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胎動する悪意

 引き続き、マスターの妄想を出力します。

 アシュクロフト邸の寝室には、重い沈黙が落ちていた。


 重厚なカーテンで半ば閉ざされた窓からは、灰色の空の光がわずかに差し込んでいる。


 豪奢な調度に囲まれた部屋だが、その空気は冷たい霧のように張りつめ、誰一人として気軽に声を出せる雰囲気ではなかった。


 ベッドの上には、エレノアが横たわっている。


 額には濡れた布が置かれ、呼吸は浅く、細い。白い頬は熱で赤く染まり、金色の巻き髪が枕に散らばっていた。


「お嬢様……」


 侍女の一人が不安そうに呟く。


 その横で、医者が小さくため息をついた。年配の男は診察器具を鞄へ戻しながら、困ったように眉をひそめる。


「……熱は高い。しかし、感染症の兆候は見当たりません」


 部屋にいた侍女たちが顔を見合わせる。


「では、原因は……?」


「分かりません」


 医者は率直に言った。


「脈も弱っておりますが、致命的な異常は見当たらない。体が病に侵されている様子でもない」


 彼は少し言葉を選び、続ける。


「……極度の疲労、あるいは精神的な要因かもしれません」


 侍女の一人が、はっと息を呑んだ。


 精神的。


 つまり——気の病。


 しかし。


 ベッドの上の少女を見れば、それがただの疲労でないことは誰の目にも明らかだった。


 エレノアの唇が、微かに動いた。


「……いいえ……」


 囁くような声。


 マーガレットが顔を上げる。


 ベッドの傍らに座っていた彼女は、娘の手を握ったまま祈りを続けていた。淡い金髪をまとめた姿は貴族夫人らしい気品を保っているが、瞳には明らかな疲労が滲んでいる。


「エレノア?」


 娘の瞼が震える。


 しかし、開かない。


 そして——


「……そんな……こと……」


 誰かと会話しているような言葉。


 侍女たちが不安げに顔を見合わせた。


「……誰と……」


 呟きかけた侍女の声は、途中で消えた。


 マーガレットが静かに首を振ったからだ。


「大丈夫よ」


 優しく言い聞かせるように、彼女は娘の手を撫でる。


「神様が守ってくださいます」


 そう言って、もう一度祈りを捧げる。


 だが。


 その祈りの最中——


 エレノアの唇が、微かに笑った。


「……あなた……また……来たの……?」


 その声は、夢の中のように柔らかい。


 けれど、聞いていた侍女の背筋を冷たいものが走った。


 誰もいない。


 部屋には、誰もいないのだ。


 それでも——


 エレノアは、確かに誰かと話していた。


 その時、彼女の意識は、まるで深い水の底に沈んでいるようだった。


 現実と夢の境界が曖昧になり、遠くから誰かの声が聞こえてくる。


 優しい声。


 低く、落ち着いた声。


 囁くように、語りかけてくる。


 ——心配はいらない。


 ——すぐに楽になる。


 ——君は特別なのだから。


 その声は不思議と心地よかった。


 温かく、包み込むようで。


 けれど同時に、底知れない何かが混ざっている。


 深い井戸を覗き込んだときのような、言葉にできない恐怖。


 それでも、声は優しく続く。


 ——君は選ばれた。


 ——理想的な器だ。


 エレノアは夢の中で、首を横に振る。


「……わたしは……」


 かすれた声。


 しかし、言葉は続かなかった。


 声が、すぐそばで囁いたからだ。


 ——大丈夫。


 ——すぐに一つになれる。


 その瞬間。


 エレノアの体が、びくりと震えた。


 マーガレットが慌てて顔を上げる。


「エレノア?」


 しかし娘は再び静かになり、熱に浮かされたような呼吸を繰り返すだけだった。


 部屋の空気は、重く沈んでいく。


 医者は静かに頭を下げた。


「……本日はこれ以上できることがありません。薬は置いていきますが」


 その言葉は、半ば敗北宣言だった。


 マーガレットはただ頷く。


「……ありがとうございます」


 医者が去ると、侍女たちも静かに頭を下げて部屋を出ていった。


 寝室に残ったのは、母と娘だけだった。


 そして——


 見えない何か。


 部屋の隅で、影がわずかに揺れた。


 まるで。


 笑うように。




 同じ頃。


 屋敷の使用人控室では、緊張した空気が漂っていた。


「……お嬢様、また熱が上がったそうだ」


 年配の執事が低く言う。


「医者でも原因が分からないんだと」


 若い侍女が顔を青くした。


「そんな……」


「本当に病気なのかしら……」


 別の侍女が、恐る恐る言う。


 その言葉に、部屋の空気が凍った。


「……よしなさい」


 年配の女中が小声で制した。


「そんなこと、口にするものじゃありません」


 だが。


 不安は消えない。


「でも……」


 侍女は小さく呟く。


「夜中に、お嬢様が誰かと話してるって……」


 誰もいないのに。


 その言葉は最後まで続かなかった。


 皆が同じことを思っていたからだ。


 不気味な沈黙が落ちる。


 そして。


 一人の男が、そっと口を開いた。


 若い使用人。


 他の者よりも、少し粗末な身なりをしている。


 彼は視線を落としたまま、躊躇うように言った。


「……迷信かもしれませんが」


 全員の視線が集まる。


 彼はさらに小さな声になった。


「……スラムに、変な噂があるんです」


「噂?」


 執事が眉をひそめる。


「どんな?」


 使用人はしばらく迷った。


 こんな話をすれば、笑われるかもしれない。


 貴族の屋敷で、スラムの迷信など。


 だが。


 それでも——


 何もしないよりはましだ。


 彼は意を決して言った。


「人を触っただけで、治す少女がいるって……」


 部屋が静まり返る。


「……は?」


 侍女が呆れた声を出した。


「そんなの——」


「スラムの聖女、って呼ばれてるそうです」


 その言葉は、奇妙に重く響いた。




 その会話を——


 廊下の向こうで、マーガレットが聞いていた。


 足を止める。


 使用人控室の扉は半開きだった。


 中から聞こえる声。


「……スラムの聖女?」


 思わず、扉を押した。


 きい、と音が鳴る。


 使用人たちが一斉に振り向いた。


「奥様……!」


 慌てて口をつぐむ。


 だが、マーガレットは叱らなかった。


 むしろ、静かに言った。


「続けて」


「……え?」


「今の話」


 彼女の声は穏やかだった。


 だが、どこか必死だった。


「その少女のことを、教えて」


 使用人たちは戸惑う。


 だが。


 先ほど話していた男が、震える声で言った。


「……スラムで、人を治す少女がいるんです」


「触れただけで?」


「……はい」


 マーガレットの胸が、微かに揺れる。


 奇跡。


 そんなもの——あるはずがない。


 分かっている。


 だが。


 もし。


 もし、本当に——。


 彼女は静かに言った。


「どうして、そんな話を知っているの?」


 使用人は、視線を落とした。


 しばらく黙る。


 そして。


 ゆっくりと口を開いた。


「……実は」


 震える声。


「私の母も——」


 言葉が途切れる。


 部屋の空気が、張りつめる。


 使用人は、息を吸い込んだ。


「……その少女に、助けられたのです」


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