神の家にて
引き続き、マスターの妄想を出力します。
聖座大聖堂の相談室は、昼であるにもかかわらず静かな薄暗さに包まれていた。
厚い石壁が外の喧騒を遮り、窓から差し込む光だけが部屋の中央の机を淡く照らしている。
壁際には聖人の肖像画が並び、香の匂いがかすかに残っていた。
その机の前に、エレノア・アシュクロフトは静かに腰掛けていた。
背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねている。所作は完璧な令嬢のそれだったが、指先だけがわずかに震えている。
「……それで?」
向かいに座る若い神父――エドワードは、穏やかな声で続きを促した。まだ若いが、整えられた襟元と落ち着いた声音は、教会人らしい安心感を漂わせている。
エレノアは少しだけ視線を落とした。
「最近……少し体調が優れませんの」
「ほう」
「眠れない夜が増えまして……それに」
言葉が止まる。口に出してしまっていいのか、迷っているのだ。だが、ここは神の家だ。神父は神の導きを授ける人。――だから、話すべきなのだ。
エレノアは小さく息を吸った。
「……影が、見えるのです」
エドワードの眉が、わずかに動いた。
「影、ですか」
「はい」
エレノアは慎重に言葉を選びながら続けた。
「夜だけではありません。昼間でも……ふとした瞬間に、視界の端に黒い影が見えるのです」
彼女は指先を握りしめる。
「振り向くと……誰もいません」
沈黙が落ちた。
エドワードは腕を組み、考えるように視線を下げる。その仕草は決して軽んじているようには見えない。むしろ誠実な聞き方だった。
「なるほど」
彼はゆっくりと頷いた。
「それは、いつ頃からでしょう」
「……一週間ほど前からです」
「他に、何か異変は?」
エレノアは一瞬ためらった。だが、ここまで話してしまったのだ。隠しても意味はない。
「……声も」
「声?」
「はい」
彼女は声を落とした。
「誰もいないはずなのに……囁く声が聞こえるのです」
室内の空気が、ほんの少し重くなる。
エドワードは静かに問い返した。
「どんな声でしょう」
「……分かりません」
エレノアは首を振った。
「低くて……よく聞き取れなくて……」
そして、ぽつりと付け加えた。
「でも……私に話しかけているのは分かります」
言い終えると、彼女は神父の顔を見た。その瞳には、期待と不安が混ざっている。――神父様なら分かるかもしれない。神様に近い人なら。
エドワードはしばらく黙っていた。やがて、穏やかな微笑を浮かべる。
「なるほど」
その声音は落ち着いていた。
「最近、疲れてはいませんか?」
エレノアは少し驚いた。
「え……?」
「社交や勉学で忙しいでしょう。若い方にはよくあるのです。心身の疲労が重なると、そうした現象が起きることがあります」
彼は優しく続ける。
「影が見える。声が聞こえる。どちらも珍しいことではありません」
エレノアの胸が、わずかに冷えた。――珍しくない?
エドワードは穏やかな口調のまま言った。
「気のせいでしょう」
その言葉は柔らかかった。だが、確かに。彼はそれを深刻な異常とは受け取っていなかった。
「しばらく休養を取ると良いでしょう。祈りも心を落ち着かせてくれます」
エドワードは机の上で指を組む。
「神は常に我々を見守っておられます」
エレノアは唇を結んだ。それは、教会で何度も聞いてきた言葉だった。
「……はい」
小さく答える。だが胸の奥に、何かが残っていた。納得していない。だが、否定する勇気もない。
(……私がおかしいのかもしれない)
そんな考えが、頭をよぎる。
エドワードは優しく微笑んだ。
「もし不安が続くようなら、またいらしてください」
「ありがとうございます、神父様」
エレノアは立ち上がり、丁寧に一礼した。
相談室を出ると、大聖堂の回廊に出た。長い石の廊下。高い天井。彩色ガラスから差し込む淡い光。荘厳な静けさが広がっている。
エレノアはゆっくり歩き出した。
靴音が、石床に小さく響く。
(……気のせい)
神父はそう言った。
(きっとそうなのよ)
そう思おうとする。だが胸の奥にある冷たい感覚は消えない。
(祈っても……消えないのに)
その瞬間だった。
耳元で、低い囁きがした。
『――そうだ』
エレノアの足が止まった。背筋が凍る。
『気のせいだ』
声。確かに声だった。低く、冷たい声。
『誰にも分からない』
エレノアはゆっくり振り向いた。
だが――
誰もいない。
回廊は静まり返っている。祈りに来た人々の姿もない。
「……」
彼女は息を呑んだ。
その時、視界の端で。
壁際の影が――
ほんの一瞬、揺れた。
まるで生き物のように。
エレノアの心臓が強く打つ。
(今……誰か……)
だが次の瞬間、影はただの影だった。何も起きていない。静かな回廊だけが続いている。
エレノアは立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと歩き出す。大聖堂の扉を抜けると、外の空気が頬に触れた。
灰色の雲に覆われた空。石炭の匂いが漂う都市の風。グレイヘイヴンの日常だ。
だがエレノアの胸の奥には、冷たいものが残ったままだった。
その夜。
アシュクロフト邸の寝室は静まり返っていた。重いカーテンの向こうで風が鳴り、壁の時計が静かに刻を刻んでいる。
ベッドの上で、エレノアは膝をついていた。
手を組み、目を閉じる。
「……主よ」
小さく祈る。
「どうか、私をお守りください」
声は震えていた。
「もし私が弱いだけなら……どうか強さを与えてください」
祈りの言葉を紡ぐ。だが、その途中で。
低い声が割り込んだ。
『無駄だ』
エレノアの身体が硬直した。
『祈っても無駄だ』
声は、はっきりと聞こえた。今度は幻ではない。確かに、すぐ近くで。
「……」
エレノアはゆっくり顔を上げた。寝室には誰もいない。
だが、鏡の中で。
背後の影が、わずかに歪んでいた。
まるで、もう一つの形を取ろうとしているかのように。
声が囁く。
『お前は美しい』
冷たい声だった。
『理想的な器だ』
エレノアの呼吸が乱れる。胸が締め付けられる。
「やめて……」
思わず呟く。だが声は止まらない。
『逃げられない』
影が、わずかに伸びる。
『お前は選ばれた』
エレノアは必死に祈り続けた。
「神様……」
声が震える。
「聞こえているのですか……」
だが。
その祈りのすぐ横で。
影は静かに揺れていた。
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