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邪悪の兆し

 引き続き、マスターの妄想を出力します。

 夜だった。


 アシュクロフト邸の高い窓の外では、月が雲に隠れ、庭園の樹々が風に揺れている。その寝室のベッドの上で、エレノア・アシュクロフトは突然、はっと目を覚ました。


「……っ」


 胸が激しく上下している。夢を見ていた。


 嫌な夢だ。


 それは黒い影だった。人の形にも見えるが、顔も輪郭も曖昧で、ただ闇だけがそこに立っている。


 そして――。


『お前は美しい器だ』


 耳元で囁くような声。


 男とも女ともつかない、低く湿った声だった。


 エレノアは震える手で胸元の十字架を握る。白い寝間着の上から、ぎゅっと。


「……神よ」


 声がかすれる。


「どうか……どうか、私をお守りください」


 幼い頃から慣れ親しんだ祈りの言葉を口にする。それだけで、少しだけ心が落ち着く気がした。


 夢だ。きっと夢。


 そう自分に言い聞かせる。


(きっと夢です……そうに違いありません)


 深呼吸をする。乱れた呼吸が少しずつ整う。


 窓の外では夜風が木々を揺らし、葉が擦れ合う音がかすかに聞こえる。邸は静まり返っていた。


 いつもの夜だ。


 何も変わらない。何も――。


『祈っても無駄だ』


「っ!」


 声。


 耳元。


 はっきり聞こえた。


 エレノアは思わずベッドの上で体を起こした。周囲を見回す。


 誰もいない。


 広い寝室には月明かりが差し込み、家具の影が長く伸びているだけだった。


「……誰、ですか?」


 返事はない。


 だが。


 胸の奥に、冷たい何かが残っていた。


(……怖い)


 その夜、エレノアはほとんど眠れなかった。




 翌日。


 アシュクロフト邸の庭園は、柔らかな日差しに包まれていた。


 整えられた芝生。白い石の小道。季節の花が咲き誇る花壇。


 その中央のベンチに、エレノアは座っていた。


 膝の上には本。しかし、ページはほとんど進んでいない。


 視線が何度も動く。


 庭園の端。木陰。背後。


 振り向く。


 誰もいない。


 それでも――。


(……見られている気がする)


 背中がぞくりとする。


 本に目を落とす。


 文字が頭に入らない。


「エレノア?」


 優しい声がした。


 振り向くと、母――アシュクロフト夫人が立っていた。


「お母様……」


「顔色が良くないわ」


 母はエレノアの隣に腰を下ろし、心配そうに覗き込む。


「昨夜、よく眠れなかったの?」


 エレノアは少し迷ってから、口を開いた。


「……最近、変な夢を見るんです」


「夢?」


「黒い影が……私を見ていて……」


 言葉を選びながら、昨夜の出来事を話す。囁き声のことも。


 母は最後まで静かに聞いていた。


 そして、微笑む。


「きっと疲れているのよ」


 その声はとても優しかった。


「あなたは最近、勉強も祈りも頑張りすぎているもの」


「……そうでしょうか」


「ええ。少し休みなさい」


 母はエレノアの頭を撫でた。


「夢なんて、疲れた心が見せるものよ」


 その言葉に、エレノアは少し安心する。


(そう……きっとそうです)


 きっと夢。


 きっと疲れ。


 自分にそう言い聞かせる。


 その時。


 花壇の影が、わずかに揺れた。


「……?」


 エレノアは思わず振り向く。


 誰もいない。


 風もない。


 それでも。


(どうして……)


 背中が冷える。


(誰かに見られている気がするの?)




 その日の午後。


 アシュクロフト邸の私設礼拝堂。


 小さな聖堂だが、天井は高く、色ガラスの窓から光が差し込んでいる。静寂の空間だった。


 祭壇の前で、エレノアは膝をついていた。


「神よ……」


 両手を組み、祈る。


「どうか……どうか私をお守りください」


 静かな祈り。


 礼拝堂には誰もいない。


 ただ、燭台の火が揺れているだけ。


(落ち着いて……)


 祈りは心を落ち着かせる。


 幼い頃からそうだった。


 不安な時。怖い時。


 神に祈れば、心は静かになる。


 そのはずだった。


『お前は祈るのが好きだな』


「……!」


 声。


 はっきりと。


 今度は夢ではない。


 エレノアは顔を上げる。


 礼拝堂には誰もいない。


 だが声は続く。


『純粋だ』


『清らかだ』


 低く、愉しむような声。


『理想的な器だ』


「やめて……」


 エレノアは震えながら祈りを続ける。


「神よ……神よ……」


 声は笑うようだった。


『祈れ』


『祈るがいい』


『お前の神が応えるかどうか』


 心臓が激しく鳴る。


(これは夢じゃない……)


 はっきり分かる。


(夢じゃない……)


 喉が震える。


(誰か……)


 祈りの言葉が崩れる。


(誰か……助けて……)




 夕刻。


 グレイヘイヴンの教会地区。


 石造りの聖座教会の前に、一台の馬車が止まった。


 御者が扉を開く。


 エレノアはゆっくりと降りた。


 巨大な教会の扉を見上げる。


 重厚な木製の扉。


 高い尖塔。


 ステンドグラス。


 ここなら。


(神父様なら……)


 震える手で扉に触れる。


 押す。


 扉が軋みながら開く。


 教会の中は薄暗く、静かだった。


 エレノアは一歩、足を踏み入れる。


 その瞬間。


『助けを求めるのか』


 頭の奥で声が囁く。


『無駄だ』


 エレノアはぎゅっと拳を握る。


(それでも……)


 一歩進む。


(それでも……神父様なら)


 礼拝堂の奥へ歩き出す。


 そして。


 この決断が、やがてアシュクロフト家を揺るがす事件の始まりになることを――


 まだ、誰も知らなかった。


 評価やブックマークをして頂けると、本作品のネタであるマスターの妄想がはかどる傾向にあります。

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