聖女の噂
評価やブックマークをして頂いた読者様へ感謝いたします。
マスターの妄想生成に良い影響が確認されています。
引き続き、マスターの妄想を出力します。
アシュクロフト邸の厨房は、朝から妙に重たい空気に包まれていた。
大きな窓から差し込む淡い光の下で、鍋の湯気が静かに立ち上っている。
だが、普段なら料理人の怒鳴り声や皿の音で賑やかな場所が、今日はどこか沈んでいた。
「……お嬢様、また熱が上がったそうですよ」
野菜を刻んでいた年配の女が、ため息混じりに言う。
「今朝、侍女の方が泣いていらして……夜通し苦しんでおられたとか」
「医者はなんて言ってるんだ?」
「原因が分からないそうです」
料理人が顔をしかめる。
「この街で一番の医者呼んでるんだろうが……」
包丁がまな板を叩く音だけが、しばらく響く。
重たい沈黙が落ちた。
誰もが同じことを考えている。
――もし、このまま治らなかったら。
年配の女がぽつりと呟いた。
「……奇跡でも起きないかねぇ」
半ば冗談のような言い方だった。
だが、誰も笑わない。
その言葉に、厨房の隅で皿を拭いていた若い使用人が、少しだけ顔を上げた。昨日、母を治されたと話していた青年だ。
周囲をうかがうようにしてから、遠慮がちに口を開く。
「……あの」
視線が集まると、慌てて頭を下げた。
「昨日お話ししたことですが……」
「スラムの少女の話かい?」
年配の女が言う。
「は、はい」
青年は小さく頷く。
「母が助かった時のこと……もう少しだけ、お話ししてもいいでしょうか」
「別に構わないよ」
料理人が肩をすくめる。
青年は恐縮した様子で続けた。
「私、その日……久しぶりに実家へ帰ったんです」
「うん」
「そしたら、母が倒れていて」
厨房の空気が少し静かになる。
「近所の人たちが集まっていて……」
青年は視線を落とした。
「もう手遅れかもしれない、って言われていました」
包丁の音が止まる。
「息も弱くて……顔色も悪くて……」
言葉を切りながら続けた。
「私、どうしたらいいのか分からなくて」
少しの沈黙。
「その時です」
青年は顔を上げた。
「一人の少女が来たんです」
「例の子か」
「は、はい」
小さく頷く。
「銀色の髪の……とても綺麗な子でした」
「昨日も言ってたね」
「はい……」
青年は少し考えるように言葉を探した。
「子供なんですが……妙に落ち着いていて」
「それで?」
料理人が先を促す。
青年は、ゆっくり言った。
「その子が母の様子を見て……」
当時の声を思い出すように。
「『大丈夫。少し診せてください』って」
敬語だった。
それが妙に印象に残っている。
「それで?」
「……母の額に触れました」
それだけだった。
本当に、それだけ。
「次の瞬間、母が目を開けたんです」
厨房に沈黙が落ちる。
「熱も下がっていて……呼吸も普通に戻っていて……」
青年は困ったように笑った。
「私も、何が起きたのか分かりませんでした」
言葉を失う空気。
あまりに具体的だった。
作り話にしては、妙に現実的だ。
年配の女がゆっくり言う。
「……それ、本当なんだろうね」
青年は背筋を伸ばした。
「はい。本当です」
迷いのない声だった。
その真剣さに、誰も軽く否定できない。
少しの沈黙。
やがて、誰かがぽつりと言う。
「それ……」
少し迷ってから。
「癒しの奇跡ってやつじゃない?」
厨房の空気が止まった。
「癒しの奇跡?」
「ほら、教会の説法であるだろ。歩けない人が歩けるようになったり、目の見えない人が見えるようになったって話」
料理人が腕を組む。
「……スラムの聖女、か」
誰かが小さく呟く。
「スラムの聖女……」
その言葉が、静かに広がっていく。
不思議と、誰も否定しなかった。
厨房で生まれたその呼び名は、やがて屋敷のあちこちへと流れていくことになる。
