その少女に助けられたのです
引き続き、マスターの妄想を出力します。
「……その少女に、助けられたのです」
使用人の言葉が静かに落ちると同時に、記憶はほんの数週間前の出来事へと遡った。
灰色の煙に覆われた街、グレイヘイヴンのスラム。
夕刻が近い時間帯だったが、空は工場の煤煙で曇り、路地は昼間でも薄暗い。
石畳は欠け、溝には黒い水が溜まり、空気には鉄と煤の匂いが混じっていた。
その路地の奥で、悲鳴のような声が上がる。
「母さん! 母さん、しっかりして!」
駆け寄ったのは一人の青年だった。
彼は粗末な服のまま、倒れている女性の体を必死に抱き起こす。
屋敷での務めを終え、数日ぶりに母の様子を見に戻ってきたところだった。
だが母の身体はぐったりしている。呼吸は浅く、顔色は死人のように青白かった。
近隣の住民たちが路地の入口から様子を見ている。
「……もう駄目だろ」
「この咳は長くねぇ」
「医者呼ぶ金なんてあるわけないしな」
誰も責めているわけではない。
ただ、諦めている。
スラムでは珍しくない光景だった。
貧民にとって病とは、ただの死の順番に過ぎない。
青年は母の肩を揺さぶる。
「母さん! 母さん、聞こえるか!」
反応はない。
胸の奥に冷たい恐怖が広がる。
その時だった。
「……大丈夫」
静かな声が背後から聞こえた。
振り向く。
そこに一人の少女が立っていた。
銀の髪が、煤煙の街の色を拒むように柔らかく揺れている。
腰まで届く長い髪と、淡い蒼色の瞳。
スラムには似つかわしくないほど整った顔立ちだった。
少女――エリスは、ゆっくり歩み寄る。
「大丈夫。少し診せて」
落ち着いた声だった。
命令でも説得でもない。ただ自然な言葉。
だが不思議と、青年は場所を空けていた。
エリスは女性の横に膝をつき、そっと額に手を当てる。
外から見れば、それだけだった。
ただ少女が触れただけ。
だが――
(うわ、かなり弱ってるな)
エリスの内心では、別の思考が動いていた。
(栄養失調+感染症……たぶん肺炎。いやこの世界の医療レベル、ほんと世紀末だな……)
内心は完全に元オタクの思考である。
(まあいい、とりあえずヒール)
祝福が静かに発動する。
外からは何も見えない。
ただエリスの手の下で、女性の呼吸が少しずつ整い始めていた。
胸の上下が深くなる。
顔色が、わずかに戻る。
近くで見ていた住民が呟いた。
「……おい」
別の者が言う。
「顔色、良くなってねぇか?」
青年も気付く。
母の呼吸が、さっきよりも明らかに落ち着いている。
そして。
まぶたがゆっくり動いた。
「……あれ?」
ぱちり、と目が開く。
「ここは……?」
その瞬間、路地が騒然となる。
「起きたぞ!」
「さっきまで死にかけてただろ!?」
「何したんだ!?」
青年は呆然と母を見つめた。
「母さん……?」
「……あんた、来てたのかい」
普通の声だった。
ついさっきまで死の淵にいた人間とは思えない。
青年は言葉を失う。
そしてゆっくり振り向く。
少女は静かに立っていた。
まるで何事もなかったかのように。
「ま、待ってください!」
青年は慌てて立ち上がる。
エリスが振り返る。
「……?」
「母を……母を助けてくれて……!」
言葉が詰まる。
どう礼を言えばいいのか分からない。
そんな彼に、エリスは穏やかに微笑んだ。
「無理はしないでくださいね」
柔らかな声だった。
「体が弱っていただけです。少し休めば大丈夫ですよ」
それだけ言う。
代金も、見返りも求めない。
ただ静かに立ち上がる。
夕暮れの光が、煤煙の隙間から差し込んでいた。
その中を、銀髪の少女が静かに歩いていく。
長い髪が光を受けて揺れる。
誰かが小さく呟いた。
「……聖女みたいだ」
その言葉が路地に落ちる。
青年は遠ざかる背中を見つめていた。
(……あの子は)
胸の奥がざわめく。
(あの子は一体、何者なんだ)
その光景は、強烈に記憶へ刻まれた。
――そして回想は終わる。
場所は現在。
アシュクロフト邸、使用人控室。
「……その少女に、助けられたのです」
使用人は静かに言葉を結んだ。
部屋の中は沈黙に包まれていた。
侍女たちは顔を見合わせる。
「そんな……」
「でも……」
否定しようとして、言葉が続かない。
執事も腕を組んだまま黙っている。
完全な迷信の話だ。
だが目の前の使用人は嘘をつく人物ではない。
そして今、この屋敷では医者でも説明できない異常が起きている。
沈黙を破ったのはマーガレットだった。
「……その少女は」
彼女は静かに尋ねる。
「その少女は、今もスラムにいるの?」
使用人はすぐに頷いた。
「はい、奥様。今も診療をしていると聞いています」
再び沈黙が落ちる。
マーガレットは視線を落とした。
理性が囁く。
――そんなものは迷信だ。
だが母としての心が叫ぶ。
(それでも……)
高熱に苦しむ娘の顔が浮かぶ。
(助けたい)
たとえ迷信でも。
たとえ愚かな希望でも。
娘が救われる可能性があるなら。
マーガレットはゆっくり目を閉じた。
その胸の奥に、小さな希望が芽生えていた。
まだ行動にはならない。
だが確かに、芽生えていた。
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