天才無免許医に私はなる!
引き続き、マスターの妄想を出力します。
石炭の煤が漂うスラムの路地は、いつもなら酔っ払いと野良犬しかいないはずの場所だった。
だがその日だけは違った。薄暗い路地の奥、崩れかけた煉瓦壁の前に、人が列を作っていた。
「次はこっちだ! 押すなって言ってんだろ!」
列の先頭で声を張り上げているのはジャックだった。小柄な体を必死に伸ばし、集まったスラム住民を押しとどめている。
「怪我してる奴から先だ! 熱だけの奴は後ろに回れ!」
怒鳴りながらも、その目はちらちらと少女の方を気にしていた。
路地の中央、木箱に腰掛けているのはエリスだった。
灰色の街の中で、彼女だけが妙に整っている。煤けた路地に不釣り合いなほど整った顔立ち。静かで落ち着いた仕草。触れるだけで傷を癒すその姿は、確かに奇跡めいていた。
エリスは膝をついた男の腕に手を添える。
「少し診せてください」
穏やかな声だった。
だが次の瞬間、男の腕に走っていた深い切り傷が、まるで時間が巻き戻るように閉じていく。
「……治った」
男が呆然と呟いた。
周囲がざわめく。
「嘘だろ……」
「さっきまで血が止まらなかったぞ」
「奇跡だ……」
「聖女様だ……!」
エリスは小さく微笑んだ。
「もう大丈夫ですよ。無理はしないでください」
だが内心では。
(いや待て待て待て……)
エリスは目の前の光景を見回した。
列。
列。
列。
路地の奥まで人が並んでいる。
(なんで診療所みたいになってんの!?)
完全に順番待ちの患者だった。
腕を折った男。
咳き込む老婆。
頭から血を流した労働者。
(これ絶対イベント拡大フェーズだろ……)
ゲームだったら「評判が広まりました」ってログが出るやつだ。
エリスは次の患者に手を差し出す。
「次の方、どうぞ」
少女の手が触れると、また傷が消える。
どよめきが広がる。
「すげえ……」
「本当に触っただけで治る……」
ジャックが声を張り上げた。
「だから押すなって言ってんだろ!」
だがその顔は、半分呆れていた。
少女は次々と人を治していく。
迷いなく。
疲れも見せず。
(いやこれ完全にイベント進行してるやつだろ)
エリスは内心でため息をついた。
(どうしてこうなった)
路地はもう完全に。
即席診療所だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
夕方になり、ようやく列が途切れた。
人の気配が消えた路地には、疲れた静けさが戻っている。
エリスは廃屋の床に座り込み、深く息を吐いた。
「……終わりましたね」
静かな声だった。
だが内心は違う。
(疲れたぁぁぁ……!)
隣ではジャックが袋をひっくり返していた。
「今日の分だ」
床に転がるのは、パン、干し肉、リンゴ。
あと銅貨が数枚。
エリスはそれを見た。
沈黙。
「……」
さらに沈黙。
「……」
ジャックが肩をすくめた。
「みんな感謝してたぜ」
「ええ」
エリスは微笑んだ。
「それは良かったです」
だが内心では。
(完全に慈善事業じゃねーか!!)
思わず天井を見上げた。
(ブラック・ジャック路線なのに患者が貧民しかいない!)
漫画だったら、今頃こういう展開だ。
「この手術代は三千万だ」
バン!
札束。
だが現実は。
パン。
干し肉。
リンゴ。
(生活費足りねぇ……)
エリスは真顔になった。
「……ジャック」
「なんだ」
「これでは生活できません」
非常に冷静な声だった。
ジャックは笑った。
「そりゃそうだろ」
あっさり言う。
「ここスラムだぞ」
エリスは額を押さえた。
(知ってたけどさ……)
でも現実として突きつけられるときつい。
(どうする)
この能力。
間違いなくチートだ。
だが。
(患者が貧民しかいないと意味ない!!)
根本的問題だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
廃屋の窓から、灰色の空が見えていた。
遠くに煙突が並び、蒸気機関の煙が空を覆っている。
エリスは腕を組んだ。
「……決めました」
真剣な声だった。
ジャックが首を傾げる。
「なにを?」
エリスは静かに宣言した。
「私は」
少し間を置いて。
「貧民街のブラック・ジャックになります」
沈黙。
ジャックが瞬きをする。
「……なんだそれ」
理解ゼロだった。
エリスは真顔で説明する。
「天才外科医です」
「外科医?」
「金持ちからは大金を取り、貧しい人は助ける」
ジャックは腕を組んだ。
「つまり」
「つまり?」
「今と同じじゃね?」
エリスは固まった。
「……」
確かに。
今のところ。
貧民しかいない。
(違うんだよ)
エリスは拳を握った。
(医者は金持ち患者が必要なんだよ!)
これ大事。
医療経済の基本。
「問題は」
エリスは窓の外へ視線を向けた。
遠く。
煤煙の向こうに灯りが見える。
貴族地区。
ハイタウン。
石造の屋敷と庭園が並ぶ場所。
(あそこに患者がいれば一発なんだが)
富豪患者一人。
それだけで生活安定。
(ゲームなら絶対ここでイベント発生するんだが)
エリスは小さく呟いた。
「金持ちの患者が欲しいですね……」
ジャックが笑った。
「そんな奴らスラムに来ねぇよ」
即答だった。
エリスは苦笑する。
確かにそうだ。
スラムに来る貴族などいない。
だが。
もし。
向こうから来たら?
エリスは遠くの灯りを見つめた。
煤煙の街。
灰の港。
そのどこかで。
まだ知らない事件が動き始めていることを。
彼女はまだ知らなかった。
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