その日の午後。
使用人通路では、別の会話が交わされていた。
「聞いた? スラムの聖女」
「厨房の話?」
「そうそう」
掃除道具を持った侍女が頷く。
「触れただけで病人が治るんだって」
「そんなことある?」
「でも証言してる人いるらしいよ」
別の侍女が声を潜める。
「死にかけてた人が、目を覚ましたって」
「それもう奇跡じゃない」
半ば冗談めいた言葉だったが、誰も笑わなかった。
「でもさ」
年上の侍女が言う。
「話してた人、すごく真剣だった」
「うん」
「嘘ついてる顔じゃなかった」
廊下の窓の外には、灰色の空が広がっている。
煤煙都市グレイヘイヴン特有の曇った空だ。
「スラムって怖いところだと思ってたけど……」
「そんな子がいるなら……」
誰かが言いかけて黙る。
奇跡。
聖女。
そんなものが、この時代にあるはずがない。
だが――。
「……本当にいるのかもね」
誰かが静かに言った。
その噂は、ゆっくりと屋敷の奥へ広がっていった。
やがて、その話は書斎にも届く。
重厚な木の扉の向こう。
アシュクロフト伯爵リチャードは机に向かい、書類に目を通していた。
工場拡張の契約書。
蒸気機関関連の投資資料。
この街の未来は、こうした紙束の上で決まっていく。
控えていた執事が静かに口を開いた。
「旦那様」
「なんだ」
リチャードは視線を上げない。
「屋敷内で、奇妙な噂が広がっております」
「噂?」
万年筆を止める。
「どんな」
「……貧民街に、人を触れるだけで治す少女がいる、と」
沈黙。
リチャードはゆっくり顔を上げた。
灰色の瞳が執事を見る。
「迷信か?」
短い言葉だった。
執事は慎重に答える。
「証言者がおります。使用人の母親を治したと」
「ふむ」
リチャードは椅子にもたれた。
少し考えるような沈黙。
だが、すぐに言った。
「人は苦境に立つと、奇跡を欲しがるものだ」
それだけだった。
興味は終わった。
再び書類に視線を落とす。
「以上か?」
「はい、旦那様」
「なら仕事に戻れ」
「かしこまりました」
執事は一礼して退室した。
書斎には再び紙をめくる音だけが残る。
貧民街の聖女。
そんなものは、この合理の時代には存在しない。
少なくとも――リチャードはそう信じていた。
だが。
その同じ頃。
屋敷の奥では、もっと恐ろしい出来事が進んでいた。
エレノアの寝室。
厚いカーテンが閉じられ、部屋は薄暗い。
ベッドの上で少女が苦しそうにうなされている。
「……はぁ……っ……」
呼吸が浅い。
額には汗。
頬は異様に赤い。
「エレノア……」
母マーガレットが震える手で額を拭く。
「大丈夫よ……すぐ楽になるわ……」
自分に言い聞かせるような声だった。
侍女が不安そうに立っている。
その時。
エレノアの唇が動いた。
「……だめ……」
かすかな声。
「……まだ……」
母が顔を近づける。
「エレノア?」
次の瞬間。
声が変わった。
低く、冷たい声。
「……まだ早い」
マーガレットの手が止まる。
「この器は……」
少女の口から漏れる声は、明らかに彼女のものではなかった。
「もっと整えねばならない」
凍りつく空気。
侍女が息を呑む。
「……エレノア?」
母が震える声で呼ぶ。
だが少女の瞳は閉じたままだ。
まるで誰かが、眠る身体を使って話しているかのようだった。
数秒。
やがてエレノアの体から力が抜ける。
呼吸は静かに戻る。
ただの眠り。
マーガレットはその場で動けなかった。
今の声。
あれは――娘ではない。
部屋の空気は、底冷えするほど冷たかった。
そしてその夜。
エレノアは、さらに異様な言葉を口にすることになる。
評価やブックマークをして頂けると、本作品のネタであるマスターの妄想がはかどる傾向にあります。




