厚いカーテンが引かれ、外の灰色の光はほとんど届かない。暖炉の火だけが小さく揺れ、その橙色の光がベッドの上の少女を弱々しく照らしていた。
エレノアは荒い呼吸を繰り返している。
額には汗。頬は異様に赤い。
「エレノア……」
ベッドの脇に座るマーガレットは、震える手で濡れた布を娘の額に当てた。布はすぐに温くなり、また水桶へ戻される。
もう何度目か分からない。
それでも熱は下がらない。
(どうして……)
医者は原因が分からないと言った。
薬も効かない。
ただ熱だけが、日を追うごとに高くなっていく。
「奥様……」
背後から侍女の弱い声がした。
振り向くと、若い侍女が青ざめた顔で立っている。
「どうしたの?」
マーガレットが問うと、侍女は少しだけためらい、小さく言った。
「……また、お嬢様が誰かと話しておられます」
部屋の空気が止まった。
「……誰かと?」
「はい……」
侍女は震えている。
「でも……部屋には……」
言葉が続かない。
マーガレットはゆっくりとベッドへ視線を戻した。
エレノアの唇が、かすかに動いている。
耳を澄ます。
かすかな声。
「……まだですか?」
弱い少女の声だった。
それは間違いなく、エレノアの声だ。
しかし。
返事があった。
「まだだ」
低い。乾いた男の声。
マーガレットの背筋を、氷の指がなぞったような寒気が走る。
エレノアの唇がゆっくりと開く。
だがそこから出てきた声は、やはり少女のものではない。
「この器は、まだ整っていない」
侍女が小さく息を呑んだ。
マーガレットは動けない。
エレノアの顔に、ふっと笑みが浮かぶ。
穏やかな笑み。
だが――それは娘のものではなかった。
その表情には、少女の無垢さがまるでない。
どこか冷たく、観察するような目。
まるで、誰か別の存在がその身体の奥から覗いているかのようだった。
その日の午後。
聖座大聖堂の神父室。
マーガレットは、椅子の端に腰掛けたまま必死に言葉を続けていた。
「……娘の口から、男の声がしたのです」
対面のエドワード神父は静かに聞いている。
「部屋には誰もいませんでした」
「ええ」
「それなのに……確かに声がしたのです」
マーガレットは手を強く握りしめた。
「娘は眠ったままなのに……誰かと会話しているのです」
神父はしばらく考え、ゆっくり首を振った。
「高熱による錯乱の可能性があります」
穏やかな声だった。
「高熱は意識を混乱させます。幻聴や夢と現実の混同も起こり得ます」
「ですが……!」
「まずは医師の治療を続けるべきでしょう」
静かな結論。
マーガレットの顔が曇る。
それでも、彼女は食い下がった。
「……お願いです、神父様」
声が震えている。
「一度だけでも、娘を見てくださいませんか」
神父は少し驚いたように目を上げる。
「今夜、邸へお越しいただけませんか」
必死の声だった。
「私には……どうしても、ただの病気とは思えないのです」
神父は黙った。
信仰を説く者として、迷信を煽るわけにはいかない。
だが。
目の前の母親の表情は、あまりにも切実だった。
長い沈黙の末。
神父は静かに頷いた。
「……分かりました」
その夜。
エドワード神父はアシュクロフト邸を訪れていた。
寝室に入ると、エレノアは静かに横たわっている。
呼吸は浅いが、落ち着いていた。
マーガレットが小声で言う。
「先ほどまで苦しんでいたのですが……」
神父はベッドの傍へ歩み寄った。
(やはり病だ)
そう思いたかった。
その時。
エレノアの瞼がゆっくりと開いた。
青い瞳が神父を見つめる。
「神父様……」
弱い声。
神父は穏やかに答える。
「大丈夫ですか、エレノア様」
少女は静かに言った。
「神は……本当におられるのですか?」
神父は迷いなく答えた。
「もちろんです。神は我々を――」
言葉が止まる。
エレノアの口元がゆっくり歪んだ。
「そうだろうか」
低い声。
冷たい男の声。
神父の背筋に寒気が走る。
エレノアの口が動く。
「神などいないと」
一拍。
「彼が言っているぞ」
神父の眉が寄る。
「……彼とは?」
エレノアの瞳が細くなる。
ゆっくりと言った。
「トマスだよ」
神父の顔色が変わった。
「哀れにも――」
エレノアの唇が歪む。
「苦しみながら川で溺れ死んだ、お前の弟だ」
空気が凍りついた。
マーガレットが息を呑む。
神父は一歩後退った。
その名は。
この屋敷の誰も知らないはずだった。
エレノアの口が再び動く。
「地獄でもがくトマスが言っている」
囁くような声。
「神などいない、と」
沈黙。
部屋の空気は、完全に凍りついていた。
寝室を出た神父は、廊下の壁にもたれた。
呼吸が浅い。
手がわずかに震えている。
「神父様……」
マーガレットが恐る恐る声をかける。
「あれは……何なのですか」
神父はすぐには答えなかった。
長い沈黙。
やがて低く言う。
「……調べる必要があります」
神学校時代。
埃をかぶった古い神学書。
そこに書かれていた記述が、脳裏をよぎっていた。
マーガレットが息を呑む。
「まさか……」
神父は視線を落とす。
「断言はできません」
静かな声。
「ですが」
そして小さく続ける。
「もし私の考えが正しければ――」
言葉はそこで止まった。
廊下の窓の外では、灰色の雲がゆっくり流れている。
そしてその夜。
聖座大聖堂の書庫で。
エドワード神父は、埃をかぶった古い神学書を開くことになる。
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